三日目


押し問答の末、リビングで寝ることを勝ち取った鬼灯は、いつものように早起きして身なりを整えていた。
金魚草の水遣りは誰かやっていてくれているのか。そんな心配をしながら顔を洗う。
携帯は相変わらず繋がらず、あちらからのアクションもない。地獄に通ずる場所はいくつもあるが、樹海から行けなかったとすると他の場所も同じだろう。
どうしてこうなったのかとぼーっと考えていれば、背中に何かがぶつかった。どうやら名前も起きてきたらしい。

「あれ……あ、鬼灯さんだ。おはようございます…」

寝ぼけているようで鬼灯の背中にぶつけた顔をさすりながらぺこりと頭を下げる。
ふあ、と欠伸を零し遅い動きで身支度をする彼女を見れば、朝が弱いのだとわかる。

「寝癖が酷いですね」

あちこちにはねている髪を指摘すれば、鏡に映る名前が鬼灯を見た。同じくボサボサの鬼灯に名前は笑った。

「鬼灯さんこそ」

改めて鏡を覗く鬼灯は、いつもより爆発してるそれに頭を掻いた。



寝癖も整え朝食を済ませれば、静かな鬼灯に名前は声をかけた。

「鬼灯さんはこれからどうするんですか?」
「何も考えていません。こちらから出来ることはないですから」
「それならどこか出かけませんか?家にいても塞ぎ込んじゃうので」

ちょっと前まで自殺を考えていた彼女はそれを吹っ切ろうとしているのか気丈に振舞っている。
彼女が昨夜部屋で泣いていたのを知らないわけではない。名前の目元は少しだけ赤くなっていて、しかし指摘することでもないだろう。
鬼灯は頷くと、行き先を決める彼女の提案に相槌を打つ。どうせなにもすることがないのなら彼女の傍にいてあげようと。

「私は、何を……」

今自分は何を考えたのか。驚いたように呟いた鬼灯に、名前は聞こえなかったようで首を傾げた。
なんでもないですと適当に誤魔化せば、携帯で行き先を決めている彼女を見る。
少し疲れているのかもしれない。そう言い聞かせて視線を外した。

「どこか現実逃避できるところに行きたいですね」

呟く名前に、鬼灯はいつもの勘を取り戻そうと口を開く。

「現実を見なさい。あなたは今無職ですよ。仕事でも探したらどうですか?」

だが、それは少々名前にはきつかったかもしれない。
鬼灯の返事に名前は驚いたような顔をした。その詰まったような沈黙に鬼灯はまずいと視線を逸らした。
いつものように返しては不安定な彼女を傷つけてしまう。彼女を窺う鬼灯に、名前は小さく噴出した。

「傷心してる人に言う台詞じゃないですよ。さすが鬼ですね」
「…すみません」
「いえ、気を遣われなくてほっとしました。鬼灯さん、素を出したら厳しそうですね。やっぱり鬼なんですか?」
「地獄(あっち)では、よく冷血とか祟り神とか言われます」
「確かに鬼灯さん、怒ったら怖そうです」

名前は肩を竦めて怖がる素振りを見せる。
鬼灯がどんな鬼なのかはわからないが、名前にとってはどうでもよかった。わがままを聞いてくれた鬼灯への評価はただただ優しいの一言で、顰めっ面でさえ怖いとは思わない。角が生えているのを見てようやく鬼だと実感し、奇妙な体験をしていることに気がつくのだ。
名前は携帯を置くと立ち上がった。

「海に行きませんか?地獄にはないでしょう?」
「そうですね。血の海ならそこらじゅうにありますけど」
「物騒です」

楽しそうに笑う名前は、そうすることで少しだけ心を軽くしていた。


***


電車などを乗り継いでやってきた海に、名前は潮風を受けて息を吸った。

「磯の香りがしますね。風が気持ちいい」
「結局現実逃避ですか」
「海を見てると自分がちっぽけに見えます。嫌なことも忘れられます」

浜辺に下り、太陽を反射して光る青に照らされる。完全に現実から逃げているが、それくらいが今の彼女にはいいのかもしれない。
靴を脱いだ名前は海水に足をつけた。冷たい、と波を眺めながら一人楽しそうに海と戯れている。

鬼灯はそんな姿を眺めながら、海底には竜宮城があったことを思い出す。
ここにも神がいたなと塩椎を思い浮かべるが、以前会ったのも偶然のようなもので、ここに現れることはないだろう。
どうにかして呼び寄せることが出来れば事情を聞き出せるかもしれないが、その手段もない。
彼女のことも放っておけないが、地獄のことも気になる。思案にふける鬼灯は、自分を呼ぶ声に顔を上げた。

「鬼灯さんは入らないんですか?」
「私はいいです。というか、そんなに入って大きい波が来ても知りませんよ」

名前はワンピースの裾を上げて結構な深さまで入っている。暖かいとはいえ濡れたら厄介だろうに。
名前はもう一歩奥に入りながらニコリと笑った。

「こうして進んでいったら全部飲み込んでくれるかなって」
「まだそんなこと考えているんですか」
「冗談ですよ。もう死ぬ気は……」

そんな言葉が強い風にかき消される。風を凌ぐように目を瞑った名前に、ひとつ大きな波が押し寄せた。
結構な深さまで入っている名前は足を取られバランスを崩す。

「名前さん……!」

鬼灯は慌てて声を上げると、そのまま波にさらわれそうな彼女の手を咄嗟に掴んで引き寄せた。足が濡れることなど気にしない。
一瞬、彼女がいなくなってしまうような、そんな気がした。
大きな波に遊んでいた子供たちが楽しそうな声を上げる。鬼灯と名前は押し寄せた波に服を濡らしていた。

