透くまぼろしの断片
火薬の香りと、それを上回る鉄臭い血の匂い。
茨の道を自ら選んだところで、結局最後に残るのはこんなものかと思った。
自分の意思とは関係なく背負わされた運命は、重苦しくてしょうがなかった筈なのに。無くなってしまえばどうしようもなく虚しい。
失って初めて、自分は大切にされていた事に気が付いた。それも、ずっとずっと、途方もない愛がそこにあったことを知った。
背を向けて走り去った男もそうだ。あの男のことだって、本当は今でもまだ、友人だと思っている。
(……駄目だな、俺は)
いつも過ぎた後に思い知る。自分勝手に世界を狭め、色々なものを手当たり次第に追い出し、そうして自分は一人なのだと思い込む。
そんな世界で生きていたって苦しいだけなのに、馬鹿な自分はそんなことにも気付けなかった。
目を覚ますのがもう少し早かったら、違う形で呼べたかもしれない。父親も、狡噛も……――そして佐々山も。
すべては後の祭りか。
薄らぼんやりと開いた眼の先、暗いコンクリートの壁を見つめながら、宜野座はそんなことを考えていた。
うつらうつらと瞼が落ちるのは、きっと血を流しすぎたせいだ。
微睡みと現実の境目を幾度となく泳ぎ、やがて深い眠りの方へ誘われていく。
痛みが遠ざかった世界は驚くほどに穏やかで、心地よかった。
ありもしない幸せな記憶が頭を巡る。考える事を放棄した頭は、願望をそのまま流すことにしたらしい。これが幻でも、最後に見る夢ならば嘘でも良いと思った。
もう、いいだろうか。
たっぷりのぬるま湯に浸かった頭がそんなことを囁く。いつの間にか体は横たわり、血の海が頬を冷たく濡らした。
救護要請は届いただろうか。いや、そもそも要請を出したのかも怪しい。
体の機能がゆるゆると終わりへ向かっていくのを、ただ感じるまま受け入れる。
重い瞼が完全に閉じるのに、そう時間はかからなかった。
『……――さみしい』
頭の奥底で、細い声が聞こえた。
ハッと目を開けると、そこは真っ白な部屋に変わっていた。
呆然と辺りを見回す。埃臭い工場に居た筈なのに、一体どうして。
床も壁も、天井についたライトまでもが白く統一された部屋には見覚えがあった。
――ならば、声の主は。
痛いくらいに目を刺す光から逃げるように部屋の隅を見つめる。
そこには小さな塊があった。
一見すると、置物と見間違えてしまいそうな黒い物体は、近付けば人間だと分かる。
宜野座は足音を立てないように、そっとそっと近付いた。
体を覆う髪の隙間から、淀んだ目が宜野座を凝視している。
少女が纏う衣服もやはり白だった。清潔な筈なのに、彼女が背負う雰囲気はどこまでも歪んでいる。
宜野座は迷うことなくその少女に手を伸ばした。かつて、幼い自分がそうしたように。
床にしゃがんだまま、羽のように軽い体を自らの腕に抱き込む。
「……さみしいなら、俺が側にいる」
絞り出した声は小さな肩に吸い込まれていった。
慰めるつもりが、自分の方が泣いてしまいそうだった。
「だから、お前も側にいてくれ」
何も知らなかったあの頃。幼い自分は、なぜここに連れてこられたのかよく分かっていなかった。
ただ、ぽつりと呟かれた言葉にどうしようもなく胸をかき乱された。
今思えば、あれが始まりだったのかもしれない。
そうだ、側にいると約束した。彼女が今まで約束を違えなかったように、自分もそれを必死に守ろうとしていた。
なのに、手放そうとするなんて。
小さな体を目一杯、離さないように抱きしめる。唇の端から声にならない嗚咽がみっともなく漏れた。
いつの間にか腕の中の少女は大人になり、宜野座を細い腕で抱きしめていた。
どちらもお互いを求めているのに、傷を舐め合うばかりで本心には触れないまま、ここまで来てしまった。
頬に柔らかい手が添えられる。持ち上げられるまま顔を上げれば、苦い笑顔を浮かべた美波がいた。
宜野座も同じように笑ってみせる。寄せた額をすりつけながら、心の中だけで呟いた。不格好だな、俺も、お前も。
彼女に言えないままの言葉がある。たった数文字のそれは、大事にしすぎて錆びついてしまったけれど、それでも彼女は受け取ってくれるだろう。
――帰ろう、あの場所へ。
どこまでも自分に厳しい世界は、それでも美しい。
他でもない。彼女がいるのなら、尚更。