ペチュニアの恩恵


 常守朱は自分が幼稚だと自負している。今だって、せっかく出してもらった紅茶に対して気の利いた感想ひとつも出てこない。
 何でも、今どき珍しい本物の薔薇が入っているらしい。香りを楽しんでから飲んでみてと言われたそれを、舌の上で一生懸命転がしてみる。香りは確かに甘くて上品に感じるが、好きかと言われれば正直微妙なところだ。結局、なんだか苦酸っぱいなぁとありがたみの無い感想しか浮かばなくて、それ以上飲むのをやめてしまった。
 こんな風に世間知らずだから、きっとあの男を怒らせてしまうのだろう。
 
「あら、宜野座くんは意外と単純な男よぉ」

 鬱々とした朱とは反対に、目の前に座る美女は間延びした声でそう言った。しょりしょりと爪の先にやすりをかけ、ふっと息を吹きかける姿のなんと美しいことか。
 見れば見るほど吸い込まれそうな唇はタルトに乗った苺を連想させた。ナパージュで閉じ込めた赤色はつやつやと煌めいて、触れれば溶けてしまいそうだ。
 そんな唇から紡がれた「単純」という言葉に朱は首を傾げる。

「単純? 複雑の間違いじゃないですか?」
「んふふ。朱ちゃんにイイコト教えてあげる」
「いいこと?」
「実は宜野座くんにはね、とーっても大切な女の子がいるのよ」
「えっ」
 
 あの宜野座に、大切な人がいる。そのフレーズは胸の内で何度もこだまをする。あまりに驚きすぎたせいで手元のマグカップがちゃぷりと音を立てた。
 朱の反応に目尻を満足気に細めた唐之杜は、さらに楽しげに言ってのける。
 
「そりゃあもう目に入れても痛くないぐらい大事で大事で。あんまり大事すぎるもんだから手も出せない哀れな男なのよ、彼」
 
 呆れている、というよりは少し優しげな口調だった。まるで仕方がないと言いたげな。
 朱の脳内はかつてないほど混乱している。唐之杜の言葉を反芻するたびに、一歩また一歩と宜野座のイメージとかけ離れていくのだ。そもそも、彼が女性と親しげにしているのなんて見たことがない。せいぜいが唐之杜と六合塚ぐらいだろう。といっても、彼女たちと話すことなんて仕事のこと以外ありえないのだけれど。
 
「ほんとねぇ、仕事以外はからきしなのよ。見てる方としては早く収まるところに収まっちゃえばいいのに、って思うんだけど」
「……宜野座さんも恋愛するんですね」
「やぁだ朱ちゃん。宜野座くんのこと何だと思ってるのよ」
「正直、難しい人だと思ってます」
「そうねぇ。確かに難儀な性格よね」
 
 ほんの少し唇を尖らせて言ったあとで、またやってしまったと恥ずかしくなる。子供っぽいのはいい加減卒業したいのに。

「意外って思う? でも、そんなもんよ他人って。知らないことがあって当たり前で、見えないことが普通なの。大事なのは自分がその先を何処まで理解したいと思えるかじゃない?」
 
 きゅっ、と心臓が小さな音を立てたのはきっと気の所為ではない。思わず顔を上げて何かを言おうとしたが、言葉は出てこなかった。
 組みかえた足の上に肘をつき、小さな顔を手のひらに乗せた唐之杜と少しのあいだ無言で向き合う。
 
「……確かに、宜野座さんは冷たいけど嫌な人ではないと思います。小言は言うけど、縢くんの書類を手伝ってあげてるし」
「そうねぇ、本当に嫌な奴ならわざわざ潜在犯なんかに話しかけもしないでしょうね」
「そんなこと……いえ、何でもないです。あの、ちなみにその人って公安局にいるんですか」
「いるわよぉ」
「だっ、誰か聞いてもいいですか」
「どーしよっかなぁ。一応プライベートな事だしねぇ」
「うっ。そうですよね」
「あら、でも朱ちゃん多分会ってると思うわよ」
「えっ」
「立場が立場だしねぇ」
「偉い人なんですか?」
「んふふ、さぁどうかしら」
「唐之杜さぁん」
「その内会えるわよ。なんせ彼女も宜野座くんのコト、だぁいすきだから」
 
 綺麗な曲線を描いた睫毛がパチンとウインクを飛ばす。
 頬に熱が集まるのは唐之杜の色気に当てられたせいなのか、はたまた上司の恋愛事情を聞いてしまったせいなのか。
 どちらにせよ、これでは暫くまともに顔が合わせられそうにない。熱い頬を両手で挟みながら朱の頭の中にはすでに宜野座とまだ知り得ぬ女性が寄り添っている。