「ごめんなさい。鬼灯さん、服が……」
「別にいいです。それより名前さん、死に場所を探してるなら私を巻き込まないでください。冗談なら大人しくしてなさい」
「…すみません」

足元が濡れてしまった鬼灯は顔を顰めながら海から出る。しぶきあがった海水もシャツを濡らしている。
名前はぺたぺたと引きずられるようにして砂浜に足をつけた。
また迷惑をかけてしまった。本当に死ぬ気はなかったのだ。ただ、まだ少し弱っているだけで。
鬼灯の手を掴んだ名前は、その意志を伝えるようにぎゅっと握り締めた。

「靴、乾かさないと」

鬼灯はそれを無視しながら足元の気持ち悪さに呟いた。けれどその手はちゃんと握っていた。


***


靴を乾かす間、防波堤に座ってしばらく海を眺めたあと、鬼灯は黙ってしまった名前を連れて高台に登った。
海の向こうに綺麗な水平線が見える小高い丘。風で帽子が飛ばされないよう押さえれば、鬼灯の目的の場所が見えてきた。
そこには古びた建物が木々に隠れてひっそりと建っていた。
普通の人は近寄らないような不気味な建物に鬼灯は迷うことなく足を踏み入れる。名前はきゅ、と鬼灯の服を引っ張った。

「あの…入るんですか?」
「ええ。私、廃墟を見て回るのが趣味なんです。名前さんの行きたいところに付き合ったので、私もいいでしょう?」
「い、いいですけど…やっぱり人間とは感覚が違うんですね」

眺めのいい丘に登ったと思ったら廃墟だ。てっきり慰めてくれてるのかと思った名前は、鬼灯が鬼だったことを思い出す。
ギィと音の鳴る床を踏みしめながら、鬼灯は廃墟の中に入った。
中は暗く埃っぽい。何かが出て来てもおかしくないような不気味な空間に、名前は鬼灯の顔を窺った。
もし何かが出て来ても鬼灯がいるから大丈夫、だと思いたい。ぎゅっと腕にしがみつきながら名前はきょろきょろと視線を彷徨わせた。

「なかなかいい雰囲気ですね。ここから海が見えますよ」
「本当だ……あ」
「どうしました?」
「いえ、人影が見えた気がするんですけど、気のせいですよね……」

何言ってるんだろうと名前は苦笑し、さらに鬼灯の腕にしがみついた。
こんなところなら亡者の一人くらいいてもおかしくはないと、鬼灯は外を見てみるがもう人影はいなくなっていた。

「廃墟に亡者…幽霊が出るのはおかしくはありませんよ。この近辺に墓地もあるようですし」
「こ、怖いこと言わないでください!」
「鬼と一緒にいる時点で、怖い現象だと思うのですが」
「鬼灯さんは…怖くないです。優しい鬼ですから」
「私は優しくありませんよ。墓地に行きますか」

ええ…と乗り気でない名前を引っ張っていく。
優しいと言われても困るのだ。地獄でそんなことを言われたためしはない。だから少しだけ怖がる名前に意地悪してやりたい気分。
ちょっと前まで自殺を考えていた人を墓地に連れて行くか、と名前は唇を尖らせた。
やってきた墓地にはやはり亡者がウロウロしていた。

「ここもお迎え課に連絡して連れて行ってもらわなければ」
「お迎え?幽霊いるんですか?取り憑かれたりしません?」
「大丈夫ですよ」

本当に大丈夫なのか不安だが、幽霊が見える鬼が言っているのだ。きっと安心。
名前が意外にも怖がっているのを感じ、墓地に入ることはしなかった。
鬼は大丈夫で幽霊が怖いとはどういうことなのかよくわからないが、あまりいじめてやるのもかわいそうだ。

戻ろうとしたとき、いつの間にか亡者が鬼灯の隣に立っていた。墓地に来た人間に興味があってやってきたのか、驚かせようとしているのか。
鬼灯はその亡者とばっちりアイコンタクトを取ると、亡者の方が驚いて怖がる始末。そして名前は鬼灯の腕にがっちりとしがみついていた。

「名前さん?」
「い、いや、もう行きません?なんだか不気味です。というか鬼灯さん、今何か話そうとしてませんでしたか?そっちに誰かいるんですか?」

名前の視線の先を追いかければさっきの亡者。たまたまそこを見ているのだろうが、鬼灯は「正解です」と言って亡者の肩を叩いた。
亡者は悲鳴を上げると逃げていった。

「悲鳴を上げる側はこっちなんですけどねぇ」
「……」

名前は逃げた亡者を追うように視線を動かした。鬼灯は不思議に思いながらも歩き出す。

「名前さんって霊感あるんですか?」
「え?いや、そんなことはないと思いますけど…」
「まあ、何かいる程度ならあっても差し支えないですが」

亡者が多くいるところに行けば影響することもある。
怖いこと言わないでくださいよ、と鬼灯をつつけば、名前は墓地の方を振り返った。しかし、幽霊なんて見えるのはごめんだと首を横に振って前を向く。
すっかり鬼灯に振り回されてしまったのを感じて、名前は彼を見上げた。

「もう一回海に行きましょう。最後に寄ったのが墓地だなんて嫌です」
「見るだけですよ」
「鬼灯さんって意外と過保護ですね」
「……墓地に置いていきましょうか?」
「ごめんなさい!」

腕を掴まれ低い声でさっきの墓地を指し示す。名前は謝ると逃げるように海の方へ駆け出した。
しばらくすると振り返り、鬼灯に早く来いというように手を振る。
すっかり元気になった彼女に、鬼灯は少しだけ安堵した。

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