君はまるで嵐のよう


「チカたんいる?」
 
 縢は咥えていた飴をポロリと落とした。
 見知らぬ女が入ってきたと思ったら、開口一番にとんでもない単語を言い放ったからだ。
 女はぱっと見て、二十代後半ぐらいに見えた。身長は高くもなく低くもなく。濃紺のパリッとしたスーツを着ていても、どこか幼さが残る童顔だった。
 縢は事態が飲み込めなくて、とりあえず彼女の視線を追ってみる。
 まっすぐといっさいのブレが無い視線は、ある一点を見つめていた。
 この部屋において、監視官と呼ばれる人間が座る席。今現在そこに座れる肩書を持つのはたった一人だけだ。
 
 ――まさか、そんな。
 
 縢は常時が万事、仏頂面の上司を無言で見る。
 モニターからそろりそろりと顔を上げた宜野座は、あからさまにげっそりとした顔をしていた。
 縢と、ついでに今日の当直である狡噛と六合塚と。三人の執行官が宜野座を見やる。
 対する宜野座は六つの瞳を向けられ「うっ」という顔をしたものの、聞こえるか聞こえないかの声量で、小さく小さく呟いた。
 
「……俺はチカたんじゃない」
 
 チカたんって言った。いま、ギノさんがチカたんって。
 思わず椅子からひっくり返りそうになった縢は、間一髪落下を逃れて背もたれにしがみついた。
 反応するって事はやっぱりチカたんってギノさんなの。そうだよね、だって名前に“チカ”ってつくの、ギノさんしかいねぇもん。
 これは大事件だ。縢は慌てて同僚に視線を送ったが、六合塚は音楽雑誌に顔を戻しているし、狡噛はぺりぺりとカップラーメンのフタを剥がしている。あれ、もしかして驚いてるの俺だけ?
 
「はぁ?何言ってんのチカたん」

 対する謎の女は、まさしく一刀両断の日本刀だった。
 恐らく彼が腹を切る思いで言ったであろう、否定の言葉。
 部下を預かる上司として、潜在犯を管理する監視官として。プライドと威厳をかけた抵抗を、ひとすくいも汲む事なく切り捨てた女は心底不思議そうな顔をしていた。
 そりゃねぇぜ。縢は心の中で流石に同情する。
 
「お邪魔します」
 
 やがて、まぁいいか。と言う顔をして女はずんずんとフロアを歩き出した。
 遠慮とか、配慮とか。そういった繊細なものに一切無縁な歩き方だった。
 彼女が近付くたびに、合わせて宜野座の体も後ろに下がる。といっても、この部屋の最奥に設けられた宜野座のスペースに逃げられる場所など殆どないのだが。
 そんなのおかまいなしな女は、入ってきた瞬間からそうだったように迷いのない勢いで宜野座に詰め寄った。
 
「これ、読まなくていいからスクロールして最後に指紋登録して」
「読まなくていい書類があるわけないだろ、っておい勝手にスクロールするな!」
「はいはい、早く人差し指を押して。ほらポチーっと」
「や、め、ろ!」
 
 これは、何かのドッキリなのだろうか。もしかして超遅めの縢への歓迎の儀式とか、そういう類の。
 ぎゃあぎゃあと騒ぐ宜野座の手をむんずと掴み、問答無用で判子――もとい、現代ではより効率的になった指紋認証という手段を強制的にぶん取ろうとしている女。
 思わず目をこしこしと擦ってみても、ホログラムでも何でも無いただ広がる現実は、中々飲み込めそうにない。
 
「なんだ、騒がしいな」
 
 いよいよ取り残されかけた時、聞き馴染みのある声がして縢は勢いよくそちらに顔を向ける。普段、とっつぁんと呼ばれるその人は縢にとって人生のちょっと悪い先輩であり、時には優しい父親のような存在だった。とっつぁん、なんていい所に。
 まさに天の助けである。ほらおたくの息子さん大変な目にあってますよ。

「あっ、チカたんパパだ。こんにちは」
「ん?おぉ来てたのか。お疲れさん」
 
 いや何その休日のお父さんみたいな返し。
 えっ、ていうか知り合いなの。「髪切りました?」「おっ、わかるか」「似合ってますねー」じゃなくてさ。世間話してないでさ。いつもみたいにフォローしてよ。おたくの息子さん、今にも卒倒しそうですけど。ほら、ただでさえとっつぁんと親子だって事実が地雷なのに。意地の悪い俺だってツッコまないのにさ。
 縢は慌てた。彼の人生でもっとも憎むべき存在が、今まさに現れた脅威と仲良く会話をしているのだ。
 今の宜野座なら机を投げかねない。机ならまだいいが、彼のデスクに置かれたばかりの熱いコーヒーがこちらへ飛んできたら堪らない。
 とりあえずお気に入りのゲーム機を引っ掴んで急いで狡噛の後ろに隠れる。
 避難場所にされた狡噛と言えば、相変わらずマイペースにラーメンを啜っているので縢にはその神経が理解できそうに無かった。ほんのすぐ側では、いよいよ噴火しそうな怒り狂った男がいるというのに。
 
