雨の恩返し 4



くつくつ。くつくつ。

水の弾ける音が聞こえる。
届く音に呼吸を合わせ、汗ばんだ瞼をぐしぐしと拭った。

思うように目を開けない。
睫の先が下の皮膚に張り付いている。

眼球だけを左右に動かして、少々強引に目をこじ開けた。
見知らぬ天井。湿った空気。
遠くから聞こえる鳥達の囀りに、先ほどの出来事が夢ではないのだと自覚した。

寝ていろと頬を撫でてくれた晋助の声。その向こうから、僅かに響いていた森の音。

ああ、生きている。
自分はまだ、生きている。

ほう、と息を吐いて、首だけで音のする方へ顔を向けると、部屋の真ん中に備えられた庵で、古びた鍋がくつくつと湯気を噴き出していた。

「…晋助?」
「下がったみてェだな」
「え?」
「熱。顔色も良くなった。食えるか?」

ぐるりと鍋をかき回した晋助が、鍋と同じように古びた茶碗に雑炊らしき飯をよそってくれた。
色鮮やかな山菜に、僅かな肉の塊。
ふつふつと見える小粒ほどの黒い点は、胡椒か何かだろうか。

「…よく作れたな」
「あァ?こンくらい出来ねェでどうするよ」
「そうじゃない。何処にこんな沢山の食材があったのかと…」
「そらァ、山ン中だからな。探せばあるさ」
「肉は此処にあったのか?」
「それ・もに決まってンだろ。…ま、米は此処にあったけどな」
「…そうか」
「食いたくねーなら、別に」
「頂こう」

しゅっと襟元を正し、肩の動きを確認する。
じん、と痛む傷口は、意識さえしなければやり過ごせる痛みにまで治まっていた。刺さった矢はやはり毒矢ではなかったらしい。

背負っていた荷がひとつ下りた気分で、庵の側に差し出された椀を手に取る。
出来立ての食事。自然の恵みを存分に享受した山野菜。
程よくとろけた肉。出汁の旨みを存分に吸い込んだ白米。
寝起きだというのに、腹の虫は素直な鳴き声を上げた。

「…贅沢だな。それにしても良い匂いだ」
「兎はクセもねェからな」
「仔兎か?」
「さァ?どっちかねェ」

自分の分をよそった晋助が、姿勢を正して両手を合わせる。
それにはっとして、取った椀を元に戻した。

「別に、いいだろ」
「え?」
「俺しか居ねぇンだ。崩せばいいだろ、心も足も」
「…そうだろうか」
「そういや、ふたりきりってェのは久しぶりだな」
「そうだな」

頷いて一呼吸。柔い息をふっと漏らし、晋助に遅れて両手を合わせる。
晋助の作る料理は久しぶりだ。

本陣での食事は銀時や自分が行うことが多い。
お前も手伝えと叱咤したことはあるのだが、あっけらかんと拒否された。
大味の料理は作りたくないのだと言い放ち、何処までも甘やかされた坊ちゃんだよなと銀時にからかわれて、刃傷沙汰になりかけたこともある。

扱い辛いプライドの高さ。
銀時はそれを熟知しているだろうに、あえて地雷を踏みに行くような性質があった。
よせと言っても聞きはしない。
天邪鬼と言うか、悪戯好きというか。
銀時のそういうところは、晋助と良く似ている。

とてもよく似ているのに、ありのままを伝えてやると、憎悪ともとれる形相で強く睨まれるばかりだった。
そんなふたりに、もう何度溜息を吐いたか分からない。

「ん!」
「なに」
「…美味い」
「そらァ、良かった」
「山椒がよく効いてる」
「粗いがな。石臼でもありゃァ、もっと砕けたンだが」
「丁度良いさ」

くつ、くつ、くつ。庵の火が鍋を燻っていく。
吹き出す湯気がゆらりと揺れて、窓の外へと逃げていった。

「…俺達は、一体何処まで転げ落ちたのだろうか」
「さァ、どうだかな」
「しん…、…高杉、お前何か、覚えていないのか?」
「何も」
「…そうか」
「そら」
「いひゃい!なにをふる!」
「ハハ、こうやって痛ぇンなら、まだ生きてるってコトだ。お前も俺もな。それに腹だって減る。どうやらここは黄泉の国ってワケでもないらしい」

愉快そうにけらけらと笑う晋助をキッと睨んで、頬の手をぱしんと叩く。
それでも笑いを止めない晋助に、ついつい口調が荒くなった。

「摘むなら自分の頬を摘まぬか!俺は怪我人だぞ?」
「俺が痛くても、お前が分かンねェだろが」
「それはそうだが…納得はいかん」
「…クク、そんだけ物が言えンなら安心だな」
「話をすり変えるんじゃない!俺は怪我人を労われと言っているんだ」
「へェ、随分と積極的だなァ?心配しなくても、傷口が塞がったら存分に労わってやるさ」
「な…!違う、俺が言っているのはそういうことじゃ…」
「それ以外に何の意味があンだよ」
「意味などない。言葉の通りだ」
「フン、どっちにしろ期待してんだろう、お前」
「だから違うと…、高杉、お前はどうしていつもそう」
「なァ、ヅラ」
「ヅラじゃない、桂だ!」
「桂、」
「桂じゃないヅ…え?」

