むかしむかし、あるところに



 全身を打ち付ける雨には優しさなど欠片も無かった。纏った衣服から髪の先までじっとりと水を含んだ体が酷く重い。水の重みに耐えかねて頭をもたげた先には無表情な自分の顔が波打つ水面に反射していた。
 
 ――あぁ、またこの夢だ。
 
 ぼんやりと、胸の中で呟く。といっても、この夢を見るときは決まって自分をどこか遠くから眺めている心地だった。確かに私だと理解はしているのに、体に比例して心はいつも一歩下がった場所にあった。
 太腿まで水に浸かったまま、大粒の雨が体に降り注ぐのを静かに耐える。
 あと、もう少し。もう少し待てば、きっとまた。
 
「――!」
 
 ほら、聞こえた。
 雨を縫って耳に届く声に顔をあげる。雨と呼ぶには激しすぎる水の先、川の対岸に掠れかかった人影が見える。体格からして男性、なのだろうか。
 その人は私に向かって必死に声を張り上げていた。
 
「――!…て、―こい!」
 
 何度も、何度も呼ばれる名前はきっと私の事なのだろう。その証拠にその人の声が一定の音程を刻む度、朝露を跳ねた葉のように私の心が静かに揺れる。
 顔にかかる髪の毛が邪魔をして中々彼の顔を拝むことができない。鬱陶しくてはらってしまいたいのに、やはり私は何もせず水の中に立ったままだった。
 
「―っ、…から…―へ、―からな!」
 
 私が動かない事にしびれを切らしたのか、はたまた最初からそのつもりだったのか。声の主は段々と私に近付いてくる。
 砂利を踏みしめる音が、荒々しい水音に変わった瞬間、私の体が突然びくりと動き出した。
 足場が悪いのをものともせず、藻でぬかるむ石を必死に蹴りあげながら私は深い場所へと足を進めた。後ろの方からは絶えず声が聞こえるけれど、振り返ろうとは思わなかった。
 
「――!」

 幾度も聞いた私の名前、けれども決して声として耳には届かない私の名前。心をかき乱す音程に、ようやく足が止まる。
 
 振りかえれば、そう遠くない場所に男はいた。ちょうど、最初に立っていたあたりだろうか。私とちがって大きい彼は、太腿の下あたりに水面があった。そう、彼は大きかった。私よりもずっとずっと、昔から。
 対して既に腹のあたりまで水に浸かった私は彼を目に焼き付けようとしていた。目が細められるのは雨のせいなのか、はたまた彼のせいなのか。今の私に判断できる頭はとうに無かった。それでも最後に一目だけ、見たいと願ったのだ。
 
「――、どうし な だ?」
「ごめんなさい」
 
 雨にかき消される声、なのに私の声だけははっきりと響いている気がする。
 
「いま ら まだ まに う」
「私のせいなの」
 
 そう、わたしのせい。
 
「おれ き を 」
「やめて」
 
 これ以上、わたしに、何も言わないで。
 
「き だ けを」
「やめて、お願い」
 
 長い間、苦しんだ。言葉の響きは幸せな筈なのに、私に届けば全てが針のように耳に刺さる。
 
「あい し る」

 わたしの腕を掴もうと伸ばされた腕から必死に逃げる。もはや反射的なものだったのかもしれない。手のひらで必死に水を掻けば、水面は顎の下まで迫っていた。
 
「……っあ、」
「――!」
 
 ふいに足の裏がぬかるんだ石を踏む。わたしの体はそのままあっけなく水の中に沈んだ。
 舞い上がる髪が視界を覆い、浮遊感に体が拐われる。霞む視界の中に水面を突き破った逞しい腕が伸ばされた。
 けれども、間一髪の所で捕まる事は免れそのまま私は深い深い水底へ沈んでいく。
 
 肺に水が流れ込んで、僅かに残っていた空気も口から泡となって水に溶けていった。呼吸を奪われてしまっても、苦しくは無かった。
 水の流れが早いのか、体は水流に巻き取られどんどんと薄暗い底へ流されていく。

 始まりは辛く、続けるには困難で、終わるのはこうも容易い。
 空しさに泣きそうになるのと同時に、不思議とこれで良かったのだと、胸を撫で下ろす自分がいた。
 
 長い長い、夢の話だ。
 

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