雨の恩返し 5




「…どうにも、ハハ、可笑しいな」

桂が眠ってから暫くして、庭にある井戸で顔を洗って戻ったあとのことだった。

床にそのまま寝転んでいたはずの桂が、真新しい布団の上に寝かされていた。
薄い布に包まれた躰の線が、いつにも増して細いなと場違いなことを考える。
桂に寝乱れた様子はない。
己の時間感覚は狂っていないつもりだったが、ここまでくるとさすがに疑ってしまった。

桂の分だけならまだしも、もう一組同じ布団が部屋の中央に用意されている。
しかもご丁寧に枕まで。

すぐ側の庵の火は灯ったままで、誰かが入ってきた気配もない。
まあ、こんな短時間で目に見えている「全て」を用意できる人間など、この世に居る筈もないのだが。

「礼にしちゃァ、ちィとばかし多くねーか?」

苦笑交じりに窓の近くで佇む馬に問いかけたが、先と変わらぬ無言で俺を見つめてくるだけだった。


もしかしなくても本当に、自分達は勾引かされているのかもしれない。
最初にこの場所で気がついたときに思い至ったのは、怪我をした白い狐のことだった。
心当たりはそれしかない。
いまのすべてが日常以外の仕業なのだと思えば、粗方の辻褄が合う。

だが、それにしては随分と見返りが大きい気がしてならなかった。
山の神か何かは知らないが、ここまで人間を甘やかしても、碌なことがないのが御伽噺の定番だ。

「…まァいいか」

ぽそりと呟いて、桂の側に腰を落ち着けた。
ぐっすりと眠る桂とは正反対に、自分には未だ眠気がこない。
適度な眠気が来るまで何かすることはないだろうかと考えて、床に転がしたままの竹を数本手に取った。
そのまま腕ほどの長さに切り揃え、先を尖るように削り始める。
眠りから覚めた後は、数日分の獲物を捕えることになるだろう。
こういう御伽噺では、そこそこ長丁場になるものだ。
ある程度の予備を作っておくに越したことはない。

― いつか、帰ろう。

ふと。眠りに落ちる直前、桂が呟いた言葉を思い出した。

先生を取り戻したら故郷に帰る。
そんな「単純」なことはもう出来ない。出来るはずもない。
勘当同然で家を飛び出したこの身も、桂自身も、戻ることなど微塵も考えていないはずだ。

もし「帰る」という願いが叶うとしても、それはもう、故郷に戻れるようなものではない。
昔のままで、変わらぬままに居ることは出来ない。
戦場に足を踏み出すことは、今までを棄て去る事なのだから。
そんなこと桂なら、否、桂だからこそ、痛いほど分かっている筈なのに。

「…可笑しいのは、お前の方かもしれねェな」

後ろを振り返ることのない桂が振り向いた。
例えそれが自分の死に直面することであっても、桂はきっと振り返らない。

いつからだったか人前で、俺の名前を呼ばなくなったとき。
桂はそう決意したのだと思った。だから俺も同じように名を呼ぶことを止めた。
けれどそれは灯火の決意で、一度知った体温を抱き寄せてしまえば呆気なく崩壊した。

本音を滲ませる羸劣(るいれつ)な腕に、桂は何も言わずに身を預けてくるばかりだった。

桂は何も変わらなかった。変わらぬように努めていた。
そんな桂の腕を取り、遠慮なく己の元に組み敷く自分は、もしかしなくても随分と酷い人間なのかもしれない。
幾度となくそう思ったのに、手を止めることなど出来なかった。
放埓な我儘をくちびるに乗せ、華奢な躰に甘えて縋る心地よさを、他の誰にも与えたくなかった。

桂は俺を振り向かない。そんなことは知っている。
そんな桂が振り向いた。
戦場で、走れという俺の声を無視して。

「…相変わらず下手だなァ、嘘つくの」

眠った桂に言葉を投げても、いつものような返事は返ってこない。代わりに、握った手が微かに震えていた。

自分の図り知れない処で、知らないコトが桂の身に起こっている。そう思わせるには、充分すぎる「返事」だった。


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