空になった晋助の椀が足元で転がり、食べかけの雑炊が入った椀を咄嗟に高く持ち上げる。
引き寄せられた方へと体重を預け、途切れる視界の途中で呼吸を奪われた。

晋助にしては行儀が悪い。
そう思うのに、晋助を叱ろうと奮った心は折れていた。
触れる素肌から伝わる貪欲な体温に、折れた心は立て直せない。 

「…高杉」
「………、」
「…すまなかった。お前は走れと言ったのに」
「フン、言うこと聞かねェのはお互い様だろ」
「…それもそうだな」
「今はふたりだけだ。…呼べよ」
「…晋助」
「もっかい」
「しんすけ」
「…こたろう」

ぎゅう、と切なさが強まる腕に、目尻にぼんやりと熱が溜まっていく。



何時しか呼ばなくなった互いの名前。
思い出すまいと追いやっていた片隅の記憶。

晋助が隊を作ると言った日。
萩を飛び出し、戦場の先駆者達から叩きつけられた惨い現実。

もう手段を選んでいる余裕はない。
力を得なければ自分達に先はない。掲げた大義を守れない。
だから隊を作るのだと、晋助は言った。

双眸に紅い炎を滾らせて、怒りにも似た目で遠くを見据えていた晋助は、もう自分の知っている晋助ではなかった。

その日から、俺は晋助の名前を呼ばなくなった。
明確な態度を示したわけでもない。
段々と、段々と名を呼ぶことを避けるようになった。
それは晋助も同じで、段々と俺の名前を呼ばないようになっていった。それが答えだと思った。

もう今までのふたりでは居られない。
互いだけを見つめていることはできない。
互いを想うだけでは成すことの出来ない大義がある。

それを哀しいと想う自分が情けなかった。
そんな折、初めて重ねた躰を愛おしそうに抱き締められて、心は悲鳴を上げることすら出来なかった。

嬉しさで打ち震える己を恥じたのも、甘い陶酔に心を預ける心地よさを知ったのも、すべて晋助の腕の中でのことだ。

「…しん、…ン、んんっ、」
「ふ、」

互いの咥内を行き来させる唾液が切なく甘い。
ずっとこのままで居たいと思う。
刹那の想いを抱えることが、どれほど酷なことか、充分に知っているというのに。


「………っ、」 
「傷、痛むか」
「…大丈夫だ」
「莫迦、強がったりすンなよ」
「強がってなど」
「これでもか?」
「い…ッ…!」

抱き寄せられた腕の中。左肩をぴん、と弾かれて、たまらず声を上げていた。
それが誘い水になったのか、強烈な痛みが首筋まで一気に這い上がってくる。
じわりと額に滲む脂汗に、強く噛み締めた唇。
そのまま声を堪えていると、乾いた唇が水を求めるように重なった。

「ん…、ッ、」 
「…ン」
「はあ、」

絡まる舌に、ゆるゆると躰の力が抜けていく。

晋助と唇を合わせるときはいつもそうだ。
淡い恥ずかしさと、幼い嬉しさが心を支配して、「そこ」から抜け出せなくなってしまう。
そんな自分を見透かしたかのように抱き締めてくる晋助は、昔からずっと変わらないまま。

「…飯の途中だ」
「俺ァもう、食ったけど」
「怪我人を労われと言っているだろう?」
「ふぅん?いますぐ労わって欲しいのかよ、お前」
「馬鹿者、今すぐではない。それは傷が塞がってからだ」
「…フ、クク、そうかィ」

肩を揺らして笑った晋助が、そっと躰を離し、元居た場所へと戻っていく。
唾液で薄く潤んだ唇に指先だけで触れると、思いがけない熱さに瞼が震えた。

また見透かされていたのかもしれない。
そう思うと、今度は頬まで熱くなりそうだった。

「酒でもありゃァ、ちっとはマシなんだがな」
「酒?お前、こんなときに…」
「ばーか。傷につけンだよ」
「ああ…そうか、消毒に使うのか……」
「…フ、クク、何に使うと思ったんだよ」
「別に」
「なァ、何?言えって」
「何でもない!」

ぴしりと強い口調で一喝して、途中だった食事を再開する。
がつがつと行儀悪く雑炊を口に放り込むと、晋助は呆れたように笑っていた。
そんな笑顔を見るのは、何だか随分と久しぶりだった。

― ふたりきり。

本当に久しぶりだ。ふたりきりで食事をするなんて。
様々な「もの」を捨て去って、確かな一歩を踏み出したあの日。
あっという間に過ぎ去った日々を想うには、自分はまだ若すぎる。
分かっているのに、心は既に萩の郷愁へと感情の矛先を向けていた。

勘当同然に故郷を飛び出した後は、常に銀時も一緒だった。
若い志士で隊を作り、桂浜で坂本と合流する頃にはもう三人だけではなくなっていた。
共に行動する人数が徐々に増えていく最中、晋助が鬼兵隊を作ると言い出したのは、それより少しだけ前のことだ。

来るものは拒まない。代わりに振り返りもしないのだと、そう言って笑っていた。

それから隊ごとの作戦や、寝所でふたりだけになることは少なくなかった。
が、こうして他に誰もいない場所でふたりきりになったのは、いつが最後だったか思い出せないくらいに久しぶりのことだった。

― 早すぎる、まだ、…まだ。

満たされた腹が耽々と眠気を連れてくる。
一気に重くなった瞼を擦ると、あっという間に白い睡魔が全身を覆い始めた。

「…う、ん…、」
「そのまま寝てな。今日はもう、何処にも行かねェからさ」
「…しん」
「なに」
「いつか、帰ろう」
「…何だって?」
「……いつか、きっと、………うぅん…、」

霞んだ視界で、晋助の姿がぐにゃりと歪んだ。
一度だけ頭を振ると、部屋の中が白い霧で満ちていく。

途切れる声を遠い心で眺めながら、ぬるい暖を放つ庵の淵で、淡い意識を手放した。


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