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「わ……なんか、今日景色きれい……」
見慣れた町の景色を、目を輝かせて見渡しながら軽やかな足取りで進む吹雪を、豪炎寺がゆっくりと追いかける。
「次の通りを右だ。よそ見しすぎて転ぶなよ」
視界の明瞭さは、おそらく栄養失調の改善兆候だが、そんなことはどうだっていい。
はしゃぐ背中に、ただ豪炎寺は目を細めた。
そこを曲がれば海が見える。
向こうに建っている見たことない建物に、無邪気に驚く吹雪の声が聞こえてくる。
無邪気さに翻弄され、それ以上に癒やされてもいた。
とめどなく沸き上がる感情に胸を熱くしながら…………深入りは禁物だと、本能が制す。
「あそこに門が見えるだろう。明日朝8時に雪村を迎えに来れるか」
「8時……?」
「ああ。時間はこれを見るといい」
豪炎寺は自分の腕時計を外して、吹雪の手首につけた。
「………ありがとう。明日まで借りるね」
吹雪は時計をはめた手を握って胸に当て、その上にもう片方の手を大事そうに添えた。
「また明日」と、手を振りあって別れたけれど………豪炎寺は“しばらく会わないようにしよう”と、秘かに心を決めていた。
兵舎に入ると、奥の厨房が何やら騒がしい。
言い争うような声が途切れ、飛び出してきたブラックの男とすれ違う。
調理補助として働く男だったが、懇ろになったこの町の女と駆け落ちしたのだと、後の噂で聞いた。
「っ………」
目を開けた雪村の視界の端が、あのドクターの姿を捉える。
“こいつ”がここに居ると言うことは、おそらく今は勤務を終えた、夜なのだろう。
抵抗するように体を捩り、診療の手を振り払おうとするが、ドクターはそれをものともせずに、的確な処置を続けている。
褐色の手の甲には、朝の診療時に思い切り噛みついてやった歯形がちらりと見えて………雪村はため息とともに脱力した。
無駄だ、馬鹿らしい。
噛まれたってどうしたって“こいつ”は迷いなく俺を快方へと向かわせるのだから。
その横顔の静かな迫力に………ふと安心感さえ覚えてしまう自分が、まったく情けない。
「何と引き換えに………俺のこと引き受けたんです?」
「…………?」
そんなに的外れな問いかけだっただろうか?
ドクターに不思議そうな顔で黙られて、雪村は子どもらしく首を傾げた。
「………まあ、貴方なら“医者として当然のことをした”とか言うんだろうけど……」
「それは違う。お前の治療を引き受けたのは、吹雪の不安を取り除くためでしかない」
綺麗事で片付けるな、と釘を刺すつもりだったのに………ドクターの答えが想像に反してあからさまで驚く。
「………本当にそれだけ?」
「ああ、それだけだ」
「じゃあ………これは仕事じゃないってこと?」
「その通り、全くの俺の意志だ。つまり“治療費”も必要ない」
雪村の心配を見抜いたような返事に、一瞬胸を撫で下ろす。
だが、心のどこかに残るモヤモヤが完全に拭い去ることができないのは、何故だろう?
…………そうだ。
吹雪先生はああみえて気高い男だから、ドクターにタダ働きさせるような真似はしないだろう。
身ひとつで暮らしを繋ぐ彼が、対価に差し出すものと言えば、もう………
“裸で絡み合うドクターと吹雪の姿”がやけに鮮明に脳裏に浮かんで、ドカンと頭に血が上る。
「…………どうした?血圧がかなり高いが……」
顔を赤くする雪村と計器の数値に目を見開いて、豪炎寺が訊ねる。
「畜生、吹雪先生から何か奪ったら……俺はアンタを殺すからな!」
恩人に対して失礼な言い草だっただろうか………
込み上げる感情を抑えきれずに、雪村は腕を預けたままベッドから豪炎寺を睨みつける。
「わかった。ならお前もその気概で吹雪を守り抜け」
「…………」
ぷつりと途切れた会話。
雪村が言葉を失くしたのは、昂る自分に負けないくらいの燃え滾る眼差しで、ドクターに睨み返されて、固まったからだ。
まさか、こいつ……………進駐軍のくせして先生のことを………?
「鎮静剤を入れるぞ。明日朝には吹雪の元へ戻してやる。今晩はゆっくり休め」
暴走する思春期少年を諌める口調で、ドクターが言う。
お前こそ落ち着けよ、と、布団を掛けられた雪村は腹の底で毒づいた。
吹雪先生は凄く魅力的な人だ。
奴はその魅力に参っている男の一人に違いない。
だがそいつは俺に“吹雪を守り抜け”と言った。
つまり、先生のことを託されたのだ。
それも立派な一人前の男から…………そう思うと、なんだか誇らしい気分になって、雪村は目を閉じた。
先生は完璧な男で、今まで自分のことを“お荷物”としか思ってなかったから…………
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