◎ サロメ13
「さすが、ありすだな。察しがいい。」
「当たり前でしょう。それより…貴方達の方こそ手筈通りじゃなくって?」
お互いに相手の姿は見えていなかった。
それでも、直ぐ近くにいるであろう相手の気配を悟りながらその距離を互いに詰めていく。
「っ……!」
ありすはその腕を掴まれ、勝手口の向こうへと引きずられる。
助けを求めようと思えば、できる。しかしここで大声を出せば、自分の正体が知られるのも時間の問題だ。そんな自制心から、ありすは一刻も早く、自分の力でなんとかこの状況を切り抜けなくてはならなかった。
「…悪いことは言わない、大人しく居るべき場所に戻れ。」
「でも……それじゃあ、私…!」
「いいから戻れ。お前のやるべきことは終わった。ほら、早く歩け…!」
ぐいっと手を引っ張られ、ありすは苦痛に顔を歪めた。相手は男、叶うはずもなくそのまま外へ連れ出される。
持ち歩いていた仕込み刀も、芹沢鴨との一件で駄目になった。つまり幹部たちの目に触れられそうもないそこ場所で、もはやありすに抵抗の術は残されていない。
(土方さんとお別れできないまま…そんな……!)
ぎゅっと目を瞑り、最後に土方の温もりを思い出す。別れは意外にも呆気なくやってきた。自分が全てを投げ打ってまで固執してきたのは、何だったのだろうか。
「まったくお前には困ったもんだよ。仕事をしないばかりか、相手に情なんざ移しやがって。」
「そんな、貴方達…全部知っていたとでも…?!」
「当然だ。お前の行動は全てこちらで監視してある。」
もしかすると新選組に潜入したのは自分だけではなかったのかもしれない。誰かに粉していたのかもしれない。いや、それはなくても少なくとも間者がいたのは確かだろう。
ありすは、仲間から語られる自分の見てきたことを聞いて、そう考えた。
もしかすると、自分はかなり危機意識が落ちていたのかもしれない。
(あぁなんて情けない……)
そう悟ったありすは、大人しく手を引かれることにした。
心の中に、小さな蟠りを残して。
「それを知ってちゃ、生かしておけねぇなぁ。」
一瞬ありすは目を疑った。
そこには何と、土方の姿があったのだ。お気に入りの紫の袴に、新選組の象徴を纏い、屯所の最後の出口を塞ぐように立っていたのだ。
「こっ、これは土方さん。うちの者がお世話になりまして。へ、へぇ…このまま引き取らせてもらいますわ。」
先程ありすに向けていた口調とは正反対の穏やかな口調で、仲間の男は対応した。
「その割には….芸妓とするような会話じゃなかった気もするが、どうだ?」
仲間の男は、土方の鬼のような形相に狼狽えた。一歩ずつ距離を取り、逃げ出す機会をどうやら伺っているようだ。ありすは、それは賢明な判断だと思った。いつら男同士とはいえ、ありすの知る限りでは土方に勝てない。
「何かの聞き間違いではないでしょうか。こいつはただの芸妓…そして自分は連れ帰ろうとしただけで…。」
「そいつがただの芸妓じゃねぇってのは、知っている。」
向けられた視線に、ありすまでもその背筋を凍らせた。
この語り口では、既に自分の正体が発覚しているのは間違いないだろう。これが「新選組の鬼の副長」、一切その隙を許さない人物だ。
「いやぁ、ただの芸妓じゃないといいましても….確かにうちのありすは学もあり、武術にも優れていますが…。」
「そうじゃねぇ、いい加減にしろ。お前らに言われて新選組の内部を探っているのはおおよそ察しがついている。….#name2#を離せ、こいつは新選組が預かる。」
今度は土方が、ありすを引き寄せた。
体の半分は土方の腕の中だったが、着物の袖は未だ仲間の男に掴まれている。両側かけられる力に、もはや体の限界だった。全身から血の気が引いていく感覚に、ありすは必死で耐える。だが徐々にその力が奪われていく。
「ありす、少しの間…我慢してろよ。」
土方の柔らかな声が、ありすの脳内に響く。
新選組の内部を探っていた人物に対するものではない、まるで自分を守るかのようなその声色に、一瞬の幸せを覚える。
その「我慢」が、例え自分が殺される時の痛みだとしても。
しかしありすの予想は、見事に外れた。
袖を掴まれていた力がいっきに抜け、土方の胸の中へ飛び込むようにありすの体は傾いた。すぐに仲間の男を見れば、自らの腕を抱え苦痛の表情を浮かべている。
それは一瞬の出来事だった。
