夜を駆け抜けて


 首都高をひた走る大きな車は、視界の悪い夜でも一際目を引いた。
 重厚な金属で形作られた箱型は、一見すると芸術品のような美しさがあり、同時に底の見えない怪しさを放っている。
 濡れそぼったカラスの羽に似た、人を寄せ付けない黒。
 中には何があるのか。しばしばの人々の好奇心を擽る車体も、狡噛にとってはただの檻でしかない。
 この中は薄暗くて息が詰まる。
 慣れた素振りを見せつつも、だらしなく緩んだネクタイはそういった意志の表れだった。
 
「なぁに、コウちゃん。えらく考え込んでんね」
 
 手首の端末を睨み続けて、一体どれぐらい経っていたのか。
 縢の声に顔を上げると、好奇心の隠せない猫のような目が、爛々と狡噛を見つめていた。
 
「ん? あぁ、悪い。眩しかったか」
「いーや全然。てか、コウちゃんがメールとか珍しい。誰としてんの」
「誰とって」
「ま、コウちゃんが連絡取る相手なんて一人しか居ないか」
「分かってて聞くなよ」
「だぁって。あんまり悩んでるから面白くてさぁ」
 
 けらけらと笑い飛ばす縢の笑顔を眺め、狡噛はふっと口元を緩めた。この後輩は、場の空気を和ますのが上手い。
 
「んで、今度は何言われたの」
「お前には関係ない」
「おっ、言うねぇ。その様子だと痛いとこ突かれたんでしょ」
「うるさい」
「図星だぁ」
 
 が、いかんせんこの男。場を和ますのも上手ければ、人を煽るのも上手い。
 こういう所は、美波に似ていると思った。
 
「まっ、せいぜいご機嫌取りでもしたらいーんじゃないの。美波ちゃんって怒ると怖いみたいだし」
「おい、なんで俺が悪い前提なんだ」
「コウちゃんがそんな難しい顔するってことは、自分でも悪いって思ってる証拠じゃん」
 
 ぐぅ、吐き出そうとしていた酸素が喉を戻る。口の中に苦いものが広がったような不快感に、狡噛は思いっきり顔をしかめて見せた。
 縢は珍しいものを見た表情で、ワーオと一言。ついでに口笛でも吹きそうな調子だったので、狡噛は聞こえないフリをすることにした。
 
「……このあいだ出勤した時。宜野座監視官の机にマグカップが倒れてたのよね」
 
 ごうごうと振動が響く車内で、その声はあまりにも小さくて。ついでに言えば、薄暗い車内には似つかわしくない繊細で可憐な声だったから。狡噛と縢は一瞬誰が喋ったのか分からなかった。
 男二人の視線がゆっくりと斜め前に注がれた。それまで沈黙を貫いていた六合塚は、本当に喋ったのか疑いたくなる無表情さで静かに足を組んでいる。
 初冬の冷たさを思わせる鋭利な美貌。誰をも寄せ付けない彼女が自発的に発言するのは珍しい。
 
「何が言いたいのさ、クニっちは」
 
 面白いものを見つけた、とでも言わんばかりの縢が身を乗り出して先をねだる。
 床に落とされていた切れ長の瞳が、宙を滑って縢を捉えた。
 
「コーヒーの跡もあって、慌てて拭いた風だった」
「つまり?」
「あの宜野座監視官がマグカップを倒して、そのままなんてありえると思う?」
「まー、あの生真面目な人からしたらありえないね」
「そういうことなんじゃないの」
「いやいや、どういう事よ」
「……呆れた。貴方それでも刑事?」
「わっかんねーよ! 説明プリーズ!」
 
 狭い車内に縢の地団駄が響く。耳を汚す雑音に六合塚の整った眉が僅かに歪んだ。
 ギャンギャンと喚く男が心底鬱陶しいのか彼女の口から細いため息が漏れる。
 一連の流れを黙って傍観していた狡噛は、顎に指を当てて思考を巡らせていた。
 縢の言う通り、あの宜野座が机を汚したまま帰るなんてありえない。ましてや、使用済みのマグカップを残したままにするなんて。一体、何故。

「ねぇ、貴方にならわかるんじゃないの」
「……俺か?」
「他に誰がいるのよ」
「そんな目で見られてもな」
 
 狡噛は思いつく限りの過程を想像してみた。宜野座が、ついマグカップを放置したまま帰ってしまうような出来事を。
 だが、犯罪に関してはよく効く鼻も、ひとたび事件を離れてしまえば鈍くなるもので。決定的なものは思い浮かばなかった。
 仕方がないので肩をすくめて見せると、六合塚は呆れたように目を伏せ、そのまま視線を反らしてしまった。
 「コイツも駄目だな」と言われているような気がするのは、杞憂であってほしい。
 
