雨の恩返し 3




ぼんやりと暗闇に浮かぶ狐火に眉を寄せる。
長い長い道の途中、まるで道標のような灯りに、胸を締め付ける嗚咽が這い上がってきた。

先生。松陽先生。
ゆらりゆらりと揺れる狐火がうっすらと形を変え、柔らかな煙を纏った姿に変わる。
こちらを振り向かない後姿は、最後に見送った先生の姿、そのものだった。

止まれない。
こんな処で死ぬわけにはいかない。
先生を取り戻すまでは。
例え生きた姿でなくとも、先生の魂を取り戻すまでは、死ぬわけにはいかない。
意を決して前に走り出そうとしたとき、一度大きく炎を噴いた狐火が、暗闇に弾けて消えた。

― 行くな、小太郎。

呼ばれる声に振り返る。
瞬かせた目の先、陣羽織を脱ぎ去った高杉が、…晋助が、苦々しい顔で此方を見ていた。

行くな、行くな。
静かに動く唇が、何度も行くなと繰り返す。
お前がそれを言うのか。先生を追うなと。
誰よりも先生を取り戻したいと思っているお前が、俺に――――、


「…晋助?」

くしゃりと泣き出しそうな顔をしたかと思うと、力強く抱き締められた。
閉じ込められた腕の中、周囲を白い靄が立ち込めていく。

真っ黒だった暗闇が白くなる頃、突如として現れた左肩の痛みにバチリと目を見開いた。
何かに縋るように自分を包む腕は、醒める直前まで触れていた夢うつつと、何ひとつ変わらない温度だった。

「目が覚めたか?」
「あ…、」
「…桂?」
「…晋助、大丈夫か」
「あァ?」
「俺を…、晋助、あのとき、俺を庇ってくれただろう。何処か怪我を…」
「…してねェよ、何処にも」
「そうか…、ならいい。…う、」
「…悪ィ、起こしちまったな。そのまま寝てろよ。まだ熱が引いてねェンだ」
「熱…?」
「後で話す。…小太郎」
「…うん」

すう、と息を吸い込んで、ふぅ、と長く息を吐いた。
左肩の痛みが頭の中まで主張してくる。思ったとおり、毒矢は使われていなかったらしい。
意識ははっきりしている。それが自分でも分かる。

ひやりと冷たい手が額を撫でた。
気持ちいい。もっと。もっと触れられていたい。
赤茶色の狐は、こんな想いで晋助の手に頬ずりしていたのだろうか。

だとしたら、羨ましいとは思えない。
もっと優しい晋助の手を、自分は誰より知っている。

「…しん、」
「此処に居る。心配しなくていい」
「…しんすけ、しん、…晋助…、」
「分かったから、寝てろって」

骨ばった親指が目元を拭い、滲む涙を掬い上げる。
ああ、自分は大馬鹿だ。晋助は走れと言ったのに、何より先に振り返ってしまった。
空を飛ぶように刀を振るう晋助を見たとき、上半身を吹き飛ばされた馬のことはもう考えられなくなった。
 
― それこそ手前ェのエゴだろう。

晋助の言う通りだった。
天人の下、意思を持ったはずの人間がまるで捨て駒のように使われていた。
自分に刀を振りかざして迫ってきた兵も、屍を踏みつけて自分を放り投げた天人も、すべてを棄て去るように戦っていた。己の命も、魂も。
そんな状況下で命を大切にすべきだと叫ぶ自分は、酷く滑稽だと思った。
二匹の狐に溢した謝罪も、やはり意味を成さないものだったのだ。

「どうして…」
「おい」
「しん、俺達は…」
「ふ、」
「ん、んン…っ、、」

こくりと喉が鳴って、生暖かい熱が乾いた喉を潤していく。
抱き上げられた躰に力は入らない。
そんな自分の有様に、「いま」の全てを悟った。
傷を癒さなければ、この頭の全ては無駄になる。
自分を見つめる晋助の想いも、なにもかも。

