君が傷口に沁みる


 彼、さっきまでそこに居たのよ。でも、呼び出しがかかっちゃって。あの性格でしょ? だからね、許してあげて。
 何でもない風に、あえてそういう雰囲気を纏った美女は、美波の包帯を外しながら静かに語って聞かせた。
 時間があれば、病室に寄って美波の傍らに彼がじっと座っていたこと。
 その顔があまりにも思い詰めていたのでつい軽口を叩いたら、しかめ面が増してしまったこと。
 立ち寄る暇もない時は美波の状態を教えて欲しいと、唐之杜にメールを送っていたこと。
 相変わらず、過保護なことで。美波はゆるく笑う。
 
「しょうがない生き物よね、男って」
 
 夜露に濡れた薔薇を思わせる、艶めいた唇が寂しげに呟く。
 どうしてか、自分にも言われているような気がして、美波は曖昧な頷きしか返せなかった。
 傷の具合を確かめていた唐之杜は、ごく自然にそのまま頭を撫でた。さらさらと滑る手のひらは、犬を撫でるような気軽さで、彼女特有の甘い匂いが鼻腔を擽る。
 彼女がどうして自分にそうするのかは分からなかったが、何となく、慰められているのだろうなと思う。
 
「ねぇ、美波ちゃん。貴方に言わなきゃいけないことがあるの」
「なに?」
 
 怪我の具合をタブレットで確認していた美波は、手を止めて唐之杜を見上げる。
 まじまじと見つめれば、彼女は珍しく言葉を詰まらせている様子だった。
 宝石にも負けない赤色が、開いて閉じてを繰り返す。
 もどかしいその動きに、美波は視線で先を促した。
 言葉を選びかねていた唐之杜は、薄いため息を吐いてベッドに腰掛ける。
 
「縢くんがね、消えちゃったの」

 最適な言い方が見つからなかったのだろう。彼女の口から告げられたのは飾り気のない端的なものだった。
 
「……え?」
 
 聞こえるようになったばかりの左耳が、言葉の意味を理解できず、内側で耳鳴りを起こす。
 消えちゃった、とは。
 
「死んだ、わけじゃない?」
「そうね。……正確には、死体が見つかってないから、消えちゃったとしか言いようがないの」
 
 白衣から出した煙草をくわえながら、唐之杜は感情のこもらない声で言う。彼女の中でも様々な葛藤があるのだろう。
 ライターの火を付けようとして、美波の存在を思い出した唐之杜はくしゃりと笑った。
 細い煙草は、唇の跡を残しただけで箱に仕舞われる。
 
「ごめんなさいね。詳しいことは話せないの。彼に止められてるから」
「まぁ、そうだよね」
「んもぅ。物分りが良すぎるわよ」
「チカたんなりに気遣ってるみたいだから、私も口を挟むのは野暮かなって思っちゃうんだよね」
「貴方達、いい加減どうにかなっちゃえばいいのに」
「どうにか、ねぇ。それが出来たらこんなに苦労してないんだけど」
「押して駄目なら引いてみるとか」
「あの性格だよ? 引いたら永遠に戻ってこなそう」
「それもそうねぇ」
「……ふふ、ちょっと元気出た」
 
 勢いよく後ろに倒れれば、柔らかい枕が頭を受け止める。横から咎める声がするが、知らんぷりをした。怪我など、最初から無かったように元通りになっているのだ。
 昔であれば医者が手放したメスも、機械が代わりに差し込む時代だ。今も昔も、治せないのは心の病だけ。 
 天井から降り注ぐライトの眩しさに、目を細める。白い光に紛れて、眩いオレンジ色が弾けた。
 人間を、もっとも人間たらしめる心というものについて、美波は考える。
 未来のため、咲く前に摘み取られた若い芽は、はたして本当に悪いものなのだろうか。
 潜在犯だと言われなければ、恐らく誰も分からないであろう陽気な男の子。尖った犬歯をちらりと見せながら笑う姿は、小型犬のような愛らしさがあって、何でも許せてしまう不思議な力があった。そんな彼が社会に害を成すとは到底思えない。
 縢だけじゃない。狡噛も、いま目の前にいる唐之杜だって。美波の目には等しく同じ人間に映る。
 それを正直に伝えたところで、彼等は決して喜んではくれないだろうけれど。
 
「きっとすぐ戻ってくるよ。縢くんだもん」
「……そうね、ああ見えて寂しがり屋だものね」
 
 どちらともなく、静かに微笑めば会話はそこで途切れた。
 大丈夫だよ、とは言えなかった。いま、ここでその言葉を言ってしまえば、もう二度と彼に会えないような気がしたから。