おわかれの日に朝日が差すこと


 通り過ぎる春の香りに、形まで分かりそうな柔らかい日差しのカーテン。風につられて上を向けば、睫毛を透かした太陽が優しく目を打った。
 思わずかざした指の先には狡噛と宜野座が居た。意図せず切り抜いた世界のピースに、心から安心したのを覚えている。
 あぁ、駄目だ。心に貼り付いた想い出が中々離れてくれない。
 年を重ねるごとに記憶は鮮やかさを増していた。
 夕立に襲われた午後、空を駆ける雷鳴を黙って軒下から三人で眺めた日。
 ホログラムと分かっていても、道の端にたまった紅葉を蹴り上げてしまった帰り道。
 雪の結晶を捕まえてみたくてスカートを持ち上げたら、慌てて二人に腕を掴まれた事。
 吹き出した息の白さも、彼等がどんな顔で笑っていたのかも、何もかもを鮮明に思い出せた。
 だから、きっともう終わりなのだと、心の隅で美波はちゃんと解っていた。

「ねぇ、いっちゃうんでしょ」
 
 後ろ手のまま、壁にもたれていた美波は一息に言葉を吐き出した。
 俯いた視界には頼りない足元と、塵ひとつない床が映るばかりで、つまらない世界だと思った。
 そう、つまらない。いまの生活も、仕事も。肌で感じる何もかもがあの頃には到底及ばない。
 
「いきなり何だ。主語をつけろ、主語を」
 
 それまで、黙って美波を眺めていた狡噛があきれたように答える。
 数日前まで美波が横たわっていたベッドに、我が物顔で寝そべる男。
 いつも通りの様子に「あぁ、やっぱり」と思った。
 昔から、直感は当たる方だ。今回ばかりは、外れてしまえと願っていたけれど、現実はいつだって美波に厳しい。
 短く息を吐いて、美波は壁から背を起こした。背筋をまっすぐと伸ばし、一歩、また一歩と床を踏みしめる。
 最初に目に入ったのは、彼の横に置かれたモニターだった。
 バイタルが規則正しく刻まれるモニターには、当たり前のようにもう一つ、別の数字が表示されている。
 これが人生の総評だと、本気でシビュラは言っているのだろうか。だとしたら、あまりにもセンスが無い。
 彼が抱えてきた苦悩を、こんな数字の羅列で済まそうなんて、冗談じゃない。
 本当は、ずっとそう思っていた。だから、見ないフリを決め込んで、気にしていないですよ、という風に振る舞っていたのに。結局、自分も最後はここに心を痛めるのか。
 握りしめた拳の内側で、爪が皮膚に食込む。悔しくて、悔しくてしょうが無かった。
 たった数歩の道のりなのに彼の横に立った時にはもう、ひどく疲れていた。
 狡噛が、困ったように口の端を上げている。言葉にしなくたって、どうせ伝わっている筈だ。
 
「はぐらかされるのは嫌い。知ってるでしょ」
「……悪いな。一緒に居てやれなくて」
「止めるなって言われたほうがまだマシだった」

 ベッドに腰をかければ、二人分の重みに耐えかねたスプリングが短く悲鳴を上げた。
 上半身だけを起こした狡噛は、やはり困り顔のまま笑うだけだった。
 思い返してみると、彼のこんな表情をみるのは随分と久しぶりな気がする。
 毒気の抜けた、清々しい顔つきだ。何がどうなって、彼の中で折り合いがついたのかは分からない。――やっぱり、自分じゃ駄目だった。
 
「ごめん。何も出来なくて」
「あの状況じゃ仕方ないだろ。お前のせいじゃない」
「局長のこともだけど、違うの。それだけじゃない。今までのことも、……ごめん」
「じゃあやっぱりお前のせいじゃないな」
「いっそ責めてくれた方が楽だったのに。なにその余裕、ムカつく」
「友達っていうのはこういうもんだろ。それに、結果がどうであれ、別に俺は何とも思ってない」
「本当に?」
「何とも思ってないは違うな。感謝してたよ、ずっとな」
「……はぁー。もうほんと嫌、最後だからって、この野郎」
 
 心の中にあった細い糸が、ぷつりと切れた音がした。
 それは、決して嫌な響きでは無かったけれども、代わりに訪れたのは果ての見えない喪失の波だ。
 心に押し寄せる静かな音は、夏の海によく似ていた。晴れていて風もないのに、砂浜との境を静かに掻き乱す、むず痒いさざ波に。
 この感情を、人は寂しいと呼ぶのだろう。何とも柔らかい痛みに、美波は目尻を下げた。代わりに口の端が上を向くのは、自分が大人になってしまった証拠に違いない。
 頼りない瞳で狡噛を見つめる。彼もまた、同じような目をしていた。

