指切りさよなら
神様、どうかお願いです。まだ生きていたいのです。
私は、何も望まないふりをして、実際は多くのものを求めていました。
飢えていました。愛というものに。
浅ましいでしょう。誰よりも興味のないふりをして、人一倍願っていました。
唯一無二というものに。
きっと、沢山の事に嘘をついてきました。その方が簡単だったからです。
許されようとしていました。真っ白な部屋の中で、あらゆる理由をつけて自分を不幸な子だと、思い込むのに必死でした。
でも、彼だけは違うのです。私の中で、あの人に向ける気持ちだけは胸を張って本物だと言えるのです。
ずっと、ずっと小さい頃。彼は私に言いました。
『さみしいが消えるまで、そばにいるよ。だから、ぼくがさみしいときは君もそばにいて』
あの日から、私は人生を呪わなくなりました。彼が私をすくい上げてくれました。
神様、居るかもわからない貴方に語りかけていますが、実際のところ私の中で神様と呼べるのはあの人だけなのです。
だから、結局この独白も貴方へのお願いではなく自分への決意なのでしょう。
生きたいではなく、生きるのです。
私はこの先も歩いていきます。他でもない、世界で一番美しいあの人の隣で。
覚醒と呼ぶにはあまりにも穏やかなものだった。水面に落ちた雫が波紋を広げるように、ゆっくりと意識が浮上する。
震える瞼の先には、狭い空があった。人工的な光に侵食されすぎて、星も見えないさみしい夜空。なんて味気のない光景なんだろう。
どうして空を見上げているのか不思議だった。
目に映るものが漠然としすぎていて、いまいち頭が働かない。
ただ、どことなく全身のあちこちが痛いような、そうでないような。中途半端な不快感だけは、起きぬけの頭でも理解ができた。
とりあえず、体を動かしてみる。手から伝わる硬い感触には覚えがあった。昔、一度だけ乗ったストレッチャーの感触。嫌な思い出だったから、すぐに記憶の底に手が伸びた。
体を包む重い毛布も記憶のままで、いつまで経っても触り心地が変わらない事にうんざりとする。
「……美波?」
鼓膜を叩く澄み渡った声に、心臓が息を吹き返すように鼓動を刻む。その声は、驚くほど滑らかに耳に届いた。
幻聴だろうか。信じられない気持ちを押さえつけながら、美波はゆっくりと顔を倒した。
「チカ、たん」
自分を見下ろす一人の影。輪郭を確かめるように視線を滑らせれば、それまで味気なかった世界が嘘のように色彩を取り戻していく。
貴方に会いたかった。ずっと、ずっと。
喉元に込み上げた言葉は、口から出すことは叶わなかった。一言でも漏らしてしまえば、見開いた双眼の端から熱いものが溢れてしまいそうだったからだ。
「大丈夫か? 聞こえてるか?」
上背を折ってこちらを覗き込む顔を美波はぼんやりと見上げる。硝子を一枚挟んだ先で、翡翠の瞳が不安げに揺らめいていた。
少し、痩せただろうか。ただでさえ白い顔が、今日は一段と青く見えた。
じっと顔を見つめていると、何を思ったのか、遠慮がちな指先がゆっくりと頬に伸ばされる。
触れた手の平は驚くほど冷たかった。けれども、形を確かめるように滑る手の平に、どうしようもなく安心する。
「……どうしたの、泣きそうな顔して、また、誰かにいじめられたの」
「っ、誰のせいだと」
果たして、うまく笑えていたのか。安心させようと、口角を上げてみても、宜野座は一層きつく眉根を寄せるばかりだ。
大丈夫だから、そう声を出そうとして美波はそこで初めて違和感に気が付いた。
左の耳から、音が聞こえないのだ。ついさっき、宜野座の声が届いたのが嘘のように耳の奥がざらついている。
轟々と絶え間なく響く音は、血が流れる音だろうか。
「ごめん、なんか、耳がおかしいみたい、うまく聞こえないの」
「……唐之杜が治してくれる。大丈夫だ」
「よかったぁ、病院、嫌いなの」
「知っている。だから唐之杜に頼んだ」
耳を気遣った宜野座は、さらに上背を折って顔を寄せてくれる。互いの息が触れ合う近さに、美波は短く息を吸った。
吸い寄せられるように、視線が絡み合う。きっと、宜野座も同じことを思ったに違いなかった。あの日、オフィスで起きた出来事を。
覗けば底まで見えてしまいそうな澄みきった双眼の中。長い睫毛に縁取られたそこには様々な感情が波打っている。
