冷たい手をしていた


 廊下を歩く度に視線を感じた。それは密やかなものが大半だったが、いくら控えめにしたところで当人からすれば迷惑以外の何者でもない。
 試しに足を止めて振り返ると、蜘蛛の子を散らすようにスーツ姿の男女がそれぞれのオフィスへ消えていく。
 神経を苛立たせる後ろ姿に美波は眉間を揉んだ。どうも最近、感情的になりすぎている。以前ならば視界に入っても気にならなかった他人の姿が、よく目につくようになった。
 
「私に腹を立てているんじゃないか?」
 
 極めつけはこれだ。
 逃げるように帰路を急いだというのに、今度はこの人なのか。
 面白がる様子を隠すこともないその声は、心の隅をちくちくと刺すような鋭さがあった。
 自分を落ち着かせるため、長く息を吐く。整えた喉から出た声は思った以上に冷え冷えとしていた。
 
「本音と建前、どちらが宜しいですか」
「……ふっ、その返答で充分だ」
 
 豪奢な椅子に腰をかけた上司は、にこやかとは言い難いまろい笑みで美波を見据えている。
 居心地の悪さを無視して、美波は禾生のデスクに向かって歩みを進めた。
 局長室に美波専用のデスクは無い。大抵は隣接している秘書室に籠もり、用事があれば出てくるといった流れだ。
 さっさと引っ込んでしまいたい。その一心で手早く報告をし、踵を返そうとしたが絡まるような禾生の視線がそれを許さなかった。
 ここ最近、美波はこの女性に違和感を覚えていた。
 美波がヘルメット男の暴行に巻き込まれ、暫く仕事を休んだあたりからだろうか。やたらと上司に絡まれる機会が多くなった。
 以前のようなからかいとは違う、もっとそう。まるで……人間味が増したような・・・・・・・・・

「私もお尋ねして宜しいですか」
「なにかね」
「宜野座監視官と私を会わせないように、裏で手を回していますね」
「ほぅ。面白い推測だな」
「事実ですから」
 
 もののついでに、薄々勘付いていたことを訪ねてみても禾生はのらりくらりとかわすだけ。いよいよ、腹の奥で疼いていた波が質量を増し始めていた。
 
「無礼を承知で申し上げますが、ここ最近の局長はあまりにも横暴です」
「私はそうは思わないが」
「平等を捨てるなんて、貴方らしくないですよ」
「よりによって君がそれを私に言うのかね」
「どういう意味ですか」
「一番罪深いのは誰なのか、もう一度胸に手を当てて考えてみるといい。そうすれば、自分とまったく同じ容姿をした人間が思い浮かぶんじゃないか」
「……私が罪深いと?」
「君は一番ずるい立場にいるじゃないか。誰よりも彼の近くにいる筈なのに、誰よりも安全な所で生きている。自分のエゴをあたかも世間の総意のように塗り替えて、都合の良いように世界を回しているのは他でもない君だ」
 
 違う、と言いかけた口が固まる。
 喉元に溜まった言葉は上手く形にならず、くぐもった息が呼吸を奪うように意味のない循環を繰り返した。 
 
「ほら、図星だろう」
「……随分と意地が悪くなりましたね」
「元々こんなものさ。君が私をどう思っているかは知らないが、私だって普通の人間だ。腹が立てば嫌味の一つも言いたくなる」
「違う、貴方はそんな人じゃなかった」
「ほぅ。随分と知った風に言ってくれるな」
「本当にどうしたんですか。以前の貴方なら私のことなんて興味も持たなかった。興味をもったふりはしても、ここまで踏み込んでくることなんて無かった」
「可愛い部下がいれば、たまにはいじりたくもなるだろう?」
 
