とある日の穏やかな午後のこと


 公安局の食堂には課を問わず多くの人間が集まる。パーソナルスペースに配慮をした食堂は広い造りをしていて、複数人用のテーブルにはじまり一人用の窓側の席など。
 公安局員が大人数集まっても余裕のある作りはシビュラシステムによって女性寄りの観点で設計されたとかされないとか。
 つまりはストレスなく食事を楽しめる場の筈なのだが、狡噛慎也は現在進行系でイライラしていた。原因は探さなくても明らかだった。この世で狡噛を苛つかせる人間なんて、目の前に座る美波ぐらいなのだ。
 
「慎ちゃんさぁ、やるなとは言わないから器物破損とか脅しとか、もうちょっとバレないようにやってくんないかな」
「職務上必要だった」
「それ言えばいいって思ってるでしょ。全く良くないからね」
「お前達、公共の場なんだから少しは弁えろ」
「ほら弁えろだってよ慎ちゃん」
「お前だろ」
 
 どういった風の吹き回しなのか、たまには三人でランチをしようと誘われた瞬間から、若干の不安は感じていたのだ。
 そもそも、執行官に転落してからというもの三人で食事などめっきりしていない。せいぜいが縢の部屋に集まって食べるぐらいで、それだって縢がいたから成立していたようなものだ。
 あの部屋で狡噛と宜野座が口をきくことは殆ど無い。縢と美波が各々料理に舌鼓を打ち、残された男二人はたまに相槌をしてやる。それだけの関係で十分満足だった。
 ――満足だった、筈なのに。
 美波の顔色を伺ってみるが、彼女はカツ丼に夢中で狡噛の視線に気付く気配もない。そのくせ文句を言う口だけは止まらないものだから器用な奴だ。

「いや確かにね、暴力はてっとり早く解決してくれるかもしれないけどね。後に残された仕事はそうはいかないのよ。今月に入って何件クレーム来てると思ってるの」
「仕事があっていい事だろ」
「まるで人が普段仕事してないみたいに言うよね」
「おい、俺の唐揚げを取るな」
「迷惑料ですー」
「じゃあお前のカツも寄越せ」
「これあげるよ、これ」
「三つ葉じゃねぇか」
 
  箸の先で薄っぺらい三つ葉を摘み、ぴらぴらのそれを睨みながら、狡噛はうっすらと考えた。
 これは、ただ単に愚痴を聞かせたいだけなのでは?
 女と男で差別をするのは好ましくないが、統計上、女性の方が愚痴を喋りやすい傾向にあるというのは研究で明らかになっている。
 そして、狡噛はあまり意識したことはないが美波も一応女性に分類されているのだ。
 なるほど、俺はいまこいつのストレス発散のはけ口にされているのか。そう思うと、この状況も飲み込めそうな気がした。

「チカたん、私の唐揚げあげるー」
「お前のじゃない。俺の唐揚げだ」
「ううん。慎ちゃんから奪ったからこれは既に私の唐揚げなの」
「れっきとした横領だろ。いいのかギノ、監視官サマが汚職に手を染めて」
 
 だから、まぁ。それならばと狡噛も美波の軽口に乗ってやることにしたのだが。堅物な宜野座に冗談が通じる訳もなく。
 
「……お前等は食事も静かに取れないのか」

 と、冷え込んだ視線を投げられてしまった。
 もっとも宜野座が神経を尖らせているのは狡噛に対してだけで、美波には違う色味を乗せた視線が向けられている。
 それはちょっといじらしくて、ちょっと格好悪い。見てる方はむず痒くなってしまう類の視線だった。
 せっせと宜野座の皿に唐揚げやらカツやらを乗せている美波がそれに気付く訳もなく。やがて、宜野座の顔はふいっと逸らされてしまう。

「…ハァ」
「おい、なんでため息を吐いた」
「ただの呼吸だ。気にするな」
 
 狡噛がいなくなって、この二人の間にはぽっかりと隙間ができた筈なのだが、予想に反して二人の距離は縮まらない。
 狡噛が執行官に転身して三年が経った今もなお、隙間は空いたままだ。長いあいだ三人で過ごした年月の積み重ねはそうそう消えてはくれないのだろうか。それとも、自分がいるせいで消せないのだろうか。
 それは嬉しくもあり、やはり悲しくもあった。今日だって、何もわざわざ俺を誘わなくてもいいのに。そう思ってしまう。
 噂なんてものは聞きたくなくても耳に入るもので、この二人が職員用バルコニーで毎日食事を共にしているのは狡噛も知っているのだ。
 初めてそれを聞いたとき、良かったと、俺がいなくても大丈夫だと、心の底から思ったのに。
 
「慎ちゃんどうしたの? 落ち込んでる?」
「……いや、何でもない」
「もー。いやしんぼなんだから。ほらこれあげるから元気出して」
「生姜じゃねぇか」
 
 ちょっとだけ感傷に浸りつつあった心の内が、波が引くようにみるみると乾いていく。
 本当に、なんでこいつに惚れた? この暴君と言っても違わない、自分勝手で他人を振り回しながら生きている女を、どうして好きになってしまった? これっぽっちも分からない。
 しょぼい生姜を箸でつまみ、仕方がないのでぽいと口に入れて咀嚼する。不味くはないが、特別美味いとも感じない。

「それよか美波、ギノには怒らなくていいのか」
「え、何で?」
「俺はギノの部下だ。俺の行動をとめられなかったギノにも責任はあるんじゃないか」
 
 ふ、ざ、け、る、な、
 宜野座から無言の圧力を感じるが、こんなもの、始末書トップを走る狡噛にはそよ風に等しいので軽く無視をする。
 こっちだって、言われっぱなしは性に合わないのだ。
 
「チカたんは、」
 
 バチバチと火花を飛ばす宜野座の横で、もぐもぐと咀嚼をしていた美波がくるりと彼に顔を向けた。
 ハッ、と身を引いた宜野座も同じく美波の方を向く。何を言われるのか不安で堪らないと、血の気が引いた顔にありありと書いてあった。
 
「んー…。チカたんはねぇ」
 
 対する美波は宜野座の顔をじっくりと眺め、暫く何かを考える素振りを見せた。
 やがて結論が出たのか、満足げな笑顔に華麗なサムズアップを添えて、一言。
 
「可愛いからオールオッケー」
「贔屓だろ」
 
 うんざりと、それはもううんざりと。狡噛は食後のコーヒーを啜ったのであった。