手を伸ばしても届かない


「犯罪係数と遺伝的資質の因果関係は、まだ科学的に立証されたわけではない。だが裏を返せば、まだ無関係だと証明された訳でもない」
 
 いくら努力を積み重ねても、拭えない過去がある。当然のように嵌められた枷はひどく重苦しい。
 忘れようと思っても、こうして戒めのように思い知らされるのだから、自分は一体何の罪を犯したのかと考える。
 そうして、自分は何も罪を犯していない事を思い出し、どうしようもない事実に静かな絶念を覚えるのだった。

「君が父親と同じ轍を踏むことのないよう、心から祈っているよ」
「はっ、肝に銘じておきます」
 
 禾生の斜め後ろには美波が控えていた。いつものふざけた様子は欠片もなく、伸ばした背筋は微動だにしない。ただ黙って静かに事の成行きを見つめているだけだ。
 結局、幼馴染という肩書もただの関係性を表す言葉でしかない。ここへ足を踏み入れるたびに宜野座はそう感じている。
 豪奢なマホガニーの椅子に腰を掛ける女性も、横に控える美波も、それを前に背を伸ばす自分も。それぞれが役職によってきっちりと立場を分けられている。私情など元々入り込む余地など無いのだ。
 
「失礼します」
 
 踵を返して背を向けた。本当はあらゆるものに背を向けてしまいたかったが、今はただ彼女の存在に後ろ髪を引かれる程度だった。
 それほどまでに、自分は…――。

 
 
 
 
「宜野座くんと話している間、君の視線が背中に痛かったよ」

 ぴくり、美波の手が止まりティーカップの中に注がれた紅茶に波紋が広がる。けれどもそれは一瞬で、初めから動揺など無かったようにスミレ柄のティーカップは静かに禾生の前に置かれた。
 一連の動作を眺めていた禾生はくすりと吐息だけの笑みを零し、ゆっくりとカップを傾ける。
 
「君が動揺するのは決まって宜野座くん関連だな」
「局長、私で遊ばないでください」
「すまない。つい面白くてね」
「いえ、申し訳ありません。私情を挟む気は無かったのですが」
「いいさ、宜野座くんは君の大切な幼馴染だ。あれで何も思わない方が可笑しい」

 よくもまぁいけしゃあしゃあと、薄い笑顔を貼り付けただけの顔で言うものだ。美波は心の内だけで呟いた。といっても、怒りが湧き上がって来ることはない。むしろ関心すら覚えて斜め後ろから上司の姿を眺めていた。
 シビュラが絶対的平等な社会を掲げるのならば、頂点に立つ人間もまた平等であらねばならない。
 宜野座の生い立ちに口は挟んでも、だからといって口汚く罵る事も無ければ不当に権力を振りかざしたりはしない。淡々と彼の努力を評価し、さらなる期待をする。潔癖なまでに職務に忠実な上司の気質は、存外気に入っている。
 それでもやはり、少しだけ腹の底はチリつくれけど。

「最悪の状況になったとき、君が私と彼。どちらを選ぶのか見ものだな」
 
 手元のタブレットを撫でていた指が止まる。どうやらまだ雑談は続いていたらしい。
 抑揚の無い声は普段よりは幾分弾んでいるように思えた。細い指に顎を乗せた禾生は目線だけを美波に投げている。下から舐めつけると言うには柔らかい、けれども猫のようにしなりを持った視線。これは、明らかに美波の反応を面白がっている顔だ。
 だが、こちらも伊達に何年も秘書を務めているわけではない。今更こんな事で動揺はしなかった。
 姿勢を正し、体ごと上司に向き合う。口の端を上げ慈愛を込めた笑顔を作る。片手を胸に当て、信者が教祖を崇拝するように微笑みを送った。
 
「私は局長をお守りします。秘書ですから当たり前です」
「ほぅ、言質は取ったぞ」
 
 予想した返答だったのだろう。視線はすぐに反らされた。少しだけ、つまらないと顔には書いてあったが。

「ですが」
 
 なので、つい口を出て言葉が滑り出してしまった。
 本当は何も言うつもりは無かったのに、自分はどうも宜野座が絡むと黙っていられない質らしい。
 再び禾生が顔を上げる。従順な部下が盾を突こうとしているのに、やけに楽しげに口角を上げていた。その表情を見て、やっぱり止めようかと浮かんだ思考が消えていく。
 
「公安局を一歩でも外に出たら、私は迷うことなく局長を見捨てて宜野座監視官を選びます」

 ディスプレイを搭載した眼鏡の奥で、透明な瞳が大きく見開かれた。フレームの端が一瞬点滅を見せる。急な瞳孔の開きを感知して、体調不良を心配したシステムが利用者に知らせたのだ。してやったりとはまさにこの事だろう。
 しかし驚きも一瞬で、すぐに禾生は眼鏡の端を軽く叩く。通常モードに切り替えたのだろう。
 さて、どんな叱責が飛んでくるかと身構えていると、意外にも向けられたのは深い笑顔だった。
  
「結構。正直者は嫌いではないよ」
「恐縮です」

 どうやらお咎めはないらしい。
 椅子がくるりと回転し、禾生が体をこちらに向ける。相変わらず片手はテーブルに置き、頬杖は付いたままだが乗った顔は砕けたものだった。
 珍しい、この上司がこんなに楽しそうにするなんて。今度は美波の方が目を瞬く。

「して、君はいつ彼と籍を入れるつもりなのかね」
「お言葉ですが。籍どころか私達の間には恋愛関係がありませんので」
「……それは冗談か?」
「いえ、事実です」
 
 本日二回目の点滅が弾ける。果たしてこうも立て続けに起こっても大丈夫な機能なのだろうかと上司の眼鏡が心配になった。しかし、禾生の手がフレームに伸ばされることは無い。真顔のまま固まっているのだ。

「あの、局長?」
「……すまない。不躾な質問をした」
「いえ」
「部下のプライベートに口を出す気は無いが、私が生きている内に嬉しい報告を期待しているよ」
「……はぁ、ありがとうございます?」
「君達は、……いや、何でもない」
 
 ――忘れてくれ。
 
 この言葉を最後に会話は終了したのだった。