雨の恩返し 6
* * *
きりきりと引き攣った弦が撓り、指先が細く震える。
目と指先の焦点が思うように合わない。
狙いを定めて、肩に力を入れて、結局弦を緩めてという動作をかれこれ三回ほど繰り返している。
自分の収穫は今日もない。
このまま何も持たずに戻ったら、また晋助に笑われるのだろうか。
大体、自分は動くものを射るのは苦手なのだ。
縁日の射的だって、晋助にはとうとう敵わなかったというのに。
左肩の痛みも熱もすっかり引いた三日目のこと。
朝のうちに狩りに出かける晋助を頼るままの気になれず、自分も行くと提案したのは昨晩だった。
言い出す自分を分かっていたかのように、晋助は無言で弓矢の道具一式を差し出した。
何時の間に作っていたのか、ありがとうと素直に言葉を投げると、ついでだと返事が返ってきた。
左側の首筋を無造作に掻く仕草は、晋助が照れているときの癖だ。
暫く見ていなかった「クセ」を見て、ふわりと心が温かくなった。
心を崩しているのはきっと自分だけではない。
それが単純に嬉しかった。
はっきりとした意識で見回した「家」の中。
どこかで見たことがあると思っていた町屋風情の邸内は、故郷の晋助の家と良く似ているのだと気がついた。
二度目の夕飯の際、懐かしいなと晋助に言葉を掛けたが、そんなことはないと一蹴された。
熱が引いて意識が戻ったばかりの戯言だと受け取られたのかもしれない。
だが、片隅に鎮座する柱の傷や、壁にぽつぽつと残る黒い染み。
それらがどうしようもなく故郷の風景を思い出させた。
黒い染みが追いかけてくる、
小太郎、こたろう。
怖い、こわい。
そう熱に魘されながら泣き喚いていた子供は、あの頃とは違う気配で自分の隣に立っている。
「あァ?今日も坊主かよ」
「坊主ではない、ちゃんと山菜は採ってきた」
「精進料理でも作ンの?」
「俺は構わんぞ」
「俺ァ御免だね」
フン、と皮肉めいた笑みを向けられて、こめかみの近くでカチンと石が鳴った。
向けられる言葉に棘はないのに、何か突っかかるものが見えてしまう。
そう思ってしまう自分が弱ったままなのだろうかと思ったが、直ぐに思いを改める。
らしくない。
頭を振って余計な思考を外へと追い出して、短く溜息を吐いた。
崩した心の前で嘘はつけない。こうなればもう、晋助に甘えるしかないのだ。
庭先で火を起こしていた晋助が手に持っていたのは、適度に引き締まった淡い桜色の肉だった。
既に処理が終わったのだろう。火の周囲には香ばしい匂いが立ち込めている。
「鶏が居たのか?」
「まァな」
「珍しいな。野生の鶏なんて久しぶりに…まさか貴様、近くから失敬してきたのではあるまいな?」
「よく言う。そンな「近く」が何処にもねェってコト、お前が一番知ってんだろ」
「…なら、いい」
「良いのか悪いのか、どっちか分かりゃしねェがな」
「晋助!」
「飯喰ったら昨日の続き、しようぜ」
「…分かった」
短く相槌を打ち、足を清めて家の中へと上がり込む。
そこはまるで異世界だった。否、日常と言うべきかもしれない。
整えられた白い布団、庵に使う炭、一升瓶に入った酒。
飲料用の水は全て庭の井戸から調達できる。
ただし、野菜や肉、食事の為のものは何も用意されることはなかった。
どうやら自分で獲りに行けというコトらしい。
ひとつ大きな窓が壁の中央に鎮座し、その窓の隣、古びた壁に掛けられた男者の着物が一着。
そのすぐ隣に、深紅の着物が射し込む陽に照らされている。
戦場に来る前の「日常」が、すっかりそのままその家の中に存在していた。
「…着ないからな」
「我儘言うなよ」
「我儘なものか!用もないのに着るわけがないだろう!」
「ふぅん?じゃァ俺が着ればいいのか?」
「え?」
「なに?やっぱり着たいの、お前」
「…俺は女物など着たくはない。好きにしろ」
「残念だなァ」
「何がだ?」
「脱がそうと思ったのにさ」
「…ッ!…ば、ば、ばかもの!」
「ハハ、真っ赤」
「知らん!」
肩に力を入れて声を振り切り、どかどかと足音を立てて部屋の奥へと歩く。
収穫した山菜を入れていた竹籠から野菜を取り出し、庵の上で湯気を噴く鍋の中へと放り込んだ。
野生のものは苦味が強いと教わったことがあるが、灰汁を取り切ってしまえば何の苦もなかった。
連日の野菜鍋と肉、それと米だけの生活。
不思議なことに、不自由は全くない。むしろ快適だと言える。
捨て去った日常の尊さが身に沁みる生活だった。
「焼けたぜ、肉」
ぐるりと鍋をかきまわした所で、晋助が焼けた肉を持って部屋の中へと入ってきた。
古びた椀に盛られた鶏肉。
香ばしく香る鶏の脂と、ふわりと鼻に届く山椒の匂い。
ぐう、と鳴りそうになった腹を誤魔化して、晋助と目を合わせないまま、再び鍋をぐるりと掻き混ぜる。
「鍋がまだだ」
「肉、先に食えば」
「駄目だ。俺が作った鍋を食べると約束しただろう」
「してねェ」
「晋助!」
「いいから食えって。一番イイ時に食ってやるのが礼儀ってモンだぜ?」
「礼儀?」
「命を食うのにさ」
こういうとき、思わずはっとする。
至ってシンプルな晋助の考え方。
時に潔しとされることもあれば、冷酷だと評されることもある。