「両想いなんだぁ」
 
 とても素敵な事だと、純粋に思う。
 きっと百合のように淑やかで、宜野座にそっと寄り添う落ち着いた女性なのだろう。
 ふふふ、と頬を赤らめた朱に唐之杜は哀れみの視線を送った。
 事実は小説より奇なり、って言葉。朱ちゃん知ってるかしら。
 喉元まで出かかった言葉を寸前の所で押し止めて、麗しき分析官は煙草のフィルターに甘い吐息を押し付ける。
 古今東西、デキる女は失言をしないのだ。
 
 

 
 
 時を同じくして、公安局の室内バルコニーでは硝子越しの夕日を背に二人の男女が休息を取っていた。
 
「くしゅん!」
「わ、チカたんのくしゃみ可愛いー」
「男のくしゃみに可愛いも何もないだろ」
「ううん、世界一可愛い。録音したかった」
「……そうか」
「アンコールしてもいいですか」
 
 真顔で鼻先に差し出された端末に、宜野座はしばし逡巡する。突発的な生理現象にアンコールをされても困るのだが、彼女は至って真面目なようだった。

「……くしゃみは、もう出ない」
「ちぇっ、惜しいことしたなぁ」
 
 少し考えて当たり前の返事をすれば、美波はしぶしぶといった様子でベンチに置いてあった紙袋をあさり始める。
 元々ランチをする予定だったのに、今日も今日とて仕事が終わらず夕方にずれ込んでしまったのだ。いつも先に食べていて構わないと伝えているのに、こういうところが律儀というか何というか。
 昔はまだ太陽がてっぺんにある頃に昼食を取っていた。それも季節を重ねるごとに時間は少しずつ開いていき、三人で囲んでいたテーブルもやがて二人になり、ついにはこうしてベンチで小ぢんまりと食べるようになってしまった。
 いつの間にか冷めきっていた缶コーヒーのプルタブに指をかけながら、宜野座はぼんやりと空を見つめる。
 本当に、いつの間に。散々こぼした問いかけに答えが返ってきた試しはない。当たり前だ、口に出したことなど無いのだから。
 
「んで、常守さんとはうまくやれてるの」
「犬達とはうまくやっているようだな」
 
 常守朱、その名詞が美波の口から出たことに少しだけ驚いた。見ていないようで見ているものだな。そう感心しつつ反射的に憎まれ口を叩いてしまったのは、最近増えた悩みのタネがまさしく彼女だからに他ならない。
 狡噛慎也とほぼ同じ経歴を経て公安局一係に配属された、まだ少女と言ってもいい女の子。小動物を思わせるくりくりとした顔をしているくせに、肝っ玉がやけに座った手強い女性だ。
 只でさえ毎日くせ者揃いの部下たちに胃を痛めているというのに、どうして俺の周りには敵が多いのかと、宜野座は辟易とした毎日を送っている。
 どうせ俺は嫌われ者だ。表面上はそう折り合いをつけているが、やはりここまで敵が多いと悲しい気持ちも否めない。別に対立したい訳ではないのに、自分はどうも人付き合いに向いていないと今日も今日とてしょんぼりと項垂れる。
 
「まーた犬とか言っちゃって。本当は大事に思ってるくせに」
「俺とアイツ等は対等な立場じゃない。あくまでも飼い主と犬だ」
「はいはい。本音は?」
 
 手の中に収まっていた缶コーヒーがひょいと細い指に抜き取られる。代わりに持たされた紙コップの中には湯気を立てるお茶が入っていた。
 丸めていた上背を少しだけ起こして美波を見る。真っ直ぐにこちらを見つめる瞳は全てを見透かしているようで、居心地の悪さに宜野座はすぐに目を反らした。
 苦し紛れにコップを傾ければ、温かい液体が喉を滑ってすとんと胃に落ちる。じんわりと胃を包みこむ熱は、強張った体を緩めるには十分で、自然と口の端から暖かい息が漏れた。
  
