撚糸 A
もう来ることはない。と、思っていた訪問者が再び現れたのは、
早くも次の日のことだった。
今、おっかなびっくりこちらの方を覗いているのは、悠太だ。
昨日は夕方に偶然扉を開けたようだったが、今回は自分の意志で来たのだろう。まだ陽も傾いていない時間から、既に扉の陰から出たり入ったりしている。いったいこのちびさんは何がしたいのだろうか。俺と目が合えば急にそらして扉の陰に隠れ、ほぼほぼだるまさんが転んだ状態なのだ。
一体このちびさんに何を吹き込んだのか。そう思うと急に弟が憎らしくなった来た。
いや、もしかしたら家の邪魔者を追い出そうとしているのかも知れない。
なるほど、嫌がらせということもあるのか。
「あの」
ひとりでぼうっと考えていると、控えめな声が聞こえた。弟の嫁さんに似た、すこし高い声だった。本から目線を上げて、ちびさんの方を見る。あいつは、もう隠れていなかった。服の裾をつかんで、どうしてか真っ赤になって口をぱくぱくさせている。魚みたいだ。俺は、いつぞやに行った水族館にいたマンボウをおもいだした。そうしていると、突如、ちびさんが言う。
「あの…天使さまですか…?」
は?
いったいこのちびさんは何をいった?
天使?こんな俺をか?妄想?いや、妄想にしては、ぶっとんでるだろう。じゃあ弟か?弟もそんなバカ言ったことは何度もあるが、自分の子供にこんな嘘つくか?大丈夫なのか。このちびさんは。あまりに衝撃的な発言に俺は、すこし頭がショートする。それを見かねたちびさんは、畳みかけるように言葉を投げかける。
「父さんが言ってました。うちには天使様が住んでるって、とてもきれいで、とても、かわいい天使さまが住んでるって。お父さんは天使様が大好きだって言ってました。でも、素直じゃない天使様だから、あまり会っちゃいけないって言われたけど、でも、どうしても会いたくて、昨日、ここに来たんです。だけど、びっくりして、あ、昨日は、急に逃げてしまってごめんなさい。僕びっくりしたんです。父さんと母さんよりこんなに綺麗な人みたことがなかったので、いやじゃなくて、その、」
…悠太はじわじわと声が小さくなってうつむいてしまった。やはり、元凶は弟だった。自分の子供になんてことを教えているんだ。弟にすこしあきれていると、ちょっと糸が張った様な声でちびさんは続けた。
「僕、天使さまとお友達になりたいんです」
こんな俺と友達?親子そろって変人だと思った。
確か、弟もこんな風に控えめに寄ってきているのか大胆に寄ってきているのかよくわからない奴だった。こういうやつは、苦手だ。調子が狂う。
…そうやって俺のペースを乱しては、にやにやしていた弟がいたというのも事実だが。俺はため息をひとつして、言う。
「まず、俺は天使じゃねぇ」
「え、でも」
「こっちにきなさい」
俺は、悠太がこっちに近づいている間、ノートとペンの準備をする。悠太が近づくが、すこし離れた距離に立った時、俺は紙を押し付ける。
天志
それは俺の名前だった。
「お前が言ってるのは、天の使いと書いて天使。俺は、天の志って言う名前のてんし。漢字、わかる?」
「…はい」
悠太の目がきらきらしていた。なんだか妙に恥ずかしくなって目をそらす。
少しまよって、また悠太に言う。
「毎日じゃないなら、また来ていいぞ」
子供っていうのはすごい力を持っていると思う。こんなにもきらきらした目で見られては、どうしてたが何かを与えられずにはいられないと、そう思う。
大層うれしそうな声でありがとうございます。と声をかけらると、ずるい。と、頭の中で思った。
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