「お前はなぁ……!」
「え、なに。今度は何に怒ってんの」
 
 チカたんホルモンバランス大丈夫?ていうか指紋登録した?えっ、ちょっとまだ押してないじゃーん。はやくはやく。
 鍛え上げた目つきの悪さは、全くもって彼女に効果が無いようだ。あれよあれよと再び手を取られた宜野座は、謎の女と押し問答を繰り広げる。あれ、これさっきも見たな。
 どうしようかと、縢がオロオロと事の成行きを見守っていれば、ようやく最後の麺をすすった狡噛がおもむろに立ち上がった。
 
「そこらへんにしとけ、美波」
「慎ちゃん」
 
 あ、こっちは慎ちゃん呼び?つーかコウちゃんも知り合いなんかい。
 
「ねぇこの人なんでこんなにカリカリしてるの」
「ギノは大体いつもこうだが、今怒ってんのはお前のせいだぞ」
「えぇ?意味分かんない」
 
 これで意味が分からなかったら相当ヤバいんだけど。
 今しがた狡噛に美波と呼ばれた女は、顎に指を当てて何かを熟考し始めた。ようやく自分の行いを反芻する気になったらしい。
 
「あっ、そっか。そうだよね。流石にいい歳してパパ呼びする女は痛いよね。今度からお父さんって呼ぶから許して」
 
 いや、絶対にそこじゃない。何を考え込んでいたんだこの女は。
 
「ほぉ、そりゃあ嬉しいね」
「おとっ…!」
 
 世間一般に、女の子がお父さんと呼ぶ人間は二人いる。一人は本当のお父さんで、二人目は“義理”のお父さん。
 みるみる内に茹でダコのようになっていく宜野座を見る限り、彼の頭の中では「お義父さん」に変換されたに違いなかった。
 そこまで考えて、縢は「おっ?」と小さな突っかかりを覚えた。
 いやまさかそんな…、と頭を抱えて、腕の隙間からそろりそろりと上司の顔色を伺ってみる。
 本当は視力なんか悪くないくせに、わざとかけている眼鏡の奥の瞳を、覗いてみる。
 眩しそうにぎゅっと細められた双眼は、きっと彼女だけを収めていた。
 
「隙あり!」
「……あっ、このっ!」
 
 縢がハッとした頃には机に突っ伏す宜野座と、右腕を天に掲げる美波という謎の構図が出来上がっていた。ついに決着がついたらしい。
 
「慎ちゃんグータッチしよう」
「へいへい」
 
 まるで一昔前のヤンキーだった。ちょっとそこで飛べよと言い、小銭を巻き上げて喜ぶ。そういった類の人間の動きだ。
 あきらかに理不尽極まりない行為なのに、狡噛はどこまでもいつも通りだった。彼女に言われるがままに手を差し出して、コツンと拳を合わせている。こんなの慣れっこです、という雰囲気を醸し出しながら。
 
「お邪魔しました」
 
 そうして、来たときと同じように彼女は颯爽と去っていったのだった。
 
 美波が出ていくと、一係は嘘みたいにいつも通りになった。まるでさっきの出来事が走馬灯のように思えるほど静かな仕事場だ。
 ただ一人、ぐったりと頭を抱える宜野座を除いて。
 
「……ギノさんって、ああいうのが好みなの?」
「……うるさい」
 
 弱っている上司に、今ならいけるかもと訪ねた疑問に期待した答えは帰ってこなかった。
 ただ、この一言で大体の事がわかってしまう。縢はこれでも察しのいい男の子なのである。
 
「ねぇねぇ、あの子ってどんな子なの」
 
 興味ついでに同僚達にも聞いてみることにした。彼女が出ていった瞬間に通常業務に戻っていた彼らはそれぞれ顔を上げて、少しだけ考える素振りをする。
 言葉にしなくても、三人が三人とも「うーん」と頭を悩ませているのが手にとるようにわかって面白い。
 
「美波ちゃんはなぁ、悪い子じゃないんだが」
「マイペースの申し子って感じね」
「人の地雷を踏む事に関してはあいつの右に出る者はいないだろうな」

 結果、なんとも散々な総評であった。
 
「でさ、一番聞きたいんだけど結局あの子ってコウちゃんとギノさんの何なわけ」
 
 ぴくりと、今まで身じろぎ一つしなかった宜野座の肩が上がる。ゆっくりと顔をあげた宜野座と、タバコに火をつけた狡噛。かつて無二の親友だった、二人の視線が絡み合う。
 けれどもそれは一瞬で、すぐにお互いの顔はあさってに反れてしまった。
 
「……幼馴染だ」
「まぁ、幼馴染だな」
 
 一方は、心底信じたくなさそうに。もう一方はタバコをぷかりとふかして何でも無さそうに。
 
 こりゃあ面白そうだ。縢は誰に言うでもなく、胸の内で一人呟いたのだった。
 
 ――今はもう懐かしい、昔の話だ。