夢見た明日はくるのか



 コツコツと虚夜宮の廊下に私の足音が木霊する。薄暗い廊下に、硝子の無い窓から月の光が規則的に差し込んでいた。
 青白い空気がひっそりと床に寝そべっている。耳を済ませても生き物の気配はしない、静かな夜だった。
 夜と言ってもこの世界は常に夜に包まれているからいつでもこの明るさなのだけど。それでも、私はトレーに湯気が立つ朝食を乗せて廊下を歩いていた。
 料理を落とさないように慎重に歩いていると、いつの間にか目的の場所に辿り着く。真っ白な扉を一瞥して気配を伺うと、部屋の主は既に起きているようだった。
 必要ないとは言われているが、長年の習慣は抜けず迷った末に私は今日も扉に向かって声をかける。
 
「おはようございます藍染様。お食事をお持ちしました」

 数秒もたたず扉が音もなく開いた。見慣れた廊下を進んでいくと、開けた部屋の真ん中に主人が今日も優雅に佇んでいた。
 白い衣服に身を包み、仕上げとばかりに髪を後ろに撫で付けた彼は今日も一切の隙が無い。
 身支度を整え終わったのか、まっすぐと立つ私に目を向けた彼はにこりと微笑む。これもまたいつも通りの笑顔だった。
 
「おはようスミレ。今日もご苦労だね」
「いえ」
 
 形式的な挨拶を済ませ、手早く机に料理を並べていく。藍染様は自然な足取りで机に寄り、椅子を引いて座った。
 やがて微かに食器の擦れる音がして、私はすっと身を引いた。そのまま備え付けのキッチンに行き、ポットにお湯を入れて沸かしていると「ふっ」と笑う声が聞こえた気がして、私は顔を上げて藍染様を見つめる。
 彼は食事に視線を落としたままだったが、なぜか感慨深いように皿の上の料理を眺めていた。
 
「何かございましたか?」
「いや、本当に料理が上手くなったと思ってね」
「はぁ」
「君が初めて作ったスープを飲んだときは衝撃だったな」
「申し訳ありません……?」
 
 思っていないだろう、と藍染様は笑って再び食事に戻った。
 私は何か粗相をしてしまったのだろうか。一瞬だけ不安が頭を掠めたが、考えてもどうせ分からないことは目に見えていたので早々に諦めて仕事に戻る。
 しかし“食事”というものを作りはじめてから随分と長い年月が過ぎたように思うが、藍染様にそんな事を言われたのは初めてだった。
 なにせ私には食べ物を摂取する必要性がないので、彼がたったいま口に運んでいるものが美味しいのかどうかさえ未だに分からないでいるのだ。でも、反応を伺う限りまずい訳では無いようなので安心する。
 ……いや待て、先程の藍染様の言葉を反芻すると少なくとも初期の頃はまずかったのか。それはちょっとだけ悲しい。
 
「次は和食を作ってみると良い」
「……あの小難しいものをですか」
「レシピはあるんだろう?今の君なら作れるさ」
「藍染様がご所望ならば」
「何事も挑戦だよ」 
 
 はぁ、とまたしても気の抜けた声が私の口から漏れるが、藍染様はさして気に留める様子も無く食事を続けた。相変わらず読めない人だ。といっても私は大抵の事に疎いので、きっとこの先、藍染様の考えを読める日なんて永遠にこないのだろう。
 そう結論付けて、お湯の沸いたポットを傾けてカップにお湯を注ぐ。器を温めている間に茶葉が入った箱を開けて、小さな網に少量を落とした。これで後は藍染様のお食事が終わるのを待つだけだ。
 
 手持ちぶさたになると、いつも考えるのは「何故私はこんなことをしているだろう」という疑問だった。
 あの日、藍染様いわく私は“生まれた”らしいのだが、実は未だにピンと来ていない。私は確かに自分で生きたいと願った筈だ、しかし果たしてこれは生きているというのだろうか。
 これは後から知ったことなのだが、藍染様は強い破面を作り出すために実験を重ねていたらしい。何度も何度も失敗して、ようやく完成したのが私だったが、私には力は愚か知性すらまともに備わっていなかった。
 なのに、私はこうして仕事を与えられこの城に住まわせて頂いている。不思議な事だ。彼は文字通り私を歓迎し、根気強く色々な事を教えてくれた。文字の読み方に沢山の感情の意味。生活に関わる何もかもを与えてくれた。そのおかげもあって、初期よりは幾分マシになった私の能力はこうしてお世話係として発揮されている。
 
「ご馳走さま」

 思考の波に呑まれていた私は、カチャリと食器が置かれる音ではっと現実に呼び戻された。机を見れば、料理は綺麗に無くなっていて、慌てて食器を下げる。そして用意しておいた茶葉にお湯を通して藍染様の前にカップを置くと「ありがとう」と軽やかな声がかけられた。

「夜は自分で済ませるから後は好きにするといい」
「かしこまりました。いってらっしゃいませ」
 
 そうして、朝の一時はつつがなく終わりを迎えたのだった。
 私は深く一礼をしたまま藍染様を見送る。やがて、足音が遠ざかっていくのを確認してほっと息を吐いた。

 最初は一人きりだったこの城も、いつの間にか沢山の破面が生活を共にするようになっていた。その中に私のように弱い個体は一人としていない。
 これはいつか捨てられるなぁと遠い昔に考えていた不安もいつしか掠れて、やはり私は今日も生きている。
 
 ぐるりと、彼の残り香が漂う室内を見回して今日も私は自問自答を繰り返す。
 
 生きたい、そう願った意味は果たして見つかるのだろうか。

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