撚糸 B


「ねぇ、天志君はどうしてずっとここにいるの?」

 悠太が、そうやって不思議そうな顔で聞いてきたのは、俺が悠太の扱いに慣れ、悠太が俺のことを天志君といい始めてしばらく経った頃だった。

「世界が怖いから」

 俺は、本を読むふりをして何でもないように答える。悠太の顔は見れなかった。悠太には、俺の立場が理解できるかどうか分からなかったから、こんな言い方をしたものの、俺は、怖かった。

 悠太は、まだ小さい。確かまだ十歳だったか。今は、分からなかったとしても、いつかは俺がどういった奴なのかが分かる。そうなれば、きっと俺のところには来なくなる。

 俺が、社会に見捨てられてしまった、出来損ないのゴミだと気づけば、きっと悠太は俺から離れてしまう。いつの間にか、俺のことをキラキラした目で見る悠太がいなくなることが惜しくなっていた。

「天志君は外が怖いの?」
「…そうだな」
「天志君にも怖いものあるんだね」
「誰しもそういうのはあるもんだよ」

 忘れかけていた寂しさがジワリと体中に広がる。あぁ、やっぱり最初に撥ねつけていれば良かった。結局、一人になるのなら。結局、ゴミになってしまうなら、

 最初から、寂しさなんて捨てればよかった。

「お父さん」

 悠太の声に、本から顔を上げると、久々に見る弟がドアの前にたっていた。仕事帰りか、まだスーツを着ている。

「ただいま、悠太」
「お帰りなさい。どうしたの?」
「テンシに会いに」
「天志君に?」
「うん。悠太。悪いけど、お母さんの晩御飯の手伝いしてきてくれる?」
「・・・わかった」

 二人の会話をじっと聞いたまま俺は、本を読んだふりをしていた。俺は、傍にいた悠太が離れていく感覚を何もしないままじっとしていた。

「天志君」

 悠太に呼ばれて顔を上げる。悠太は、見たことない表情で俺を見ていた。

「後で、また来ていい?」
「…好きにしろよ」

 俺が、そういうと、ありがとう!と、元気に部屋から出ていった。胸の温かさをじんわりと感じるが、開いたままのドアを閉められ、ご丁寧に鍵までかけられると、残った人物を思い出し、その温かさは冷えていった。

 丁寧に俺を閉じ込めた張本人は、じっとドアノブに手をかけ俺を見ていた。その眼の色は不透明で、何も見えない。

「久しぶり、兄さん」
「…夏久」

 会うのは、一か月振りだ。最後に見た時よりも、襟足が少し長くなった。弟は、ゆっくりと俺の傍に座りスーツの上着とネクタイを外す。不意に匂うのは、昔俺が吸っていた煙草の匂いだった。

「お前、まだ続けてんのか」
「ん。なんか落ち着くから」
「悪習なんだから、マネするものじゃないんだぞ」
「兄さんが吸ってないから俺が吸ってんの」

 開けたばかりの煙草の箱をからからと振って見せる。昔、俺の住んでた部屋を勝手に引き払ったとき、中で見つけたのだろう。会ったときにはもう吸っていた。弟は慣れた様に箱から煙草を取り出し、火をつけた。

「げんき?」
「…まぁな」
「そっか」

夏久は、手首をかりかりと指でかいている。俺はそれをじっと見つめている。話は、なんて続くことはない。でも、今日はそうもないらしく。

「兄さん。悠太と最近仲いいね」
「…あいつが勝手にここに来るんだ」
「俺が会いに来ても、最初なんか殴るばっかりだったのに?来たとしても、兄さんぜーんぜんこっち向かないのに?」
「…」
「最近、悠太は兄さんの話しかしないんだよね。天志君は物知りだとか、天志君は話をするときは目を見てくれるとか。天志君はいつも困ったように笑うとか。まるで、昔の兄さんだね。妬けちゃうね」
「…」
「ね、俺がどれだけ会いたくなったと思う?」
「おい、あいつはお前の子供だろ」
「俺は、あんたの弟だけど」
「いい加減にしろ。くどい」
「いい加減にしなきゃいけないのは兄さんでしょ」

 そういわれて、言葉が出なくなる。

「兄さん。もう、随分経った。俺は、ずっとこのままでもいいよ?兄さんをずっと繋ぎ止められるし…兄さんを養って行けるならそれはもう本当に幸せだけど…」

 背けていた顔を無理やりこっちに向かされる。煙草はもう吸っていなかった。

「兄さんはそれでいいの?」

 息がかかるほど近いあいつの顔は、父さんの、若いころの写真の顔に、似ていた。

「お前、何考えてんだ」
「兄さんの事しか考えてない」
「お前…」
「夏久」
「…」
「名前、呼んで」

 弟の甘い視線に、体中が恐怖で強張る。怖い。その眼も。俺の髪を触る手も。かかる息も。煙草の匂いも。外の世界も。何もかも。

「ふざけんな」

 俺は、弟を押しのける。立ち上がり、壁を背にして弟と向き合う。バランスを崩しただけの弟に、勢いに任せて怒号を浴びせようとするが、できない。俺にそんな資格はない。そんなことは、わかってる。俺は、何もできないまま弟を睨み付けることしかできなかった。

「ほんと兄さんかわいい」
「でてけ」
「やだよ。いまでてったら、また一か月会えなくなるでしょ」

 一瞬、目が光る弟に足が震える。

 ここに来た、最初の年。弟は俺の目の前で手首を切った。三か月こいつに会わず閉じこもっていると、ドアを蹴破られ、あの甘い目で俺を見ながら、持ってきていたカッターで、手首も見ずにその刃を動かした。赤い血を流していたのは今でも忘れることができない。切るのを止めるのを条件に、俺は月に一度だけ弟に会う日を設けたのだ。

 俺は、そこまでする弟が怖かった。いまも。こわい。

「そんな顔しないでよ。にいさん」
「うるさい。でていけ」
「俺は、昔みたいににいさんに笑ってほしいだけだよ」
「お前、一体どうしたんだよ!昔はもっとお前だって普通だった。できのいい弟で、優しい弟だと思ってた、どうして、こんなことするんだよ。お前には、悠太も漠さんもいるのに…」

 俺は、その場に座り込んでしまった。どうして、こんなことになってしまった。五年前、やっぱりあの時、死にたかった。思わず涙まで出てくる。情けない。だけど、止まらない。

「一番変わったのは兄さんの方だよ」

 弟は、ゆっくりと近づいて俺を抱きしめる。もう抵抗する気にもならなかった。俺の頭を撫でると、また一か月後にね。と、耳元に一言だけ残して弟は出ていった。

 最悪だ。いつもこれだ。ここにも、外にも、どこにも居たくなくなる。

 誰か助けて。

 俺を、誰か助けてくれ。


prevnext

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -