ふたりのあいだに横たわる鋭利
金属が震える、甲高い音が響いた。美波のヒールが階段を弾いた音だ。
動く度に体に巻き付くスーツも、足を包むストッキングも、何もかもが鬱陶しい。それでも、駆け上がる足を止めることは無かった。
荒い息と、慣れない運動に吐き気がこみ上げる。
本来ならば、エレベーターで上に行けば済む話なのに。ご丁寧に何者かがエレベーターの機能を停止していたせいで、こうして走るハメになっていた。
いよいよ、吐く息も尽きてきた頃、ようやく目的の扉が見えてきた。美波は気力を振り絞って足を持ち上げる。
思い切りついた足から、じわじわと振動が駆け上り、全身をとてつもない疲労が襲う。
「っはぁ! はぁっ、ハァ」
たまらず膝に手を付き、前かがみにうなだれた。なんとか右手だけを持ち上げ扉横の端末に手をかざせば、指紋認証センサーは正しく美波の手を読み取り、一秒もしないうちにロックが解除される。
まだ、間に合う筈だった。
息も整わないまま、祈る気持ちで扉を押す。
僅かに空いた隙間から、すさまじい突風が体を包んだ。明らかに自然のものではない勢いに内心で舌打ちをする。
その風に押されるまま、扉を開ければ、目の前には今にも飛び立とうとするヘリコプターがあった。
騒音と一言で言い切るにはあまりにも大きいプロペラの音に、思わず耳を覆う。
空を切る突風は美波の髪を巻き上げ、視界を遮った。邪魔なそれを無造作に振り払い、美波は叫ぶ。
「待って! 行かないで!」
悲鳴に近い叫び声は、呆気なく風に飛ばされていく。
最初から、自分の声が届くなんて思ってはいなかった。
叫びながら、危険領域の内側まで走れば、けたたましいアラームが屋上に鳴り響く。
「……お願い、間に合って」
舞い上がる髪とスカートを手で抑えながら、口端を噛んだ。だが、重々しい機体は徐々に空へと舞い上がっていく。
いまさら足掻いてみたところで、やはり自分はあちら側には行けないのだろうか。
局長の言うとおりだと思った。側に居るだけで、満足しようとしていたツケが回ってきたのだ。
でも、仕方ないじゃないか。
シビュラは私に監視官の適性はくれなかった。
彼の側にいるために選べたのは、これしかなかった。
だから、今もあきらめるのか?
「……っ、違うでしょ!」
俯きかけていた視線が勢いよく上を向く。
背筋を伸ばして、空を睨みあげた。
まだ、出来ることはあると証明したい。そう自分は狡噛に言ったはずだ。
美波は屋上を見渡す。緊急と書かれたボックスを捉えた瞬間すぐさまそれに飛びついた。
乱暴に扉を開け、目を走らせれば目当てのものはすぐに見つかった。
細い筒を握りしめ空へ向ける。勢いよく筒から飛び出た閃光が、暗闇に一筋の線を描いた。
赤い光に照らされたヘリコプターが、夜空にくっきりと姿を表す。
機体は驚いたように左右に揺れた。同時に、眩いライトが屋上を照らす。いくつもの太い線はヘリコプターの腹面から伸びていた。
あまりの眩しさに美波は両腕で顔を覆う。
「……美波っ!」
プロペラの音に紛れ、微かに自分を呼ぶ声がした。
頭上から降り注ぐその声に、はっとして天を仰ぐ。
「美波! どうしてここに!」
眩しさに耐えながら開いた視界の先。まだ数メートル頭上で羽ばたくヘリコプターの扉から、宜野座がこちらを見下ろしていた。
バタバタとうるさい風の中、ジャケットを翻しながら美波を見つめる顔には焦りが浮かんでいて、いまにもその身を地面に投げ出しそうだった。
美波は喉からありったけの声を張り上げる。
「っ、チカたん!」
「そこから動くなよ!」
言い終わらない内に地面に降り立つ宜野座。静止の声を無視して美波は駆け出した。
だが気持ちが先走ったせいか、足がもつれて体が左右に揺れてしまう。
――まずい、転ぶ。そう思うより先に、逞しい両手が自分の体を支えていた。
鈍いプロペラの音が耳を打つ中、宜野座と美波はほんの少しの間、無言で見つめ合った。
繋がった視線は、切実に絡み合い、やがて悲痛に歪んだ。どちらも、引かない意志の強さがその瞳に宿っていたからだ。
「チカたん、行かないで。今回は絶対にただじゃ済まない。死んじゃうかもしれないっ」
自分の体を支える両腕を握りしめ、美波は宜野座を見上げる。
ジャケットの上から掴んだ宜野座の腕が、ぴくりと震えた。それだけで、彼が自分の願いとは真逆のことをするつもりだとはっきり分かってしまった。
間違っても逃がすものか。ジャケットの上から握りしめた腕を、一層強く掴み、美波はさらに捲し立てる。
「ねぇ、おかしいって分かってるでしょ。縢くんも、慎ちゃんも居なくなっちゃったんだよ」
矢継ぎ早に動く口元は忙しい。酸素を求め喘ぐ喉から、ひゅうひゅうと細い音が鳴った。それは、心からの叫びに違いなかった。
ここで、彼の手を離してしまえば一生後悔をする。もう二度と、暖かい体温を感じることは叶わないかもしれない。
向かい合う宜野座はなぜか冷静だった。自分を逃さんとする美波を、いっそ穏やかな目で見下ろしている。
「それを終わらせる為に俺達は行くんだ」
「今度はチカたんが居なくなっちゃうかもしれない。チカたんだけじゃない、チカたんパパも、他の人も」
「だとしても、誰かがやらなければいけないことだ」
宜野座の手が美波の腕を軽く叩く。上背をほんの少しだけ折った男は、静かな声で美波に言い含めた。
違う、そんな覚悟をして欲しくて、今まで側に居たんじゃない。
脳内で黄色い火花が散った。神経を焼きつくすような熱が駆け上り、全身が震える。抑えきれない衝動は、紛れもない怒りだった。
宜野座に対して怒りを覚えたことなんて、今まで一度も無かったのに。
「宜野座伸元!」
空が割れるような悲鳴。
宜野座の肩が驚きに跳ねる。地面に叩きつけた声は、コンクリートに跳ね返り飛散していった。
美波は俯いたまま、宜野座を掴む手に力を込めた。
「貴方が居なくなったら、わたし、どうすればいいの。だって、わたし、こんなに」
それ以上は喉がつかえてうまく言葉が出なかった。
縋るように服の裾を握りしめ、言葉の代わりに視線で訴える。
きっと、自分は彼と同じ顔をしているに違いなかった。
言葉を出そうとして、でも、どうしてもいまは言えなくて。顔を思い切りしかめることでしか気持ちを押さえつけられない。今にも泣いてしまいそうな、ひどい顔。
「どうしてわかってくれないの。私のことを一番理解してくれているのは、貴方でしょう。それなのに、貴方に否定されたら、私はっ!」
「違う、美波!」
今度は美波が口を閉じる番だった。
大きくかぶりを振った宜野座が、美波の肩を強く掴む。
「俺はお前を一人にはしない。絶対に」
碧玉の瞳が美波を射抜く。
どんなに打ちひしがれようとも、輝きを落とさない気高い瞳。
隣に並んだ時、前髪の隙間から覗く美しい目をこっそりと盗み見るのが好きだった。深い海の底をそのまま閉じ込めたような、静かな眼差し。
こんな時ですら彼の好きなところを探してしまう自分にぐっと喉を詰まらせる。
「側にいてってお願い一つも守れないくせに、今更そんなこと言うの」
「俺が最後に帰る場所は変わらない」
「……いつもそう、貴方は私が本当に欲しい言葉はくれない」
真っ直ぐと自分を見つめる瞳から逃げるように、美波は下を向く。
そっと彼の裾を掴んでいた指を離すと、掠れた笑い声が口の端からこぼれ落ちた。
それは自分自身への嘲りだったし、宜野座への当て付けでもあった。
どうしてわかってくれないの。
――いや、違う。分かっている。これは子供の癇癪だ。
全ては起こるべくして起こり、収まるところに収まってきた。その中で、タイミングは幾らでもあった筈だった。
彼の手を取り、この終わりのない泥沼から引き上げる選択肢が。
なのに、一緒に沈む道を選んだのは他でもない自分だった。
彼が目指すものを遮って、もし関係が変わってしまったら自分は生きていけない。だから、自ら底の見えない沼に落ちていった。いつか、果てに辿り着くと信じて。
――馬鹿みたいだ。そんなの、ただの願望じゃないか。
唇の端をきつく噛むと、僅かに血の味がする。遅れてやってきた痛みは、心の柔い部分をゆっくりと刺した。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。心の中でもう一人の自分が泣き喚く。
「……お前も俺が欲しい言葉はくれた試しが無いじゃないか」
どのぐらい、そうしていたのだろう。
美波の意識を引き戻したのは、寂しげな呟きだった。
伏せていた瞳を持ち上げれば、眉を下げた男と視線が絡み合う。
屋上のライトに照らされた輪郭は淡く輝き、左右に揺れる双眼をはっきりと浮かび上がらせていた。
今にも雫がこぼれ落ちてしまいそうな危うさに美波は思わず手を伸ばす。触れた頬は驚くほどに冷たかった。
目尻の辺りを何度も擦れば、宜野座は困ったように笑い、感触を確かめるように目を細めてみせた。
「お前はそうやっていつも俺を心配するのに、逆はさせてくれない。いつだってそうだ」
「……どうしたの」
「知っているか? お前に慰められている時、俺がどんな事を考えているか」
「分かんないよ、一体何が言いたいの」
「いつも想像していた。本当は、俺がしてやりたいのに、お前はちっともそんな姿を見せないから」
「……私は貴方が思うほど強い人間じゃない」
「知ってるさ。だから、いつか弱い部分を見せてくれればいいと思ってた。そしたら堂々とお前に手を伸ばせるからな」
肩に置かれた手が腕を滑り、美波の両手を優しく包む。
二人分の体温が溶け合い、肌に触れる冷たい風が嘘のようにそこだけが暖かかった。
「待つだけじゃお互い駄目になると分かった。だから、キスをした。それがあの時の答えだと思ってくれ」
上背を折った宜野座から清涼な香りが雨垂れのように降りてくる。
両手を引かれるまま体を寄せれば、ふわりと額に唇が押し当てられた。
優しい香りがする。香水とは違う、彼本来の匂いが。
「これはお守り代わりに貰っていく」
絡まっていた手がするりと離れていく。逃げていく体温を掴もうと腕を伸ばした時、彼はもう背を向けていた。
「……駄目よ。いかないで」
後を追って踏み出した足は、それ以上進めることが出来なかった。
遠ざかる背中に抱きついて、がむしゃらに縋りついてしまえばいいのに。
出来なかった。彼の覚悟の重さに耐えられないと、振り払えない諦めがあった。
同じ場所に立てないから、せめて近くに居たかった。けれども、線はどこまでいっても交わらず真っ直ぐと伸びたまま。
もう感触の遠い額を抑えながら、美波は天高く舞い上がるヘリコプターを呆然と見上げた。
――コツ、コツ。
静寂を取り戻した屋上に、軽快な足音が響く。振り返らなくとも、誰が後ろに立っているかは分かっていた。
滑稽な自分を嘲笑うような靴の音に美波は眉を寄せる。
「局長、お願いがあります」
だが、彼女の瞳はまだ死んでいなかった。
一度吹き上がった炎は勢いをそのままに、鮮やかな色を灯し続けている。
背後で微かに笑う声がした。首筋を撫でる不愉快な音に美波は頭を大きく振る。
「まだやれることはある。そうでしょう、慎ちゃん」