「何かあったんじゃないの。彼女と」
「何かって、何」
「さぁ。少なくとも、あの監視官がコーヒーの跡をおざなりにして出ていくようなナニかはあったと思うけど」

 ――ナニか。
 艶めいた唇から、意味深に呟かれた一言。
 やけにねちっこく、うっすらと色香がまぶされた一言は、男達をザワつかせるには充分すぎるスパイスだった。
 狡噛と縢、ついでにこっそりと聞き耳を立てていた征陸も、我慢できずに身を乗り出す。
 なんだ、この空気は。かつてない緊張感に狡噛はただでさえ緩んでいるネクタイを引っ張った。
 捜査中ですらこんな張り詰めた空気にはならないというのに。
 
「そっ、そもそもさ! 美波ちゃんが一係に居たかなんて分かんないじゃん」
「居たわよ。その日の朝、仮眠室でばったり会ったもの」
「うっ!! ……マジ? あの二人ついに?」
「オフィスでやれることなんてたかが知れてるけど」
「いやいや、分かんないよ。やろうと思えば……」
 
 果たして、縢の脳天にチョップを入れたのはどちらが早かったのか。
 気付けば狡噛と征陸はオレンジの頭に強烈な一発を叩き込んでいた。
 
「いってぇー! なにすんだよ!」
「モラルの欠如を感じた」
「潜在犯のくせにいまさらモラルもクソもねーだろ!」
「それ以上言ったらとっつぁんが死ぬぞ」
 
 脳天を揺さぶる衝撃に頭を押さえ、喚こうと牙を出しかけていた縢だったが、狡噛の言葉にはっと口を結ぶ。
 忘れていたのだ。話題の男が、目の前で立ちすくむ刑事の愛息子だということを。
 
「ご、ごめんとっつぁん。つい盛り上がっちゃって」
「あ、あぁ。いや、こっちこそ悪かった」
「……オメデトウゴザイマス?」
「ありがとうと返せばいいのか、どうなのか、……うぅん」
 
 難しいな、いや、でも。ブツブツと独り言を漏らしながら、征陸は元いた席に戻る。
 長年、数々の事件を追ってきた熟年の刑事はどこに行ってしまったのか。
 そわそわと腕を組み、神妙な顔つきで何やら考え込んでいる様子は一人の親にしか見えなかった。
 
「……結婚とか、すんのかねぇあの二人」
「ゴホッ!」
「おい。とっつぁんがむせちまっただろ」
「ごめんって。でもさ、二人ともいい歳だし、そろそろありえそうじゃん?」
「……まぁ、美波ちゃんはいい子だからな。伸元の嫁さんになってくれたらそりゃ嬉しいさ」 
「あいつが、いい子……?」
 
 幾分か落ち着きを取り戻した征陸から放たれた言葉は、しみじみと、丸さを含んだものだった。一文字一文字を噛み締めて出したような、渋い声音。
 肯定しつつも、寂しさを隠せないその声に、狡噛は目を丸くする。

「なんだ、コウ。そんなに驚いた顔をして」
「……あまりにもあいつに似合わない言葉が出てきたもんだから、動揺した」
「おいおい、ひでぇな。美波ちゃんのことは俺よりもお前のほうがよく知ってるだろう」
「とっつぁんはあいつの悪行を知らないからそう言えるんだよ」
 
 宙に視線を投げ、うんざりと吐き捨てた狡噛の思考は学生時代にトリップしていく。
 美波とのめくるめく学校生活の思い出は、綺麗なものばかりではなくむしろ荒々しいものが多い。
 ある日は宜野座を殴った男子生徒に清掃ドローンを投げつけ、あわや大事故を起こしかけた女。
 またある日は校舎の隅々まで加害者を追いかけ回し、ドン引きをする宜野座の前で最終的に土下座をさせた女。
 割った窓の数は両手の指をゆうに超え、ついたあだ名は破壊神。
 美波の制裁という名の暴力を止めるため、宜野座と二人。何度校舎を走り回ったことか。
 そんな奴が、いい子なんて。 
 
