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「ひ……っ!!」
吹雪がびくりと伸び上がるように身をすくめる。
ビアジョッキを幾つか両手に持ち厨房へ下がった時、不意にパーティションの影から伸びた手が肩に置かれたからだ。
それが豪炎寺であることは分かっているのだけれど―――
「すまん、驚かせたか」
「ううん……大丈夫」
「気負う必要はない。自然に俺に合わせていればいい」
「……わかった……」
吹雪は壁に少し凭れ胸に手を当てて、短い息を吐く。
吹雪がそこにいるだけで相手の警戒心が弛みつけ入りやすくなることを、豪炎寺は本能で知っている。
空気も読めるし機転もきいて、吹雪と組めば有利な空間が作れると読んでいた。
しばらくのあいだ豪炎寺は吹雪の傍らに立って他愛ない話を続ける。
なるべく普段どおりの吹雪を取り戻させるためだ。
ラウンジの片隅で顔を寄せ合い、声をひそめて話す二人はとても親密げに見えたのかも知れない。
「お二人、とてもお似合いですよ」
「っ……」
サギヌマの冷やかすような囁きに、豪炎寺が眉間に皺を寄せて振り向いた。
「美貌のウェイトレスを口説く精鋭の音楽家といったところですね」
「からかうな」
やりとりしながらサギヌマが、自分の耳あたりを指先で触れる。
それは盗聴などの準備が整った合図だった。
ターゲットの来店以降は客を断っていて、少し空いている店内。
ほどよく和んだテーブルの雰囲気を遠目に見ながら、豪炎寺はピアノの方に視線を移した。
「次の演奏が終わったら近づこう。お前はサギヌマからビアジョッキを渡されたら、それを運んでテーブルに来てくれ」
静かな口調だが、火蓋が落とされたのだと肌で感じた吹雪は、立ち去ろうとする彼のスーツの裾を思わず掴む。
「待って……」
黙って振り返る豪炎寺の視線が、吹雪の瞳に釘付けになる。
「キス……して」
眉をひそめ見上げてくる瞳が熱に潤んで、豪炎寺の心を捉えて離さない。
「足が……ふるえるから……とめて……ほしい……」
「………」
グイッと吹雪の身体が引き寄せられたかと思うと、おもむろに唇が重なった。
緊張のせいか冷たく少し乾いた吹雪の唇が、豪炎寺の口唇に吸いとられて熱を帯びる。
「…っ……ふ……」
互いの唾液が絡むような深い口づけ。
キスをすればふるえが止まる理由は、豪炎寺自身もわかっていた。
早まる鼓動とあがる息と熱………
触れ合えば、恍惚に似た興奮にすべてを持っていかれるのはお互い同じだから。
「―――止そう」
綺麗なラインが浮き出た制服のウエストをまさぐっていた手が、密着させていた細い腰をそのまま引き離す。
「これじゃ揶揄されたとおりだ」
美人ウェイトレスに夢中な音楽家……溺れそうな自分に歯止めをかけるように、豪炎寺は口元を拭い背を向けた。
吹雪は肩で長い息をしながらその背中に蕩けた視線を送り、キスの余韻をなぞるように指先で濡れた口の周りをたどる。
もう何も怖くない―――熱くなった身体を自ら包むように二の腕を抱き、吹雪は例のテーブルにゆるりと目をやった。
会場に、流れはじめるピアノ。
火照る肌を撫でていくような旋律に心奪われている吹雪―――
だが、今夜は少し違う。
数曲弾いていくにつれ、吹雪は豪炎寺の織り成す音色の変化に驚く。
この演奏は、彼の音楽ではない。
これは――Naziの目指す新世界。
“芸術”と“カリスマ”による『静かな支配』を表現している音色だと吹雪は直感する。
それがテーブルにいるターゲットの琴線に触れたのも手に取るように分かった。
大胆かつ繊細、そして華麗なマズルカのリズムと音色に釣られるように、ピアノの方にチラチラと視線を送り始める。
やがてターゲットは、近くを歩いていたサギヌマに何か耳打ちした。
演奏を終えた豪炎寺の元へ、サギヌマが飲み物のグラスを運ぶ。
ターゲットからの賞賛の贈り物ということだろうか。
あらかじめ好みの曲風を調べてあったのか。
気に入った演奏家にああして働きかける性質なことも全部……
グラスを手にした豪炎寺がテーブルに近づいていく。
吹雪は少し身を固くしてそれを見守っていたが、豪炎寺が合流した場はすぐに沸き乾杯する。
そのまま盛り上がり、酒も加速しているように見えた。
「吹雪さん。そろそろこれを……」
ハッとして振り返ると、サギヌマがジョッキを載せたトレーを吹雪に渡した。
心の準備は出来ていた。
すべてがこちらの思い通りに滑り出している。
吹雪はトレーを両手に持ち、迷わず足を踏み出した。
テーブルは熱く盛り上がっている。
音楽談義なのか国家論なのか……楽しげに輝くターゲットの目が、ビールを運んできた吹雪を見て止まる。
「おお、ありがとう、お嬢さん。君はよく見かける子だね」
「え……?」
「いや、急に失礼だったかな。でも案外力のある細い腕と可愛らしい君の顔。一度見たら忘れられなくてね」
まさかターゲットの方から声が掛かるとは……
よりによって二人とも……全く魅力的な方々だ。
盗聴しながらサギヌマは苦笑する。
口説き文句のような言葉にも、肯定でも否定でもなく柔らかく受け流す吹雪は、誰の目にもスマートで可憐に映った。
それなりに緊張しているのだが、そんな素振りも一切見えてない。
「彼女は今夜限りでこの店をやめるんです。双子の兄が音楽家なので、よければ今度ご紹介しますよ」
吹雪に身を乗り出すように近づくターゲットの間に割り込むように豪炎寺が言った。
「なんだ。辞めるのか……せっかくお近づきになれたのに残念だな」
酔いなのか興奮なのか……縮れた茶毛の髭面を赤くしたターゲットは、惜しそうに吹雪を上から下まで眺めた。
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