 うっそりと微笑む顔に美波の背筋が凍った。背中を冷たい汗が伝い、キャミソールとシャツの間をしっとりと濡らす。
 気持ちが悪い・・・・・・。脳に直接降りてきた言葉を、美波は何度も反芻した。
 なんだ、この猛烈な違和感は。知っている人間の筈なのに、まったく違う人と話している気分だった。
 訝しさに鋭くなった瞳をさらに引き絞り、美波はじっと上司を見つめる。
 深い霧の中に隠された真実を暴こうと目を凝らしてみても、霧を素手で掴める訳もない。
   
「君は随分と回りくどいことをしているな。望むなら、手を伸ばしてしまえばいいのに。自分を守ることに必死過ぎて、伸ばす腕も無い」
 
 淡々と毒を塗り込むように、抑揚のない声音は広い室内によく響いた。
 権力の大きさを分かりやすく示した造りは、その役目を充分に発揮している。この空間は酷く息苦しい。
 音もなく立ち上がった禾生はそのまま美波の前に歩み出た。すり寄るように伸ばされた指先は美波の顎を撫で、軽い動作で持ち上げる。触れた指は氷のように冷たくて、思わず身震いをした。
 いや、本当に冷たかったのは硝子の先にある瞳だった。何の感情も読み取れない澄み渡った瞳は、手の込んだ工芸品と見間違えるほど美しく温度が無い。
 
「たった五文字も言えないその口で、私に何を言うというんだ?」
 
 ねっとりと絡みつく声。張り詰めた細い糸を爪弾く音は、美波の建てた壁をすり抜け痛いぐらい胸に響く。
 薄く開いた唇から、細い息が漏れた。
 どうしよう、何も言い返せない。言い返す言葉がまるで見つからない。
 
「……まぁ、そうでなければ面白くないか」
 
 無言の睨み合いが終わりを迎えたのは突然だった。
 それまでの空気が嘘のように、張り詰めた空気は緩みを取り戻す。
 唖然とする美波をよそに、いつの間にか定位置に戻った禾生は真顔でディスプレイを眺めていた。
 自分は何か幻でも見ていたのだろうか。
 釈然としない気持ちを抱えながら、美波が立ち尽くしていると、禾生はおもむろに口を開いてみせた。
  
「君の王子様だが、もうすぐ飛び立つらしいぞ」
「……はい?」
「少し前にヘリポートの使用申請があった。どうやら槙島の居場所を突き止めたらしい」
 
 ヘリポート、槙島、居場所。
 ぼんやりと単語を飲み込んでいた美波の瞳が徐々に見開かれる。
  
「そうだな、あと二十分もしない内に――」
 
 禾生の言葉が終わる前に美波は局長室を飛び出していた。
 廊下の先で談笑をしていた職員が目を丸くして道を空ける。背中の方で何事かと騒ぐ声がしたが、美波の耳には入らない。
 頭を占めるのはたった一人の男だけ。
 駄目だ。絶対に行かせてはいけない。スカートにもつれて転びそうになった時、堪らず込み上げた熱い雫を美波は無理やり押し込めた。
 他人に言われなくたって、自分が一番分かっている。
 壁についた手を握りしめ、美波は勢いよく体を起こす。
 その瞳には鮮烈な炎が宿っていた。灰の中から息を吹きかえす、不死鳥の如き荒々しい炎が。
 再び走り出した足に、もう迷いは見えなかった。
 
 
 
 
 一陣の風が去った後、音もなく閉まった扉を見つめながら禾生はおもむろに頬杖をついた。
 視界の端でチカチカと眼鏡のフレームが点滅を見せる。心なしか、忙しなく弾ける光に禾生はやれやれと首を振った。

「分かっている。少しやりすぎた。出過ぎた真似だったよ」
 
 口だけで詫びたところで、彼等を誤魔化せるわけもない。尚も弾け続けるライトに辟易としながら、それでも顔には出さず禾生は姿勢を正してみせた。
 
「なにも意地悪がしたい訳じゃないのさ。私達・・は君達の幸せのためにあるのだからね」
 
 禾生の呟きに呼応して、青白い光が数回弾ける。
 まるで頷いているようなその点滅に、彼女は深い笑みを浮かべてみせた。