二日目


暗い樹海を抜けて近くの宿へ泊まった鬼灯は、連れてきた名前の眠る姿を見てどうしたものかとため息を吐いた。
目の前で死なれるなど不愉快なこと。こうして助け出したのはそれだけの理由ではないかもしれない。
朝になっても名前は起きる気配がなく、緊張していた糸が途切れて疲れが溜まっているのだろう。
うなされる彼女の手を握ってみたのは、冷徹と言われる鬼神の気まぐれか。そうすることで名前は少しだけ安心したような表情になるのだ。

「それにしても……」

鬼灯は窓から見える富士を眺めながら自分の問題に思考を移した。
人の心配をしている場合ではない。地獄に帰れないのは鬼灯にとって大問題。木霊が不在だったのは仕方ないとして、どこからも地獄に入れないというのはいささか疑問だ。
そんなことを考えていればようやく名前が目を覚ました。

「鬼灯さん…?ここは?」
「富士の近くの宿です。気を失ってしまったあなたを連れて泊まったんです」
「そう…ですか……」

ゆっくりと起き上がりながら窓の外を見つめる。一日前の元気な姿が嘘のように、名前は疲れたように生気が無い。
頼りなく伸ばされる手に鬼灯は自分の手を重ねた。

「私が眠っている間、握っていてくれました?」
「うなされていたのでつい。気づいていましたか、すみません」
「いえ、なんだか心強かった気がします。ありがとうございます」

青白い肌によほどのことがあったのだと窺える。関わるべきでないとわかっていても、ここまでくれば見捨てることはできない。鬼灯は補佐官としての立場に苛立つように心の中で舌打ちを零す。
鬼灯の心情を察してか、名前は彼の手を離した。どうやら自分が面倒だと思われたと感じたらしい。

「迷惑かけてごめんなさい。放っておいていいですよ。地獄には帰らないんですか?」
「帰れないんです。結局手がかりはなく立ち往生しているところです」
「そうなんですか」

その辺の事情はよくわからない名前だが、地獄の鬼だという鬼灯が人間である自分を心配して一緒にいてくれることに不思議な感情が芽生える。
どうしてただの人間にそこまで付き合ってくれるのだろうか。鬼というと怖いイメージだが、目の前にいる鬼灯はとても人間味のある優しい人物で、手を握ってくれたことが名前にとって温かかった。死にたいと思っていた感情が少しだけ和らいだ気がした。

「不思議です、鬼灯さんは」
「何がですか」
「私に付き添ってくれて」
「成り行きですよ」

ただ目の前で死のうとしていた人を放っておけなかっただけ。地獄に帰れないのなら、それを考えている間に人助けくらいする。思い浮かぶ言い訳を鬼灯は飲み込んだ。
一人の人間と深く関わること自体、あの世の存在としてはタブーだ。
何をしているんだという後悔と目の前で弱る彼女がもどかしい。見捨て置けば更に後悔するような気がして手を差し伸べてしまう。

視線を落としたままの鬼灯に名前は手を伸ばした。
離した手をもう一度握って、優しい鬼にひとつのお願いをしてみる。

「もう少しだけ一緒にいてくれませんか?」

名前の小さな呟きに鬼灯は彼女の目を見つめた。
もう少しとはどれくらいか。家に帰るくらいなら付き合ってもいいと思っていた鬼灯は、次の言葉に考えることになる。

「地獄に帰るまでの間、私と一緒にいてください」

揺れる瞳は不安を表している。心細くて誰かと一緒にいたくて、頼れるのが目の前の鬼しかいない。
相手は地獄の住人だというのに、人間が知ってはいい存在ではないというのに、名前はまっすぐと鬼灯を見ていた。
地獄に帰るまでの間。それがどれくらいなのかは鬼灯には検討がつかない。明日にでも帰るかもしれないし、時間がかかるかもしれない。
長時間特定の人間と一緒にいるのは危険なことで、さらに関わってしまうのを避けたい鬼灯の返事は「ノー」に決まっている。だが、鬼灯はすぐにその返事をしなかった。少しだけ躊躇ってしまったのだ。
名前は考えている鬼灯の手を更に握った。

