ユーフォリアのため息


 まだ夕焼けの残照がうっすらと街を照らす頃。縢の部屋に来訪者を告げるホログラムが浮かび上がった。
 潜在犯である自分の部屋を訪ねるのは限られた人物しかいない。なので確認もせずロックを解除した。
 開いた扉の先には、にこにこと笑顔を浮かべた美波と、彼女を挟む形で佇む男が二人。
 一人はげっそりとやつれた顔をあらぬ方向に向け、もう一人は普段どおりのポーカーフェイスを顔に貼り付けて。
 男達の手は何故か美波の両手と繋がれていたが、考えなくとも「あぁ無理やり連れてこられたんだな」と容易に想像がついたのだった。
 
 

 仕事終わりに捕まったのだろうか。
 強引に手を引かれ、大人しく引きずられてきたのだろうか。
 きっと宜野座は口をはくはくさせて真っ赤になったのだろう。何かを言おうとして口を閉じたり開いたり。結局文句の一つも言えなくて、手を引かれるまま此処に辿り着いたに違いない。
 狡噛は美波の行動に対して諦めている節があるから、いつものようにへいへいと相槌を打ちながら来たのだろうか。
 成人男性が華奢な手を振り払う事など造作も無いだろうに、二人共それをしない辺りが何とも面白い。
 
「コウちゃん、皿出して」
「わかった」
 
 目線はフライパンのまま、隣に立つ狡噛に指示を出す。換気扇の下で煙草を吹かしていた男は灰皿に残りを押し付け素直に従った。
 キッチンの引き出しを開け、一番上にあった皿を適当に出すあたりが実にこの男らしい。せっかく宜野座を説き伏せて購入申請を通した食器の出番はまだまだ遠そうだ。
 それを横目に、慣れた手付きでフライパンを持ち上げる。手首にスナップを効かせれば卵を絡めた米が曲線を描いて舞った。もう少し混ぜればリクエスト通りとびきり美味しいチャーハンが出来る筈だ。

「だからさぁ、仕事はついでなのよ。ついで。チカたんの割合がこんくらいで仕事はこんくらいなの」
「おい、仕事の割合が少なすぎやしないか。小指一本ぶんってお前」
「あれっ、反応して欲しかったのそこじゃない」
 
 それにしても、ちゃくちゃくと料理は出来ているのにこの男女はいつになったら出来上がるのだろう。
 部屋に入ってきた時から当然のようにリビングで寛ぎ、一切料理を手伝う素振りを見せない男女をシラけた目で眺めてみる。もう随分と長いあいだ彼らの恋愛模様を観察しているけれど、前進もしなければ後退もしない関係を眺めるのは存外辛いのだ。
 
「仕事よりチカたんを優先してるんだよ? なんかこう、グッとこない?」
「……胃にか?」
「そっちかぁ」
 
 思わずガクッと肩を落としたのは縢の方だった。何だ、この色気もへったくれもない会話は。あやうく皿を落とす所だった。
 
「もぉ俺みてらんねーよぉ、コウちゃぁん」
「そう言ってやるな、アイツはあれで精一杯答えてるんだ」

 いつの間にか二本目の煙草をくわえた男は事もなげにそう言った。あまりに淡白な物言いだったので、縢の眉がムッと眉間に寄る。
 
「きらきらしててまどろっこしい恋愛が似合うのは十代までだと思うんだけど」
「なんだお前、今日は随分手厳しいな」
「別に。ギノさんも三十路近いんだから、そろそろ腹くくれよって思うだけ」
「くくるだけの腹がアイツにあればな」

 ふっと音にもならない吐息が耳を掠めた。いやに楽しげに上がった口角を見る限り、狡噛も彼らに思う所はあるらしい。けれど、わざわざそれを伝える必要はないと伏せられた瞳が雄弁に語っている。
 この男、薄々気付いてはいたが宜野座に対していささか甘すぎる。
 こういう瞬間が縢は一番嫌いだ。自分だけ蚊帳の外にいるような、幼い頃から味わってきた疎外感を彷彿とさせる瞬間が一等嫌いだった。
 
「やんなっちゃうよ。仕事だとチクチクとギノさんのこといじめる癖にさ」
「あいつの前でギノの事をああだこうだ言うと痛い目に合うからな、長い付き合いの賜物さ」
「はぁ? 美波ちゃんが?」
「言っとくが冗談じゃないぞ。あいつは高校時代ギノにちょっかいをかけた奴の腕を折った事がある」
 
 へー、そうなんだ。と、苛立ちのまま流しかけて言葉の意味を理解した口が止まる。
 いま狡噛は何と言っただろうか。もしかしなくても、とてつもない事を聞いた気がする。折るとか折らないとか、そんな物騒な単語を。
 