土方は相手の腕に一発、峰打ちをお見舞いしたようだった。ほんの数秒、ありすにとっては気づかないほどの間に起こった出来事だった。
「ありす、大丈夫か。」
「ひ、土方さん….私….。」
「いい、これ以上何も言うな。お前は悪いやつじゃねぇ、それは分かっている。」
土方は一体どこまで知っていたのだろうか、ありすには分からなかった。
ただ土方は愛刀を持ち直すと、仲間の男に向かってその刃をむける。今回だけは見逃してやる、だからこの場を立ち去れ、と。
だが仲間の男の表情は、か弱い番頭から思わぬ変貌を遂げた。
折れ曲がった手首を見て、不気味な笑い声をあげるとありすの名を呼んだ。今まで見たことのない表情に、先程以上の恐怖が押し寄せる。
「土方よ、この女はな…。」
男の語り口から、次に続けられる言葉をありすは予感した。
まずい、これ以上言われては。自分はどうなってもいいが、これ以上土方の前で正体は暴かれたくない。
「だめ、やめて!それ以上…。」
「お前の首を取ろうと、ここに来たんだよ!!」
甲高い笑い声が、その場を包み込んだ。ありすは絶望に打ちひしがれ、何も言葉を発することができなかった。
最も知られたくないことを、最も知られたくない人に露呈してしまった悔しさ。途方に暮れ、ありすは土方の腕の中から零れるように、その場に座り込んだ。
「申し訳、ありません、土方さん….本当に申し訳ありません…。」
止まらない涙を、まるで全て土方に捧げるかのように、ただひたすら土方の足元でありすは流した。ぽつぽつと影を落とすそれは、すぐに乾いては消えていく。
新選組の中にいて、まさかこんなに危機意識が低下するとは思ってもいなかった。ありすの中では長く濃厚な時間だったが、彼らの中ではこの涙が乾くのと同じくらいの早さにしか、感じていないのかもしれない。この男、土方歳三にとっても。
「土方さん…どうか、このまま私を…。」
殺してください、そう見つめ上げた土方の目線は、決してありすを見ているものではなかった。土方の視線の先は、仲間の男を通り過ぎて、その先にあるようだ。
妙に背後が騒がしい、仲間の男の悲鳴が響き渡った。
「話はまだ…終わっちゃいねぇようだな。」
土方が捉えた先には、福田屋の一軒でありすが席をともにした、恰幅のいい男の姿があった。
もう一人現れた自分の仲間に、ありすの脳は混乱を極める。
ずかずかと足音を立てて、もう一人の男はやってきた。「その節は楽しい宴会をありがとうございました」と気味が悪いくらいに丁重に挨拶をしたあと、ありすをその脂ぎった目で睨みつけた。
「ありす、俺は少々お前を自由にし過ぎたようだ。さあ、帰ってきなさい。ここで死んではいけない。次の行く先はもう決まっている。」
いかにも子供をあやす父親らしく、ありすに手を差し伸べた。
物心ついたときから両親の記憶はなく、彼らといるのが当たり前になって、この男は特にありすにとって父親のような存在だった。言うことを聞かなくてならない、そんな風にこの男から発せられる言葉には、そう思わす力がこめられている。
「は…い。」
まるで操り人形のように、ありすはその男の後を追った。初めにありすを連れ去ろうとした男の方は、ありすたちの背後を守るように生き残った片手で刀を構えている。最後まで土方には気を抜いていない。
「…..待て、まだ話は終わっちゃいねぇ、そう言っただろ。」
言葉とは裏腹に、土方はその刀を鞘に収めた。戦うつもりはない、そういった意思表示なのだろうか。ありすの手を引いていた男が足を止め、その土方の姿を確認すると、疑問符を投げかけた。
「ありすの役割はこれだけじゃねぇだろ、俺にはまだ知らないことがあるはずだ。一時コイツの身を預かっていた者としては、知る権利だあるんじゃねぇか?大将さんよ。」
「….その根拠、は?」
「わかんねぇよ、ただの勘だ。ただその腕折った男でも知らないような裏があるような気がしてな、せっかうお偉いさんのおでましみてぇだから、聞きたくなっただけだ。」
聞かせてくれればなかったことにしてもいい、土方はそう付け加えた。
男は一瞬躊躇いを見せたが、やがてその重い口を開いた。ありすは自分でも知り得なかった悲しすぎる事実に、今度こそその意識を失った。
続
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