ここは奈落の花溜り


「えぇ、世田谷区にいます。……はい、大丈夫です。渋い顔はされましたが、サインは貰えました」
 
 夜も本番に差し掛かった街中は人でごった返している。歩く速度を少しでも間違えれば、人にぶつかるのは避けられないだろう。
 思い思いに喋る通行人に、主張の激しいホログラムの広告。
 視界から入る情報量の多さに辟易としつつも、美波は端末の先に耳を澄ませる。

『分かった。すまないが一度戻ってきてくれ』
「承知しました」
 
 端末の向こうで短い電子音が鳴り、一拍置いてツーと無機質な音がした。上司と部下という関係において、先に通話を切ってくれるのは有り難い。煩わしいやりとりを好まないのはお互い様なのだ。
 上司の淡白な性格に救われつつ、美波は前を見据えて重いため息を吐く。
 人混みは嫌いだ。幼少期を施設で過ごしたせいか、パーソナルスペースが一般的な人間よりも広い自覚がある。
 
「あっ、すみません」
「こちらこそ」
 
 あぁ、気をつけていたのに。ぼんやりしていたせいか、向こう側から歩いてきた男性にぶつかってしまった。
 自分自身へ苛立ちながら、表面上は穏やかに美波も謝罪を述べた。
 背中の方から、女性の咎めるような声がする。どうやらカップルだったらしい。他人にあまり興味がないので、連れがいたことに気が付かなかった。
 
「ちょっと、気をつけなきゃ駄目じゃない」
「ごめんって。そんなむくれるなよ」
 
 美波が女だったからか、彼女はご立腹のようだった。彼氏は気まずそうに頭をかき、何事かを耳に囁きかける。すると、一体どんな魔法の言葉を呟いたのか、さっきまでのしかめ面が嘘のように彼女の顔が甘く緩んでいく。繋いだ手を揺らしながら、男女はそのまま人の波に消えていった。
 気付けば、一連の流れを立ち止まって眺めていた。
 すれ違う人々が、迷惑そうに美波を一瞥して進んでいく。舌打ちにはっとして、美波は再び足を動かした。
 きっと、疲れているせいだ。そう言い聞かせコンクリートを蹴り上げる。でなければ、思うはずがない。
 ――羨ましい、なんて。
 信号待ちの交差点、ローパンプスに履き替えた足元をじっと見つめる。
 地面に跳ね返った風が前髪を揺らし、その冷たさに身震いをした。
 きんと冷えた空気はあらゆる気力を削ぎ落とそうとするが、同時に頭の中をクリアにもしてくれた。
 あの男女のような普通の幸せなど、今更手に入るわけもない。それでも、欲しいものは今の先にある。
 手を伸ばしたまま、宙ぶらりんにしていた中途半端な心に、そろそろ決着をつけなければいけなかった。
 宜野座とはもう丸一ヶ月も顔を合わせていない。昼食の誘いも数回してみたが、よほど切羽詰まっているのだろう。
 すまない。たった一言のメッセージばかりが溜まっていく。
 宜野座の隣が恋しかった。毎日、鬱屈とした顔をしているのに、背筋はいつだって伸びていて、隣に立つと美波は彼を見上げなければいけない。
 でも、話しかけるたびに宜野座はしっかりとこちらを見てくれた。長い前髪の隙間から覗く瞳は、隠しているわりに真っ直ぐで。反らされることは決してない。
 それは些細な所作にすぎなかったけれど、彼の本質をよく表している。
 早く戻りたい。居心地の良いあの場所へ。
 
「……ねぇ、あれって」
「ヤバくない?」
 
 丁度、信号が変わって歩きだそうとしたタイミングだった。背後がにわかに騒がしくなる。
 喧騒とは違う、いやに静かで不気味なざわめきだった。
 周囲の怪訝な雰囲気に押され、美波も自然と後ろを振り返る。目を走らせれば、人の流れが不自然に止まっていた。
 段々と、人の声が消えていく。そうすると、美波の耳が遠くから鈍い音を捉えた。
 何かを打ち付けるような、気味の悪い重さを含んだ音だ。
 音につられて、足が無意識に動いた。
 人の間を縫って、何組かの横をすり抜けた時。
 それは突然美波の前に姿を表す。
 