― あたたかい…、

頬に触れる晋助の指先。
温かくて優しい、昔から変わらない晋助の…――――。

閉じた瞼の奥、晋助の腕の中、まどろみに心を預けることが何より心地良いと知ったのは、もうずっと前のことだった。



* * *


意識を落としたのを確認して、濡れた布で傷口を拭った。
少しだけ眉を顰めたものの、桂が起き上がる気配はない。
酒でもあれば消毒が出来るのだが、どうやらそんなものはないらしい。

桂とふたり、放り込まれたのか、はたまた辿り着かされたのかは分からない家は、何処か懐かしい場所だった。
古びた木造建築なのに、人が住んでいたような気配はない。

生きてもいないが、死んでもいない。そんな印象の「家」だった。

庭に出れば辺り一面山の中。
鳥達の囀る声と、草木が僅かに揺れる音。
自分だけが目が覚めて、桂の意識を確認した後、一通り見て回った家の周辺は特に何もなかった。
敵の気配も仲間の気配も何も見当たらない。
元の場所へ戻れるかということよりも、ひとまず桂の傷を癒すのが先だと結論付けた。
怪我をしたまま動けなければ元も子もない。

洗った傷口に、部屋の片隅に放られていた白い布を洗って当てる。
他にも何枚かの布が無造作に置かれていたので幾つかを洗って干した。明日には乾いているだろう。

未だ熱を出したままの桂を寝かした部屋は、この家で一番大きな部屋だった。
奥に襖で遮られた部屋がもうひとつと、さらにその左奥、炊事場が隣接した場所にもうひとつ。
長い廊下を突き当たった場所には細い階段があった。この家には二階もあるらしい。
が、濃い霧に囲まれた「家」は、その全貌を見せようとはしなかった。

「…フン、狐にでもかどわ勾引かされたってトコかねェ」

窓から見える景色もまた白い霧に覆われていた。短く吐いた息は彷徨う場所を失くし、湿った空気に攫われていく。

黙って立っていても仕方がない。
さっさと頭を切り替えて、家の裏手に生えていた竹を数本と、外壁を這う蔦を切り取ろうと懐に忍ばせた小刀を握った。
森の中、湿った植物を切るのは少々手間だが、そんな躊躇と共に切り落とし、桂を寝かせた部屋へと持ち戻った。

カチカチと火付け石を弾き、部屋の片隅に転がっていた蝋燭に火を灯す。
所在無さげに震えていた炎がぶわりと一度だけ大きくなる。
空気の動かない部屋の中、無音で揺れる炎は心地良い。

切り落としてきた竹の中央部分だけに筒状を残して、他は横二つに真ん中から削ぎ落とす。
中央部分に丸みを持たせるように歪曲させ、形を固定して火にかざした。
一度火に晒すのは、竹の持つ柔らかさと固さを存分に引き出す為だ。
まだ子供だった頃、遊び半分で作った記憶が役に立つなど、当時は夢にも思わなかった。

火にかざしては角度を調整し、それを納得のいくまで繰り返す。
程よく曲がった竹を床に置き、もう一本の竹を手に取った。
同じように形を整形し、出来上がったこちらもまた床に置く。
熱を失った竹を近くに寄せ、懐に仕舞っていた凧糸を解く。麻弦があればそれに越したことはないのだが、生憎麻らしき植物は見当たらなかった。

が、あったとしても弦にするには時間が足りない。
どの道諦めるしかないとさっさと頭を切り替えて、解いた凧糸を同じ長さに切り揃える。三重に重ねた糸を束ね、解けないように編み込んでいく。
ぴん、と伸ばして弾力が出たところで、歪曲させた竹の上下に括りつけた。
即席にしては悪くない。
張った弦を指で弾き、もう一方の竹にも同じように弦を取り付けた。