「俺達は、もう同じ道は歩けない。お前だって本当は分かってただろ」
 
 ぐずる子供に辛抱強く言い含めるような優しさを乗せて、それでも残酷なことを狡噛はさらりと言う。
 無くしてきたものの多さを噛みしめるように、形の良い眉がしなりを作った。

「……慎ちゃんに出会えたこと、すごく感謝してるの。あそこで会ったのが慎ちゃんじゃなかったら、きっと私はここに居なかった」
 
 シーツの波間に指を滑らせながら、美波は細い声で最後の独白を溢した。思わず狡噛から目を反らしてしまったのは、自分自身を許せないからだ。

「ありがとう。今まで、ずっと守ってくれて」
 
 それでも、この言葉だけは彼に向き合って告げなければと思った。
 狡噛が僅かに目を見開く。それから、くしゃりと笑って、おもむろに片手を広げて見せた。
 吸い寄せられるように、美波は狡噛の胸にすっぽりと収まる。
  
「俺はお前を大切に思ってる。今までも、これからも」
「私も慎ちゃんが大事。だからお願い、死なないで。一生会えなくたっていいから、何処かでちゃんと生きてて」
「分かってる。お前こそ、もう自分をすり減らす生き方はやめろ」
「慎ちゃんがそれ言うの? ほんと最後まで自分勝手だなぁ」
「俺は良いんだよ。好きなようにやって、こうして罰を受けてるんだから。でも、お前は違うだろ。そろそろ自分を許してやれ」

 背中に回った腕は大きくて、とても暖かい。親愛を込めた手の平が、背筋の上で何度も心地よく跳ねた。
 ぴったりと狡噛の胸に耳をつけ、布越しの鼓動を噛みしめる。薄く開いた目の先には、モニターが無機質に佇んでいた。じっくり見つめたところで、数字はやはり変わらない。
 それが、ただ途方もなく悲しかった。
 
「……人生は動く影、所詮は三文役者。色んな悲喜劇に出演し、出番が終われば消えるだけ」
「マクベスか。意外だな、お前が覚えてるなんて」
「教えてくれた中でこれだけは覚えてるの。他のは忘れちゃったけど」
「へぇ、何がお気に召したんだかな」
「……淡々としてて、明確なところが好き。はっきりしないのは嫌いなの」
 
 お前らしい。頭の上で、微かに笑う声がする。
 
「私の出番はまだ終わってないと思いたい。まだ、やれることはあるって証明したい」
「……お前なら大丈夫だ」
 
 抱きしめる腕に力が籠もった。息を詰めた先から、微かに煙草の香りがする。
 そっと目を閉じると、記憶の先で一人の男が笑っていた。燃え上る夕日を背に、紫煙をくゆらす男。
 狡噛も、宜野座も、美波も。それぞれが、それぞれの形であの男を好いていた。
 同じ匂いを感じながら、もう二度と会えない男を想う。
 狡噛が彼のためにしようとしていることを、本人はきっと喜ばないだろう。そんなことをしている暇があるなら、面白おかしく勝手に生きろと言われそうだ。
 きっと、狡噛だってわかっている。それでも止められないのは、彼が自分を許せないから。
 美波には自分を許せという癖に、本当につくづく身勝手な男だと心の底から思う。
 そうじゃなければ、彼らしくないとも。
 
「ギノのことも宜しく頼む。あいつも大事な友達なんだ」
「そんなの言われなくたって知ってるよ」
 
 狡噛の胸に手を当て、その上で拳を握る。手繰り寄せた皺は、まるで今までの苦悩を集めたみたいだった。
 沢山の見えない傷がそこにはある。叫びも、涙も、何も出来なかった歯がゆさも。
 もう、そんな思いはして欲しくない。血で血を洗うような、痛々しい生き方はして欲しくない。
 そっと手を離し、美波は丁寧に皺を伸ばした。
 
「大丈夫、わかってる」
 
  貴方が大事にしてきたものが何かなんて、痛いほど分かっている。
 強そうに見えて、実際はとても脆い腕の中に、自分が入っていることも。
 狡噛はもう何も言わなかった。これ以上話せば、手を離せなくなるとお互いが分かっていた。
 美波は静かに心臓の音に耳をそばだてる。薄い皮膚の下に隠された命の鼓動を、ただじっと享受した。
 会えなくてもいい。ただ、どこか遠い地の果てで、自由に生きてほしい。
 澄み切った青空の下、くゆらせた煙草の煙が風に流されるのを想像する。金青の瞳に映る世界は、美しければ美しいほど良い。
 そうしてたまに空を見上げて、ぼんやり思い出してくれればそれで良いのだ。
 ポケットに入れた端末が震えるその時まで、美波は狡噛の胸に頭を預けていた。
 
 ――狡噛伸也失踪の一報が駆け巡ったのは、それから間もなくの事だった。