もう少しだけ


「鬼灯さん!」
「どうしました?」

背が高いからか歩くのが速いからか、私は長い廊下を走ってやっと鬼灯さんに追いついた。
いつもなら息切れなんてしないのになぜか息が苦しい。
首を傾げて私の言葉を待つ鬼灯さんに、さっき貰った紙を見せた。
そこに書かれているのは「辞令」の文字。阿鼻地獄の主任に任ずるという旨が書かれてあった。

「そこじゃ不満ですか?政令指定地獄ですから、管理も大変ですが名前なら大丈夫でしょう。それに給料だって大幅に減りませんよ」
「そうじゃなくて…」

阿鼻地獄の主任なら八つの地獄の主任の中では一番だろう。それだけ大変だし管理の難しいところだ。
主任となれば今よりは給料は減るが、補佐官ではなくあくまでもその補佐だった私にとっては大した差はない。
いや、そうじゃない。そうじゃないんだって。
なんで今頃転属願いを受理したのかを聞きたくて。あんなに申請しては破り捨てられてたのに。

「どうして急にこんなもの…」
「ああ何度も提出されたら考えますよ。理由もきちんとしている。私もそういつまでも個人的な理由で部下を留めておくことはできませんので」
「どの口が言ってるんですか。散々縛り付けておいて」

鬼灯さんの目が少しだけ笑ったような気がした。
自分が何を言ったのかわからなくてハッとする。なんで私は鬼灯さんに食って掛かっているのだ。
あんなに欲しかった辞令だ。こんなところで手放すわけにはいかない。それもこんな好条件、考えるまでもなくイエスで異動だ。

「一日考える時間をあげますよ。転属先の指定が閻魔庁以外だったので阿鼻地獄にしましたが、他の地獄がいいなら言ってください。検討します」

では、と足早に鬼灯さんは去っていく。
その後姿を私はいつまでもぼーっと見つめていた。




ふらふらと執務室に戻って仕事をこなす。けれどそれは一向に進まなかった。
頭の中をぐるぐると回っているのはさっきのできごとで、またそうやってあの上司は私を困らせる。
そこへの異動が不満なら今日中に。そう言われても一日はもうすぐ終わってしまう。今日中って言ったって、まさか夜中の11時59分までなんてことないんだから。
いや、そもそも考える必要なんてないんだからそんなこと私には関係ない。

ずっと握り締めていたせいかくしゃくしゃになった辞令の紙。こんな紙切れ一枚のために転属願いの申請書をいくつ出したんだろう。
ようやく手に入れた部署異動なのになぜだか全然嬉しくない。少し前の私なら泣いて喜んでたのに。
仕事の手を止めてその理由を考えてみる。その途端、きゅうと胸の締め付けられた感覚がした。
わかっていたはずなのに誤魔化していたものが、突き放されたことによって露になる。気のせいじゃなかった。
今更認めても遅いけど、私は鬼灯さんのこと……。

「好きだなんて」

ありえないと考えても、心が妙に落ち着いている。それをすっかり受け入れちゃって、言葉に出して認めた途端心が軽くなった気がした。
つっかえていたものが取れたような、なんともすっきりとした気分。頭で理解するよりも早く私自身が受け入れている。
納得がいかない。でもそういうことなんだきっと。ここは潔く認めるしかないようだ。

「あぁ、もう…」

なんだか恥ずかしくて頭を掻けば天井を見上げた。
鬼灯さんと離れるのがこんなに嫌だと思うなんて、やっぱりそういうことなんだ。
そうは言ったはいいものの、この敗北感はなかなかに心に来る。全部鬼灯さんの思い通りのような気がしてならない。
こんなことになるなら、気がついたときに言っておけばよかったんだ。あの一夜をともにした忌々しい出来事。あのときに。

「どうしよう」

今更「転属は嫌です」なんて言えない。あんなにしつこく提出していたものを撤回するなんて絶対にできない。だからと言って気持ちを伝えることもできない。
散々嫌いだとのたまって悪態を吐いて馬鹿にしてきたのに。
心がちくりと痛む。小さな針で刺されているような感覚は次第に大きくなり、今までの自分を責めるようにじくじくと傷口を広げた。
自業自得だ。いくらでも言い出すチャンスはあったのに。

刻々と時は進んでいる。もうそろそろ鬼灯さんも帰ってくる。
仕事進んでないって怒られるのかな。
机に積まれた書類はもう少し頑張れば終わりそうだ。けれどそれに手をつけるのが怖かった。それがなくなればもう私は必要ない。
ついさっきまで避けていた人にこんな感情を抱くなんて…。その心境の変化がショックで恥ずかしくて、逃げ出すように執務室を出れば、人のいない静かな場所を探した。

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