眠った桂が目覚めるまでに、何か食料になるものを揃えておこうと腰を上げた矢先。

窓の外で、何かが動く気配がした。
逆立つ二の腕を諌め、息を殺して窓へと近づく。
出来上がった弓を構えようとしたところで、矢を作っていなかったことを思い出す。

らしくない。どうやら、心はかなり焦っている。

「…チッ、」

短く舌打ちをして、小刀を構えたまま窓の外へ視線を投げた。
一気に鋭くした視線を突き刺すと、その視線は呆気なく受け止められてしまった。
そこにいたのは敵ではなく、艶やかな鬣を靡かせた黒馬だった。

「…驚かすなよ」

ぶるる、と息を吐いた馬が、足元にぱさりと何かを落とした。
音の場所へと視線を移し、地面に広がったものを見る。
それは色あせた麻布だった。
やわい重力に従い落ちた麻布の上に、何枚もの蓬が重なっている。

「…へェ、持って来てくれたのか?」

馬は何も言わない。
ただ優しく穏やかな目をこちらに向けてくるだけだった。

その目を知っている。
つい先ほど、道を共にしていた馬と良く似た目。
黒い毛並みも、艶やかな鬣も、見れば見るほど似ていると思った。

「…まさか、お迎えってワケじゃねェよな?」

皮肉めいた言葉に、馬は答えない。代わりに、今度は少し哀しい目を向けてきた。
その目を見てはっとする。

同じではない。
この馬は、目の前で失った馬ではない。
何を弱気なことを考えていたのか。本当にらしくない。

一瞬の沈黙のあと、ひょいと窓枠を飛び越え、落ちた麻布ごと蓬を拾い上げる。
ほろり。無造作に掴んだ布から零れ落ちたのは、赤い木の実だった。

「ありがとな」

素直に言葉をかけると、馬は恭しく頭を下げて鼻先を近づけてきた。
触れる直前で止まった頭に触れ、毛並みを整えるように優しく撫でる。

「帰らねェのかィ、お前さん」

問うと、僅かに首を縦に振ったように見えた。
その通りなのか、馬はその場所に留まって動こうとはしない。

「ふぅん…、それじゃ、俺が居ない間、奥のヤツを見といてもらえないかねェ?」

馬は相変わらず無言だ。だが二度瞬きをした。俺は了承したのだと受け取った。
ふっと一度頬を撫でて、長い首をぽんぽんと叩く。
馬は気持ち良さそうに、静々と瞬きをした。

「…悪ィな」

一度だけ馬の頬を撫で、再び窓から室内に戻る。
さっと手に取った竹を細く千切り、先を尖るように手早く削いだ。
小動物の類ならこれで捕える事ができるだろう。
目を覚ました桂が小さく眉を顰める姿が頭に浮かんだが、生きるためだ。
傷を負った躰にはある程度の栄養を入れなければならない。
奪う命に下手な言い訳をするより、遠慮なく命を平らげるほうがよっぽどマシだ。

ここは俺達が普段生きるいま戦場と同じく、弱肉強食の山の中なのだから。

「頼んだぜ」

こつん、と手の甲で馬の背を叩き、一度大きく息を吐いた。
蔦で作った掛け紐で弓を背にぶら下げ、数本の矢を腰に携えて霧の深い山中へと足を踏み入れる。

「山菜採りなンてのは、趣味じゃねーんだよなァ…」

流石に肉だけの食事にするわけにもいかない。
桂のことだ。野菜を食わせろと言うに違いない。
俺には元来、遠慮なく我儘を押し付ける性質なのだ。
それを心地よく感じるようになったのは、ふたりして戦場に出ると決めた後だった。



「…何だよ」

ぶふっ、と吹き出した鼻息と共に頭を揺らし、馬は穏やかな目を自分に向けてくる。
まるで惚れた弱みだと笑われているような気がして、佇む姿を振り返ることなく地面を蹴った。


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