今までそこにあったのは、後悔や自責、苦悩といった痛々しいものばかりだった。
けれども、いつからか彼の瞳には一匙の蜜色が溶け込むようになった。浮かんでは消え、また浮かんでは消えを繰り返すそれは紛れもない美波に対する想いの表れだろう。
いつか、こぼれ落ちてしまえばいいと。美波は思っていた。そうすれば、自分だって両手を広げて受け止めるのにと。
「……とにかく、今は安静にしていろ」
だが、やはり今日も宜野座は秘密を隠したまま身を引いた。風に吹かれてあらわになった端正な顔は、痛みを堪えるように固い。
そんなに、罪深いことなのだろうか。自分自身を殺して、抑えなければいけないほど、彼にとってこの感情は邪魔なのか。
あのキスは、抑えきれなかった結果ではないの。
気を抜けばあらぬことを喋ってしまいそうな舌をなんとか止め、彼の服の裾に手を伸ばす。
簡単に振り払える指先だっただろうに、宜野座は律儀に体を止めてくれる。
「ねぇ、あの人。どうなったの」
「それは」
言い淀んだ彼を見て、全てを悟った。美波は裾にかけていた指先をそっと離す。
間に合うとは思っていなかった。それでも、僅かな望みを捨てきれないのが人間というものだ。
あの時、自分が殴られさえしなければ、彼女はまだ生きていたのだろうか。
悶々と考えてみても、結局は助けられなかったという結論に辿り着くだけだ。
奥歯を噛み締め、答えのない道を歩く。しかし、思考はめちゃくちゃだった。薄い紙を何枚も差し込まれているように、考えれば考えるほど、右も左もわからなくなってくる。
「……考えるな。美波」
薄い手の平が、そっと美波の目を覆う。
「チカたん、わたし言いたいことが、あったの。でも、なんだっけ……、頭まわらないや」
「鎮静剤が効いている。大人しく寝ておけ」
「でも、言わないとって」
「あとでいくらでも聞いてやるから。それよりも治療が先だ」
「起きたら、側に居てくれる?」
「……あぁ、居てやる」
「やくそくだよ。絶対ね」
「わかった。わかったから」
もうそれ以上は喋ってくれるな、とでも言いたげな顔をして、宜野座はストレッチャーの柵に手をかけた。それから、少し迷った素振りをして、美波の右手を持ち上げる。
片方の手を添えながら、無骨な指先がそっと美波の小指に絡む。
「これでいいだろう」
「……うん」
繋がった小指に力を込めれば、宜野座はようやく小さい笑みを零した。といっても、それは口の端を上げただけの、笑顔と呼ぶには難しい顔だったけれども。不器用な彼なりの精一杯の微笑みには違いなかった。
いつまで経っても、笑顔は下手くそのままで。でも、そういうところが、とても愛おしい。自然と弓を描く美波の瞳を、宜野座は黙って見下ろしている。
角を落とした目尻に、薄く開いた唇。いつの間にか柔らかさを伴った輪郭は、街明かりに負けない美貌で控えめな主張をする。
相変わらず、言葉よりも表情のほうが雄弁な男だ。
「―…さん、……―野座さん!」
遠くから、誰かの声が聞こえる。聞き取りづらい左耳は、うまく言葉を拾うことが出来なかったが、音の高さから察するに女性のようだ。きっと、あの子だろう。
僅かに顔を上げた宜野座は、声の方に顔を向け、それからすぐに美波に視線を戻した。
「……また、あとでな」
小指から、するりと抜けていく体温に「いかないで」と言ってしまいたかった。本当は、いつだって遠ざかる背中に思い切り抱きついて、引き止めてしまいたかった。でも、それは自分のわがままであって、彼のためにはならない。
「また、ね」
もう、視界の端から消えかけている背中に小さく声を飛ばす。当たり前だが、宜野座は振り返らなかった。
彼の姿が完全に消えると、体から一気に力が抜ける。ほとんど、気力だけで起きていたようなものだから、いい加減限界だった。
眠いわけではないのに、瞼を引っ張るのは薬の力なのだろう。
ぱち、ぱち、段々と目を閉じる時間が長くなっていく。
あと少し、という所だった。微かな人の気配に、美波は重だるい目をうっすらと開く。
「……言っとくが、俺は怒ってるからな」
「ふ、どの口が」
染み付いた煙草の香りに、むすくれた声。
思わず笑って返せば、かさついた指先がそっと美波の前髪をはらう。
声とは裏腹に随分と優しい手付きだった。
ごめんね、小さく呟くと、ややあって「あぁ」と返事が帰ってきたのだった。