◎ サロメ15
「土方さん、お茶お持ちしました。」
「おう、そこに置いてくれ。」
「はい、承知しました。」
新選組の屯所に暖かな春の日差しが差し込む。土方はその手を休めることなく、筆を動かしていた。ありすは邪魔にならないよう、少し離れた所に淹れたてのお茶を置く。茶柱がゆらゆらと揺れた。
「そういえば先程、近藤さんがお団子を買ってらっしゃいました。後ですぐそこの桜の下で召し上がってはいかがですか?」
「……そうだな。お前も来るって言うなら、行ってもいいぜ。」
静かに筆を置いた土方は、そっとありすの方を向いた。鬼の副長とは思えない、柔らかな表情だ。
「は、はい。土方さんとなら、喜んでご一緒させていただきます。」
お盆を胸元で両手に抱え、ありすは大きく頷いた。
本格的に土方の小姓として働き始めて幾分か時が過ぎた。お互い大分心を許しあうようになってきたと、ありすは感じていた。土方のだいたいの性格と習慣は分かってきたし、それなりに新選組での居場所もできている。
新選組に来る前が不幸せだった訳ではないが、小さな幸せを確立していった。
何よりこの気持ちは伝えられずとも、土方の傍にいられることが何よりの幸せであった。
ありすに出来ることは基本的に任せられるようになり、自分の存在意義というものをありすは初めて知ったのだ。
近藤や山南も、ありす無しでは土方もやっていけないだろう、そう口を揃えていた。
「そうだな……やることが終わったら直ぐに行くか。」
「終わりそう……ですか?」
「馬鹿野郎、終わらせてやるよ。」
楽しみにしている、そう微笑んだ土方にありすの胸はより一層高鳴った。
(……桜、綺麗だったな…………)
薄っすらと目を開ければ、そこはまだ薄暗い室内だった。
外からは波しぶきの音が聞こえ、床も微かな振動を続けたままだ。
ここは、蝦夷に向かう船の中だった。
この船にはありす自身の意思で乗った。ここまでくるのに色々苦労はあったが、なんとかこぎ着くことができたのだった。
ありすが新選組に身を置いている間、土方らは絶頂とどん底を見た。世に言う池田屋事件で名を馳せた後、京都ではより恐れられる存在になった。しかしその後は後味の悪い戦が続いた。羅刹の問題も徐々に悪化していった。
鳥羽伏見の戦いが終わると一行は江戸へ向かったが、土方とありすの別れは思わぬ時にやって来た。
たった一通の手紙を残し、土方はありすの元から姿を消したのだ。
その手紙には、ありすに対する感謝と詫びの言葉が並べられていた。
自分の実家で面倒を見てもらうように頼んであるからそこを頼るように、とも記されていた。
恐らく幼い時から偽りの父親に育てられ、最後にはその父親にも裏切られたありすに対する、土方なりの気遣いだったのだろう。ありすをたった一人にすることだけは、土方自身も避けたかったに違いない。
ありすは土方の意思を尊重することにした。
必ず土方はこの戦いを生き延びると確信していたから、全てが終わるまでひっそりと過ごすと決めたのだ。
そして長い戦が終わった今、ありすは土方が最後に辿り着いたという蝦夷の地に向かっていた。
風の便りでは、土方は函館で戦死したという。新政府軍に善戦したものの、最後は銃弾に倒れた、そうありすは聞いていた。土方が変若水を口にしたかどうかすら分からない。ただ土方ならば、新選組のために羅刹に堕ちることは躊躇わないだろう。
何より驚いたのは、道半ばで近藤が死んだことだった。てっきり新選組を最後まで見届ける一人だと思っていたからだ。そして原田や永倉の離脱、斎藤が仙台に残ったこと。離れ離れになっていく新選組を、今土方はどう思っているのだろうか。それだけが気がかりで仕方なかった。
(今貴方は、どこで、何をしてますか)
そして何より、ずっと温めてきたこの想いを土方に今こそ伝えたかったのだ。
例え土方が生きていなくても、そうでなくても、だ。
(必ず生きて再び会えると、信じています……)
風が一段と寒くなった。
蝦夷の地は、もう近い。
続
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