「……はっ?」
 
 目の奥で強烈な火花が散った。赤い閃光がいくつも走り、血管が焼け付くような熱さを孕んだ。
 ありえない。目の前で起こっている事実を受け止められず、指先がカタカタと震える。
 数メートル先で繰り広げられる光景に、呆然と立ちすくんだ。
 それはまるで出来の悪いホラー映画のようで、規制されても不死鳥のようにネットに蘇るスプラッター映画を連想させた。
 寒々しいコンクリートの上で、男が無心でハンマーを振るっている。振り子のように、規則正しく振り上げられる手は、一振りするたびに赤い飛沫を上げていた。
 美波の瞳が、徐々に下を向く。蹲った男の下で、微かに揺れる何か。音に合わせて、女性の足が痙攣を繰り返していた。
 ――人が、人を殴っている。
 眼球の奥を、再び閃光が駆け抜ける。引き絞った瞳孔の奥で、美波の思考は急激に過去に引き戻されていた。
 薄暗い校舎、埃臭い教室の隅で、数人の男が彼を囲んでいる。あの日も、今日のように頭に血が登って、考えるよりも先に椅子を掴んで飛び込んだ。
 
「なに、してるのッ」
 
 気付けば、男の腕を掴んでいた。
 握りつぶすつもりで出した手は、思ったように力が入らず、半ば引きずられるように美波は地面に膝をつく。それでも、絶対に離すものかと指先に力を込めた。
 ゆらり、男が美波を見下ろす。ヘルメットを被っているせいで、表情は分からない。だが、微かに聞こえる荒い声が美波の背筋をぬるりと撫で上げた。
 どう考えたって、正気じゃない。
 背中を嫌な汗が伝う。今すぐ宜野座に連絡をしたかったが、鞄に入った端末を取り出す隙などありはしない。
 男からはどす黒いオーラが漂っている。生まれて初めて浴びるそれは、吐きそうになるほど気持ち悪くて、飲み込まれそうな息苦しさがあった。
 これが、殺意というものなのか。
 自分を落ち着けるために、細い息を吐き出す。けれども、新しい酸素を取り込むことは叶わなかった。
 それまでピクリとも動かなかった男の体がいきなり動き出したのだ。成人男性に思い切り引っ張られて、美波が耐えられるはずがない。
 
「うっ!」
 
 一瞬の浮遊感。あっと思った時には体が地面に叩きつけられていた。
 冷たいコンクリートの温度を感じる隙もなく、頬が地面をこすって熱を帯びる。
 とても痛い。でも、痛がっている暇なんて無い。
 美波はすぐに起き上がり、鞄に手を伸ばした。腕を突っ込み、硬いものが手に触れた瞬間迷うことなくそれを引き抜く。
 手のひらにすっぽりと収まる大きさの機械。黒々としたそれは、美波の特殊な立場から特別に携帯を許されたものだった。
 バッテリー残量を確認し、素早くスイッチを入れる。線香花火に似た光が、ぱちぱちと弾けるのを確認して、美波は躊躇なく腕を突き出した。
 男の脇腹をえぐるように塊をねじ込んだ瞬間。勢いよくヘルメット男が痙攣をする。
 所詮スタンガンと呼ばれるそれは、一般的な護身用とは異なり殺傷能力をギリギリまで高めた代物だ。
 
「ガッ…! グっ、ウ゛ゥ!」
「ハンマーから手を離しなさい!」
  
 言葉にもならない悲鳴がヘルメットの中から漏れ聞こえた。
 くぐもった声を耳にしても、美波は手を緩めなかった。顔の見えない相手を睨みつけ、終わりが来るのをじっと耐える。
 小刻みに震える男の腕は、天に向かって伸ばされていく。自らの意志では無く電流によって強制的に釣り上げられた腕から、ハンマーがするりと落ちた。
 そうして、たっぷり二十秒は経っただろうか。
 警戒しながら、スタンガンのスイッチを切る。恐る恐る手を離すと、男の体はいとも簡単に地面にひれ伏した。

「はっ、はぁっ」
 
 美波は胸を抑えてへたり込む、心臓がありえない速さで鼓動を刻んでいた。内側から叩きつける血の巡りに、頭がくらくらとする。自分を落ち着けようと、大きく息を吸い込もうとして、はっとした。
 こんな事をしている場合じゃない。すぐさま体を起こし、地面に横たわった女性に覆いかぶさりながら声をかける。
 