「……少々、きつい物言いをしてしまった」
「よく言えましたー」
 
 しぶしぶと答えれば宜野座に向かってちょいちょいと手招きをする美波の手。少しだけ頭を下げると、細い指先がさらさらと髪の間を通っていく。自分の顔がむっつりとしている自覚はあるが、それでも大人しく撫でられる程度には疲れていた。
 背中を丸めて女性の手に慰められる姿はさぞ滑稽だろうと、凝り固まった頭の奥で自嘲する。だが自分の頭を撫でくりまわすこの手には、どうにも抗えない。
 月日がいくら流れても、自分を偉い偉いと撫でる手つきが変わらないことにほっと息を吐くのも何度目だろう。
 
「はい、これ食べて」
「自分で食べられる」
 
 ひとしきり頭を撫でた手は満足したのかやがて離れていき、次にその手で差し出されたのはサンドイッチだった。無地のワックスペーパーに挟まれた三角形のパンは白くふわふわで、間に薄切りのハムとレタスがみっちりと収まっている。ちらりと覗く差し色のチーズが何とも美味そうだ。
 
「いーから。はい、あーん」
「おい、流石にこの年でそれは無いだろう」
「何歳になってもいいでしょ。ほらほら、お口を開けてごらん」
「むぐっ、……うまいな」
「でしょ。チカたん絶対好きだろうなぁと思って買ったの」
 
 口に押し込まれたサンドイッチを仕方なく黙々と食べれば、美波はにんまりと笑った。
 
「お前は食べなくていいのか」
「私はこのコーヒーで十分」
「コーヒーで腹は膨れないだろ」
 
 そこで会話は一旦途切れた。ベンチで肩を並べながら、硝子越しの街を無言で眺める。
 時刻は既に17時を回っていた。街を彩るホログラムは迫る夜に合わせて寒色系にシフトし、穏やかな雰囲気に包まれている。
 シビュラの恩恵を皆等しく受けるこの街を、宜野座は心の底から肯定している。この暮らしこそが守るべき対象であり、自分達が仰ぎ見るシビュラこそが平和の象徴であると。
 それでも時折、この街を眺めながら考えるのは自分を縛る過去についてだ。
 シビュラの判定が間違っていたとは思わない。むしろ正しかったと、監視官になってからより強く思うようになった。
 ただ、年を重ねるごとに胸を埋めるのはどうしょうもない空虚だった。
 それは、ひたむきに職務に励んだ結果、無くしたものの多さに疲れてしまったからなのかもしれない。

「なんか、最近の事件さ。嫌な感じだよね」
 
 ふいに口を開いたのは美波の方だった。ホログラムの広告を目で追っていた宜野座は、ゆっくりと隣を見やる。
 彼女もまた、ぼんやりと街を眺めていた。上向きにカールした睫毛の下で、ホログラムの輝きを収めた水晶体がきらきらと反射している。
 みずみずしい眼に閉じ込められた煌めきにほんの一瞬。視線を奪われる。
 
「……そうだな」
「ドローン暴走事件に続いて、アバター乗っ取り事件。どちらも黒幕は分からず。物騒だねぇ」
「あぁ、」

 まるであの時のようだ、とは。二人とも口には出さなかった。
 
「ねぇ、チカたん。今度は大丈夫だよ」
 
 脈絡も無く、くるりと顔を向けた美波が笑顔で宜野座に言う。
 おまじないに近い口ぶりだった。
 
「大丈夫、か」
「そうそう。大丈夫」
 
 宜野座は根拠のない発言が嫌いだ。もっと言うならば、なんの確信もないのに言葉だけ自信のある人間が嫌いだった。
 大丈夫、上手くいく、そうはらない。これらの発言を聞くたびに、根拠は何だと問いただしたくなる。
 それでも、美波の言葉だけは昔から素直に受け止めることができた。不思議だと、大人になった今でも思う。彼女の言葉はいつだって軽いけれど、何故か信頼ができた。へらりとした笑顔で大丈夫と言われれば、本当に上手く行きそうな気がする。
 これは、惚れた欲目なのだろうか。夕日に縁取られたあどけない顔を眺めながら、目尻が熱に侵食される感覚を宜野座は感じていた。
 
「……そうだな。きっと上手くいくさ」
 
 殆ど無意識にこぼれ落ちた返答に、美波の口角が優しい弧を描く。なんの打算もないこの笑顔を見るたびに、宜野座の心臓はとくりと音を立てるのだった。
 
 初めて公安局に足を踏み入れた瞬間、胸に掲げた目標はいつしか追うものでは無く、縋り付く対象にすり代わっていた。
 かろうじて並んでいた友人との足並みも、あの日を堺に別々の方向へとあるき出した。
 それでも、この気持ちだけは永遠に変わらないと。宜野座は信じている。