前者は主に鬼兵隊の面々だ。
後者は別隊の同志達が時折口にする。まるで恐る恐るという風に。
― あんなの、ただの「鬼」じゃないですか。
若い兵士が嫌厭を込めて言い放った言葉。
優しさと厳しさを取り違えられるほど、晋助の「判断」は極端なときがある。
それは松陽先生から継いだ素質を思わせるには充分な本心であり、潔癖でもあった。
来るものは拒まないと言いながら、他人を自分の領域へ招くことは滅多にない。
むしろ殆どないと言ってもいい。
そんな晋助の性質を知る昔からの仲間を、もう随分と失ってしまった。
だから無理もないのだろうか、自分は歳を取ったのだろうかと、諦めにも似た想いで問いかけたことがある。
その時の表情をどう言えば良いのだろう。
哀しいような、怒っているような、けれど何処か楽しんでいるような。
― 本当の鬼がどんなヤツか、そいつは知らねェのさ。
晋助は片方の目を細めて嗤っていた。
皮肉で満たした笑みだった。
気にすることはないと叩かれた左肩が、その日はずっと熱を持っていたのをよく覚えている。
「…そうだな。確かに、晋助の言う通りだ」
「ハハ、素直じゃねェか。ほら」
「ありがとう」
受け取った椀を前に据え置き、一度だけ両手を合わせる。
崩せと言われた心は遂に崩せないままだ。
そんな自分を見て何を思ったのか、右隣に腰を下ろした晋助が短く笑った。
「どうした?」
「別に」
「何だ、言ってみろ」
「好きだなと思ってさ」
「え」
「お前のそういうとこ、好きなンだよ」
「なにを…」
「…小太郎」
腕を引かれて、くちづけられて。
酷く場違いで短慮なことをしている。
そう思うのに、背に回された腕を引き剥がすことは出来なかった。
痛みが引いた筈の左肩に、微かで小さな火が灯る。
塞がりかけた傷口から溢れる甘い悦。
互いの想いが絡まった熱を留める術など、知りたいとは思わなかった。
ずっと、と言葉を添えるにはあまりにも近すぎる昔。
眠れなかった夜に、初めて肌を重ね合わせたときから、ずっと。
「しん…ン、…ふ、」
「フ、」
「はあ」
「なァ」
「…う、ん?」
「着ねェの、ほんとに」
「…いまは着ない。さっきもそう言っただろう」
「勿体ねェの」
「こんなときに何を…」
「こんなときだから、だろ?」
「あ、だ、だめだ晋助、まだ…」
「ふぅん?なに、夜ならいいって?」
「違う!今日はまだすることがあるだろう!お前がさっきそう言ったんじゃないか!それに飯だって途中だ」
「…チ、分かったよ」
直前の言葉を思い出したのだろう。短く舌打ちをした晋助が、背に回した腕を渋々解く。
不意に鼻を掠めた晋助の匂い。
腰の奥深くで沸き立つ鈍い疼き。
信じられなかった。
こんなときに、こんなときだというのに。
浅はかな想いを悟られないように、無心を装って手元の鶏肉を口へと運ぶ。
感情に負けて食事の味が分からなくなる。
久しく忘れていた思春期のような己の有様に、心の中で苦笑するしかなかった。
* * *
互いの手首に結んだ麻縄の感触に、慣れとは怖いものだと今更思った。
緩く結んだ固さを互いに確認して、薄い白に包まれた森の中を眺める。
それは最初に晋助が狩りに行った日も同じだったという。
森から出ようと「動く」と、どうにも駄目らしい。
気付いたのは晋助が先で自分は後からだった。
意識が戻ってから二度、同じように森からの脱出を試みたものの、結果は何も変わらなかった。
山菜や動物を狩りに出る際は「こう」ならないのだが、いざ森を抜けようと「家」から離れ動くと、数分もしないうちに元の場所へと戻ってきてしまう。
気まぐれな山の中。
空間を埋め尽くす自然の芳香。
不思議なことはなにもない。いつだったか、松陽先生が話してくれた御伽噺。
きっと先生にこの話をすれば喜ぶだろう。
自分もその森へ連れて行ってくれと言うかもしれない。
また生きて会うことがあれば。
「…、……つら、おい、聞いてンのか」
「え?」
「どうしたよ、呆けちまって」
「ボケてない、桂だ」
「…フン、まァいい。俺ァこっちに行く。お前はそっちな」
「分かった。先が見えたら引く」
「あァ。ま、昨日より長さは充分だろうよ」
くい、と片手で縄を引っ張ると、重い垂水が波打つように地面を這った。
家の裏手に放置されていた数本の縄を新たに結び直した縄。
その長さは悠に十数メートルを超えている。
「行こう。ではまた後でな」
「あァ」
交わした言葉に宿る僅かな温度。
何も知らなかった幼馴染という関係から、歪に真っ直ぐ変化した心の最中。
離れたくない。互いだけを見ていたい。想いあう心を抱き締めていたい。けれど自分達は歩き出さなければならない。
ひたすら前に進むために。大切なものを護る為に。
― 寂しさとも違う、虚しさでもない。
行き場を無くしたように悶える感情。
未熟な想いの名を露とも知らず、後に孵化する現実に永く悩まされることなど、いまの自分は知る由もなかった。[ 47/79 ][*prev] [next#]
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