「鬼灯さんに手を握ってもらって、少しだけ勇気がわきました。少しだけ死にたくないと思ったんです。鬼灯さんが傍にいてくれたら死なずに済むかもしれません」
「…あなたの生死を私に預けないでください。責任は取れませんよ」
「そう言ってるんじゃないです。だた、もう少し鬼灯さんと一緒にいたいと思ったんです」

どうしてでしょう、と笑う。弱った彼女の久しぶりの笑顔に安堵してしまうのはどうしてか。鬼灯は諦めたようにため息を吐いた。

「……では少しの間、名前さんの家に居候させてもらうことにします」

頭の中で考えていたことは自分の言った言葉に音を立てて崩れる。
一度言ってしまえば撤回するのは心苦しい。目の前で安心したような表情を浮かべる彼女の顔を見れば余計に。
安易な考えと迂闊な行動に、鬼灯自身もよくわからないでいた。地獄へ帰るまでの間。ただ、それだけだ。そう言い聞かせて考えを払拭した。
眉間に皺を寄せたままの鬼灯に名前は微笑んだ。

「やっぱり鬼灯さんは優しい鬼です」
「…地獄では真逆の評価ですよ。地獄に帰れないので仕方なくです。事情を知っている名前さんのところに転がり込むのが早い」
「そういうことにしておきます」

鬼灯は慌てて言い訳を並べる。規律を忠実に守らなくてはならない立場の自分がしていい行動ではない。せめてその理由を無理やり作った。
そんな自分に呆れながら、鬼灯はようやく覇気のある明るい声を出した名前にほっとする。

関わっても裁判がややこしくなるだけだとわかっているはずなのに、手を差し伸ばしたいと思ってしまう。
自分の手を握る小さな力に、後ろめたさからか鬼灯は握り返すことはしなかった。


***


名前の家に戻ってきた二人は、何も話すこともないまま無言で一時間ほど過ごしていた。
名前が塞ぎ込んでいるため下手に刺激は出来ないと、会話さえも躊躇ってしまう。ただ手を握っているだけで一時間。ふと名前が笑い声を上げた。

「なんだか恋人同士みたいですね。それも付き合い始めの」
「気の利いた言葉もかけられなくてすみません。抉るような言葉は何でも思いつくのですが、励ますとなると」
「さすが鬼ですね」

額から生える角を見ながら名前は手をぎゅっと握り締めた。
そういいつつも手を握ってくれている。名前はそれだけで落ち着いていられた。
死にたい衝動に駆られ、地獄の鬼の登場に死ぬしかないと思った。そんな思いも今は薄れている。手だけでも触れ合うのが少しだけ嬉しかった。

「いいんですよ、抉ってくれて。気を遣われるより聞かれたほうが楽です」
「聞きませんよ。そこまで踏み込んで話を聞いてあげるつもりはありません」
「…やっぱり優しいです」

名前はくすりと笑みを零すと何もない床をじっと見つめている。
その横顔がどこか無理をしているようで、話を気かなくて正解だと感じる。
慰める方法は浮かばず、彼女にしてあげられることはなにもない。人間と関わってしまったことを後悔しながら、鬼灯は名前の頭をがしがしと撫で回した。

「まあ、私が言えることはひとつ。もう自殺など考えるな、ということです。死後地獄に落ちたくないのなら」
「もう大丈夫です。鬼灯さんが助けてくれたから」

私が何をしたのかと、鬼灯は小さく息を吐くと名前から視線を逸らした。
何も聞かずに傍にいてくれる鬼灯が心の支えになっている。初対面なのにそう感じてしまうのは、鬼灯がこの世の人間ではないからなのかもしれない。
少しだけ心の余裕ができたのか、ようやく顔色も良くなってきた名前に鬼灯は安堵した。
そんな鬼灯は自分が思ったより彼女を心配してたことに驚く。名前は確認するように鬼灯の手を握り締めた。

「鬼灯さん、少しの間ここにいてくれるんですよね」
「…はい。地獄に帰るめどがつくまでですが」

名前はその返事を聞いてほっとしたように笑う。その笑顔に鬼灯はぶっきらぼうに返事した。

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