黄昏のむこう側 | ナノ
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血と汗と埃と……かびた臭いが混じる廃れた学校の体育倉庫の一角。積み上げた跳び箱で囲われた一角に敷かれたマットの上に横たわる少年の前で膝を折り、豪炎寺が覗き込む。

「………どうですか?」

「状態はよくないが………回復は可能だ」

顔を上げたドクターの真っ直ぐな眼光が吹雪を捉えた。
「この子は今、栄養と水分が底をついている。補給さえすれば………」

「そうだ、水を…………雪村、ほらっ……」

「待て」

渡されていた水筒の中身を口に含み雪村に顔を近づける吹雪の肩を、豪炎寺が掴んで引き戻す。

「衰弱した体には点滴が早いだろう………この子を数日預からせてくれないか?」

「っ…………それは…………勿論いいけど………」
吹雪は眉をひそめ潤んだ瞳で豪炎寺を見上げる。
「…………そんなことして君は……大丈夫なの?」

「俺の親戚と言えば、軍も咎めないだろう」

「………えっ………そんな簡単に……」
吹雪は素直に驚き、そして実感する。
国民が鬼畜と叫んでいた敵国の人々にも情があるのだという、とても簡単な事実を………

「…………なら………ぜひ………お願いします」

「わかった」

豪炎寺は頷いて、雪村を抱き上げようと手を伸ばす。
が、その瞬間、見知らぬ気配を敏感に察知した雪村が飛び跳ねるように起き上がった。

「…………わぁあ!!何すんだ!寄るな!糞っ……………進駐軍め!!」

「雪村、落ち着いて。この人は違う」

こんな力がこの子のどこに残っていたのだろう…………純粋な子供に根づいた深い嫌悪。暴れる雪村を抱きしめながら吹雪は心を痛めた。

「やられ………るぞっ、せんせ……い、逃げ……て…………」

朦朧とした意識が途切れ、雪村は吹雪の腕の中で気を失った。

「幻覚症状がでているな………治療を急いだ方がいい。このまま預かるぞ」

豪炎寺は痩せた少年の身体を、軽々と吹雪から受け取り肩にもたせかけて背負う。

「…………僕の生徒を………どうかお願いします」

「ああ、任せてくれ」

頭を下げる吹雪に頷き、背を向けた豪炎寺は足を止めて、ふと零す。

「お前をここに一人で残すのも心配なんだが……」

「僕は大丈夫。こう見えて“熊殺し”って呼ばれてるんだから」

吹雪は顔を上げて笑顔を作り袖を捲って、振り向いた豪炎寺に力こぶをつくって見せた。

「フッ……頼もしいな。だが油断は禁物だぞ」

呼び名とは程遠い可憐な容姿と白い細腕に………豪炎寺は笑いを噛み殺し、眩しげに目を細めた。

「心配しないで、もちろん用心はするから」

「ああ。また明日来るから無闇に外に出るなよ」

「………はぁい………」

雪村を背負った豪炎寺が校門の向こうへ消えていくのを、体育倉庫のドアの影で見守っていた吹雪は、大きく肩で息をついた。

油断は禁物……………かぁ。
吹雪は跳び箱に囲まれたマットにひらりと移ると、そこへ寝そべり染みだらけの天井を見上げる。

…………いつにない解放感からか、汚れた天井さえ違う景色に見えるのが不思議だ。

雪村が体調を崩したここ数日は、特に精神が不安定になっていた。
不安にかられて眠れずに………とうとう今朝は逃げるようにここを離れた。
教え子が餓死しかけている現実から逃げたいとか、
何もしてやれない自分の無力さから目をそむけたいばかりに――――

そしてあの界隈に迷い込み、米兵に誘われるまま奴らのオモチャになり果てようとしていた。
それが対価に見合った行為なのか、判断する力がすっぽり欠落したままで――――


偶然にも、あの声がその空洞を埋めたのだ。

“――――――何してる?”

助けて…………と、全身全霊で強く思った。
鮮明な生の感覚が身体じゅうに漲った瞬間だった。

それは今もさめやらずに………脳裏に刻まれた彼とのやり取りが、次々フラッシュバックする………

“部隊の者が無礼を働き、申し訳なかった。身体は………大丈夫ですか?”

「………っ…………」

”その必要はない。今すぐ診よう”

「……………はぁ…………っ…」

診られた時の感覚を思い出した肌が生々しい熱が疼いて、吹雪はマットの上で身悶える。

“動くな………すぐに終わる”

「………っ………はっ…………ぁっ…………」

知らず知らずに手が動いていた。
腰紐をほどいたズボンのなかで、脳内の彼の声に誘われ、後ろにまで指を伸ばして……………

“随分と綺麗だな。異常どころか使った痕も分からない”

「…………っ……………あっ…………………はぁっ………」

頭の中が真っ白になって、肌が甘酸っぱく痺れる…………気づけば、飛沫が薄汚れたマットの上に白い花びらのように散っている。

「…………ハッ、いけないっ………」

僕としたことが………吹雪は慌ててタオルでマットを拭った。
どうしよう………彼のせいで身体がおかしくなっている?


思えば雪村の方が、余程冷静だ。

あの子は近づく彼の気配に、朦朧とした意識の中で死に物狂いで飛び退いた。
日本人医師とはいえ他国軍の彼を、僕は信じすぎじゃないだろうか―――?

頭ではそう思うのに結局は、呑気なものだ。

戸惑いと不安と罪悪感は、いつしか眠気と疲労にすりかわり、吹雪はマットにうずくまるようにくずれる。
ほどけた腰紐を自らの手にぐるぐる巻いて鼻先に押しつけて…………まるで彼の匂いを貪るように、深い眠りに沈み込んで……………


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