「コウ。お前だって分かってるだろ。美波ちゃんはいい子さ」
 
 嗜めるような征陸の口ぶり。
 目線を戻せば、皺の刻まれた顔が柔和に微笑んでいる。
 
「……まぁ、否定はしない」
 
 歩んできた人生の重みのせいなのか、征陸が持つ独特の話術は狡噛の本音をいとも容易く引き出す。
 確かに美波は紛れもない問題児だった。一度怒ると手がつけられないし、どんなに狡噛がたしなめても絶対に首を縦には振らない。そのくせ、宜野座の一言には素直に頷く腹立たしい奴。
 それでも、記憶をかきわけた先には、思わず目を細めてしまいそうな眩い記憶ばかりがある。
 校舎という小さな小さな箱庭。誰もが本心を出すことを恐れ、上辺だけの綺麗さを保つことに必死だった薄っぺらい世界。
 その中で美波は一際輝いて見えた。彼女は色相で物事を判断しない。誰であろうが気に入らなければ堂々と気に入らないと言い放った。
 美波の行いはさておき、そういう人間の側に居るのは心地がいい。
 
「俺は美波ちゃんとお前が伸元の友達になってくれて本当に良かったと、今でも思うんだ」
「辛気臭いな。やめてくれよ」
「年を取ると駄目だな。どんどん感傷的になる」
 
 皺を寄せて笑う征陸に、狡噛も笑い返してみたがうまく笑えた自信が無かった。
 感傷的になっているのは一体どちらの方なのか、先程から目の奥でチカチカと光が弾けて堪らない。
 思い出というものは残酷だ。人が必死に目の前のものに縋りつこうと進んでいるのに、いとも容易く足を止めようとする。
 瞬きをする度に、裏側では桜が散っていた。
 本物の桜なんだって、楽しげに呟く彼女の横顔をむず痒そうに眺める宜野座。
 桜よりも隣に気を取られているのは明らかで、傍から見ていると面白くてしょうが無かった。
 そんな二人を一歩後ろで眺めていた、穏やかな記憶。
 誰よりも誠実で、誰よりも優しい。人間本来の美しさを持ったかげかえのない友人達。何度季節を越えようとも、思い出は色褪せることは無い。
 彼等と過ごした日々は、どうしようもなく楽しかった。
 
『世田谷区でエリア警報なんだけど、それはそれとしてネットにとんでもない動画が上がってるわよ』
 
 緩んだ空気を断ち切ったのは唐之杜の音声だった。車内の雰囲気が一瞬で切り替わる。
 先頭車両の宜野座が転送したであろうモニターの画面には信じがたい光景が浮かび上がっていた。
 人がごった返す道路の真ん中で、不自然に空いた空間。
 一人の男が一心不乱に拳を振るっていた。目を凝らすと、手には鈍器が握られている。
 そして、その下には――。
 
『……それと、動画の最後なんだけど』

 唐之杜が、一拍置いて喋りだす。少しの間は、彼女が煙草のフィルターから息を吸い上げたからだ。こういう間の取り方をするときは決まって悪い話だと、誰もが知っていた。
 面々が眉根を寄せる。だが、彼女が何を躊躇っていたのかは、すぐに分かった。
 モニターを注視していると、カメラを遮るように飛び込む人影があった。撮影者は突然の乱入者に驚いたのか、映像は一瞬乱れ動画はそこで終わった。
 静まり返った車内。異様な雰囲気が漂う中、狡噛の頭から一気に血の気が引いていく。
 見間違えるわけがない。あの背中は、
 
「ギノ!」
『わかってる! ――周辺のドローンをありったけ向かわせろ。急行するぞ!』
 
 瞼の裏では、薄い花弁が絶えず散り続けていた。肌を撫でる陽光が気持ちいい日だった。日差しの匂いまで感じ取れるような、平穏な昼下り。
 暖かい風が肌を撫で、彼女の長い髪が舞い上がる。
 細い髪質で、纏めるのが大変だと言っていた茶色の毛。肩から浮いた髪を押さえる手付きに惹かれ、宜野座と二人、ぼんやりとその姿を眺めていた。何故、いまそれを思い出すのか。
 
『……美波』
 
 宜野座の聞き逃してしまいそうな声は、恐らく狡噛だけが拾えていた。
 きっと彼もまた、あの春を思い出しているに違いない。
 動画の最後、画面の切れ端で舞った髪を狡噛は見逃さなかった。
 まるで横から殴られたような、抗いがたい力に押し上げられた曲線。
 やめてくれ。握った拳に額を当て、狡噛は奥歯を噛む。
 
 ――ねぇ、本当に綺麗。桜って凄いね。
 
 耳の奥で、浮足立った声が聞こえる。
 護送車の音にかき消されそうなその声を、狡噛は必死に追った。