「大丈夫ですか!」
 
 改めて間近で見ると、酷いものだった。女性の腫れ上がった顔は殆どが血に染まっていて、美波まで鉄の匂いが届く程だ。
 着ていた服は破られ、鮮やかな下着が街頭に晒されていた。とりあえず、自分が着ていたコートを上にかけてやりながら美波は声をかけ続ける。
 
「ねぇ、聞こえる? 見えてる?」
「……あ、ぁ」
 
 耳を澄まさなければ聞こえないぐらいの、弱々しい声だった。それでも、反応があったことにほっとして、美波は近くに立っていた治安ドローンに声をかける。
 
「大丈夫だからね、いま救急車を手配するから」
 
 それにしても、こんなに近くにいたというのに、このドローンは何をしていたのだ。
 苛々としつつも、美波はテキパキと必要事項をドローンに向かって喋る。
 その間、誰も話しかけてはこなかった。手を貸すどころか、皆が一様に傍観を決め込んでいる。
 これがシビュラがもたらした平和の代償だとでも言うのだろうか。
 
「あと数分で来るからね。諦めないで、持ちこたえて」
「……う、ウゥ」
 
 美波はできるだけ優しく声をかけ続けた。少しでも安心してもらいたくて、笑顔も付け加えてみる。
 そうすると、女性の目から溢れるように涙がこぼれ落ちた。
 美波は今更ながら、自分の職業が局長秘書で良かったと心底思っていた。普通の仕事ならスタンガンなんて持てないし、定期的な格闘訓練もしていない。毎月しぶしぶ受けていた講習がまさか役に立つなんて。
 この場にいない上司に心のなかで感謝しながら、美波は救急車の到着を待つ。
 ついでに宜野座にも連絡をしてしまおう。
 転がった鞄を引き寄せ、中身を漁る。思い切り投げられたせいで鞄の中はぐちゃぐちゃだった。
 
「あ゛」

 喉を掴まれたような声に、美波は鞄を漁る手を止めた。容態が急変でもしたのか。慌てて女性に近寄ろうとしたが、彼女の表情を見て体が動きを止める。
 大きく見開かれた、血走った瞳。必死に何かを伝えようとする強い視線に息を飲む。
 彼女の瞳は美波ではなく――さらに後ろを見つめていた。
 本能的に体が後ろを向く。そこには、大きな影があった。
 正確には、影ではなく手を振り上げた男の姿だったが、美波の目にはなぜか黒々と塗りつぶされて映ったのだ。

「あっ」
 
 すべてが一瞬だった。
 頭部を貫く凄まじい衝撃。揺れるビルの群れに、人々の姿。あっという間に世界が反転した。
 鼓膜の奥で何かが落ちるような音がする。左耳から音が消え、生ぬるい液体が耳から頬へ流れていった。
 地面に体が倒れるまで、すべてがスローモーションのようだった。受け身を取ることもできず、重力に従い頭部がコンクリートに打ち付けられる。
 朦朧とする意識の中、どうにか目だけを動かして周囲を伺う。黒に染まる視界の端で、男がまた女性に跨っていた。
 駄目、本当に死んじゃう。
 美波は力の限り手を伸ばす。けれども、指先はコンクリートに爪を立てるだけで、それ以上は動かなかった。
 感覚が、もう殆ど無い。感じるのは、頬を伝う液体がやけに熱いことだけ。
 暗闇に引きずり込まれるように、瞼が落ちていく。
 すべてに帳が降りる瞬間、美波の口が小さく動く。
 誰にも聞き取れない、形だけの呼びかけ。届くわけが無いとわかっていても、美波は願った。
 この世でたった一人の、美波だけの神様。美しい彼の人よ。
 ここで終わりにはしたくないの。
 冷たいコンクリートの上で、美波は意識を手放した。
 
 



 
 
 ――暫くして、体が誰かに持ち上げられた気がした。
 しっかりと、痛いぐらいに自分の体を抱きしめる腕には覚えがあって。妙に安心した。
 頭の上で声がする。潰れた鼓膜のせいでうまく聞き取れはしなかったけれど、どうやら同じ言葉のようだ。

「大丈夫だ」
 
 繰り返し、繰り返し。言い聞かせるようなその声は今にも泣きそうで。
 美波は朦朧とする意識の中、胸の中で呟いた。

 泣かないで、チカたん。