「えっ、まじで? 折っちゃったの? 美波ちゃんが?」
「あぁ、そりゃあ見事なまでにポキっとな」

 まるでクッキーを割るような軽さで狡噛は言った。
 思わず縢は美波に目をやる。先程から変わらず宜野座とあれやこれやと言い合いを続ける華奢な女の子をまじまじと見つめた。
 確かに彼女は突拍子もない事をしでかす人間ではあるが、喜怒哀楽で言えば怒りという感情がすっぽり抜け落ちたような性格で、暴力とは無縁の世界にいる人間だと思っていた。少なくとも縢はそう認識している。
 
「よくそれで問題にならなかったよね」
「ならんさ、あいつの色相はクリアなままだったからな」
「それって、」
「悪い事だと思ってないんだよ。傍から見ればとんでもない事だったが、少なくともあいつの中では何も可笑しくない行動だったって事さ」
 
 木製トレーの上に香ばしい湯気を上らせるチャーハンを乗せる。
 それをじっと見つめたまま狡噛は淡々と語っているけれど、彼が本当に見つめているのはきっと過去なのだろう。
 潜在犯に落ちても尚、気高さを失わない美しい瞳は何を思い出しているのだろうか。彼がまだ潜在犯でもなく刑事でも無かった学生時代の話を縢は殆ど知らない。
 狡噛と宜野座と美波が肩を並べて校舎を歩いている姿を想像してみたが、いまいちピンとはこなかった。
 ただ、ほんの少しだけ狡噛の目尻が緩んでいるから、きっといい思い出なのだろう。
 
「美波ちゃんも中々のワルだったとはねぇ」
「学校でも指折りの問題児だったな。年中生徒指導室に引きずり込まれて、でも結局色相がクリアなもんだから教師も渋々あいつを開放するんだよ」
「なにそれ、ちょーおもしろいね」
「俺は在学中ベランダから生徒が降ってくる姿を三回は見た。幸いな事に下はため池だったから大事にはならなかったが」
「やべー! 見たかった!」
「お前なぁ、あの頃は本当に大変だったんだぞ。最後の方なんか宜野座が美波を止めにかかってたんだからな」
「それでもシビュラは美波ちゃんを公安局に選ぶんだから不思議だよなぁ」
「あぁ、あの時はギノに“国が終わるぞ”って言われて珍しく落ち込んでたな」
 
 あの性格だから、一人でも物怖じせず男子の中に飛び込んだのだろう。自分の行動を疑いもせずに同級生の腕を折り、けろっとした顔で見下ろしたに違いなかった。
 彼女は己の正義を貫いたし、シビュラもまた彼女の正義を否定はしなかった。所詮それだけの話だ。
 そんな彼女が宜野座の一言で肩を落としてしまうのだから、やはり恋とは凄まじい。
 もう一度、ソファに目をやる。肩を並べた男女は時折こそこそと話してはくすくすと肩を揺らしている。当人達は分かっているのだろうか、もう答えはとっくに見えている事に。
 あの堅物で不器用な優しさを持つ上司が無防備に笑ってみせるなんて、ありえない事なのに。どうして気付かないのだろう。
 ずるいなぁ、口の中だけで呟いた。こうやって潜在犯の部屋にのこのこ来ることも、自分の料理を楽しみに待つ姿も、幸せを掴める立場なのに掴まない事も。何もかもがずるい。
 
「縢くん、お腹空きましたー!」
「ごめんごめん、今行くね」
 
 ハッとして顔を上げる。ついに待ちきれなくなった美波がカウンターに身を乗り上げていた。相変わらず小動物みたいに無防備な瞳をしている。この目もずるいよなぁ、今度は違う意味でこっそり胸の内で呟いた。
 
「俺さぁ、それでも幸せを願っちゃうくらいには二人のこと気に入ってるんだよね」
「……何の話?」
「こっちの話ですー」
 
 こてん、と首を傾げた女の子にトレーを渡す。不思議そうな顔をしながらも大人しく机に戻っていく姿には笑ってしまった。疑問よりも食欲が勝っているのが明らかだったからだ。
 背中を見送って、ぼんやりと前を眺めているとくしゃりと頭を撫でられた。武骨で乱暴な動作なのに、伝わる体温はやさしい温もりだった。
 狡噛は何も言わずそのまま机に向かっていった。手にはいつの間にか酒の瓶が握られていて、明らかに縢の秘蔵コレクションの一つだったが今日は見逃してやる事にする。
 落ち込んで、慰めてもらって、一緒にご飯を食べるなんて。
 
(……家族みたいじゃんね)