ミルク一匙、砂糖は無しで


 常守が部屋を後にして、再びベッドに体を埋めた狡噛は真っ白な天井を眺めながら思案した。乱れた呼吸は既に落ち着きを取り戻して、思考も冷静に流れている。
 いつもそうであるように。そう、務めているように。
 こうしているとまるで全てが夢のようだと感じる。常守朱に撃たれた事実も、涙を滲ませた彼女に“やらなければいけない事がある”と告げた言葉も、何もかも。他ならない狡噛自身が夢であればいいと、思っているのかもしれない。
 ふと、モニターを横目に眺めてみた。自分のバイタルが規則正しく正常に刻まれているその下。当たり前のように一緒に表示されている濁りきった数値に安堵した。
 やはりこれは現実なのだと再認識できたからだ。
 ふたたび、うつらうつらと瞼がおちてくる。
 また夢と現実の間を漂うのかと、うんざりとするも直接的な欲求には抗えそうにない。
 
「慎ちゃん、生きてる?」
 
 けれども、夢には旅立てなかった。聞き馴染みのある声が狡噛のまぶたをノックしたからだ。
 はつらつとした声だった。一文字一文字にきっちりと切れ目があって聞きやすいのに、不思議とうるさい印象はない。そんな声だ。
 重たい頭を動かして、声の方に顔を向ける。視線の先には一人の女が立っていた。
 華奢な体つきに、不釣り合いなパリッとした濃紺のスーツ。幼さを感じる童顔は一見アンバランスさを醸し出しているが、近くで見ると意外にそうでもない。
 彼女と狡噛はしょせん幼馴染だった。小さい頃から一緒で、高校から就職先まで全てが同じだった。
 自分が潜在犯になって執行官に返り咲いたあとでも、関係はまったく変わらなかった。元々そういった事に頓着の無い性格なのだ。

 そんな彼女が今日は何故か、おでこを真っ赤に腫らしている。
 
「……お前、そのデコどうした」
「廊下でチカたんに会ってさ。慎ちゃんが治療室にいるって言うから“ついに撃ったの?”って聞いたらしこたま怒られた」

 冗談通じないよねチカたんって。小さな口を尖らせて彼女はいかにも不満そうにごちるのだった。
 おおかたデコピンでも食らったのだろう。普段の彼を知るものならデコピンで済んだのが奇跡だと驚くだろうが、狡噛は今更こんな事では驚かない。美波と宜野座の関係は大体いつもこんな感じだ。

「人の気も知らないでって言われたんだけど、どういう事なの」
「……お前なぁ」

 狡噛はほとほと宜野座に同情した。きっと、考えに考えてようやく彼女に伝えたのだろう。本当は狡噛の容態なんか教えたくもなかっただろうに。
 美波が心配するだろうと、胃の捻れる思いで彼女を呼び止めたに違いない。それなのに、この仕打ち。
 この女のどこがいいのかと長年聞けずじまいの疑問がふつふつと胸に浮かんでくる。
 当然、そんな思いなど露知らず。カツカツとヒールの音を立てながら美波がベッドの脇に立つ。イスを探す素振りをしてやがて面倒くさくなったのか、ベッドに直接頬杖をついた。

「んで、何で撃たれたの。ついに佐々山くんみたいにセクハラでもしちゃった?」
「そんなわけあるか。事故だ事故」
「常守朱さん、だっけ。どうせ彼女を焚き付けるような事言ったんでしょ」
「別に何も、」
 
 言ってない。咄嗟に口をついて出た言葉は最後まで続かなかった。頬杖をついた美波が全てを見透かしたように狡噛を眺めていたからだ。
 綺麗に扇状に広がった睫毛の下で、澄みきった瞳が狡噛をすっぽり収めている。
 薄い膜の張った眼球は瑞々しさに溢れていて、凪いだ水面には意思の強さが宿っていた。
 狡噛はこの瞳で見られると、どうも昔から嘘がつけない。せめてもの抵抗はだんまりを決め込むことぐらいで美波もそれは分かっているのか、それ以上話題を広げようとはしなかった。
 代わりに別の話題を持ち上げる。
 
「あんまチカたんいじめないでよ。今にも倒れそうな顔してた」
「お前が言うのかそれ」
「手綱、ちゃんと握ってあげなよ」
「……俺が握られる側なんだけどな」
 
 狡噛の言葉に、んふふと美波が笑う。無邪気な笑い方だった。
 
「違う違う。そうじゃないのよ慎ちゃん」
 
 細い人差し指が左右に揺れる。チッチッチッ、と口から効果音まで聞こえてきそうな調子だった。
 
「チカたんの可愛いところはさ、自分で手綱を握ってるって思ってて実は握られてる所じゃない?」

 にんまりと笑って言い放った美波に、狡噛は苦々しい笑みを返した。彼女はたまにこうやって真実を言い当てるのだ。
 恐らく誰もが薄々勘付いて、それでもある一定のラインを保とうとわざわざ口にはしない。そういう事を、この女はさらりと言ってしまう。肝心な所は疎いくせに。
 つくづくギノも面倒なのに捕まったなと同情をした。まぁ、それは自分にも言えることなのだが。
 
「お前はギノに優しいのか優しくないのか分からん」
「何言ってんの。愛しかないよ」
 
 そりゃあ随分重そうだ。小さく呟いた言葉に、美波はまた笑ってみせるのだった。