さようならとはじめまして


 ――疲れた。
 数日ぶりに帰宅した自宅の玄関。部屋に入るのも待てず、寝っ転がって初めに浮かんだ言葉はそれだった。
 ぶらぶらと足を揺らして、重い鉛のようなハイヒールを適当に飛ばす。途端に足が羽のように軽くなった。
 まったくハイヒールというものは、この世で一番美しい拷問器具に違いない。

「……疲れた」
 
 ホログラムも何も無い、無地の天井をぼんやりと見上げて呟いた言葉も、やっぱり内側と変わらない。
 そもそも秘書が一人しか居ないのがおかしいのだ。通常業務だってまぁまぁ無理をしているのに、こうも立て続けに問題が起こるとたまったもんじゃない。
 積み上げられたタスクを崩しに崩して、今日でようやく半分は片付けた。それでも、まだ半分。
 見かねた壬生に「一旦帰りなさい」と言われた時、自分がどういう返事をしたのか帰宅した今でもよく思い出せない。
 
「……つーか、局長っていつ休んでんだろ」
 
 もはや何もする気が起きず、ただ、心の内にしまっていた呟きが無意識に口から漏れ出た。
 それでも欲求は湧き出るもので、弱々しい声で廊下の奥へ「お風呂」と投げれば、すぐにピッと短い音がする。
 これで数分間後には温かいお湯が浴槽いっぱいに張られている筈だ。
 ちょっと熱めのお湯、浴槽のフチぎりぎりまでたっぷりと満たされた湯船……。
 美波は勢いよく体を起こした。そんなの、絶対に気持ち良いに決まっている。
 死にかけが嘘のように体はテキパキ動いた。重苦しいスーツに手をかけ、あれよあれよと廊下に脱ぎ散らかしていく。ついでにストッキングも脱いでしまえば、下着姿の完成である。
 いそいそとバスルームに向い、髪を適当にほどいた時――ピロンッ。軽快な電子音が響いた。
 この音は間違いなく、いま一番聞きたくない音だった。
 初期設定のまま、単調で事務的な音。つまりは社用端末が発したものだ。
 じっとりと、廊下に放置していたカバンを睨みつける。
 無視してしまおうか、少し悩んで、結局美波はとぼとぼ歩いた道を戻った。悲しいかな、社会人としての責任に天秤が傾いたのだ。
 今度は一体どんな厄介事なのか。覚悟を決めて画面をスライドした瞬間、美波の瞳が大きく見張る。
 意外な人物からメッセージが届いていた。
 
 ――生きてる。心配するな。
 
 たった二言の文面。そっけないにも程がある文章は、メッセージというより一方的な報告に近い。
 
 ―心配かけてごめんぐらい言えないの。
 
 ―悪かったよ。
 
 ―思ってないくせに。
 
 ポチポチ、手早く返事を返せば、同じぐらいの速度で相手からも返事が来る。
 社会から不要の烙印を押れたかの男は、元からあった端末を没収され、いまは手首に嵌められた手錠―もとい、執行官専用の端末―からしか外部に連絡する手段が無い。
 そんな狡噛の連絡先を美波は社用端末に登録している。プライベート端末は普段あまり触らないので、緊急時を考慮してこちらに入れることにしたのだ。
 珍しいな。蹲った体制のまま美波は小さく笑う。いつもなら、返事もよこさないのに。今回は流石に堪えていると見た。
 
 ――俺だって反省はするさ。
 
 ――はー。白々しい。いい加減やめなよ、そのいつでも死んでいいってスタンス。

 ――そういうつもりは無いんだがな。

 ――嘘ばっか。あの事件の犯人を捕まえられるなら、代わりに死んでもいいって。そう思ってるんじゃないの。
 
 さて、どう出てくるか。嬉々として待ち構えていた美波だったが、やがて白けたようにため息をついた。

「ほーら。やっぱり図星じゃん」
 
 待てど暮せど、メッセージが表示されないトークルームに、やれやれとかぶりを振る。
 それでも、狡噛が最終的に選んだ答えが沈黙だったことに、美波は人知れず安堵していた。
 ああ見えて彼は根っからの人たらしなので、周りにいる人間は例え狡噛がどんなに悪くても、最終的には折れてしまう。
 それが積み重なった結果なのか。いつからか、狡噛は自分を犠牲にする生き方に躊躇が無くなった。
 だから美波は狡噛の良心を痛めつける行為をやめない。それで立ち止まってくれるなら万々歳だからだ。
 
 ――イジメてごめんね。生きてて良かった。無茶は程々に。チカたんも、
 
 まぁ、締め括りぐらいは優しくしてやろう。
 意地悪な笑みを隠すこともなく、ポチポチと軽快に動いていた指は、途中まで打ったところでふいに動きを止めた。
 今度は美波が頭を抱える番だった。
 
「……チカたんなぁ」
 
 あの日から、宜野座とはまともに顔を合わせていない。けっして避けている訳では無かった。それは相手も同じだろう。
 美波ですら毎日デスクにかじりついているのだ。宜野座はもっと膨大な量の仕事を抱えているに違いない。加えて、あっちは外回りもある。
 何度もメッセージは送ろうとした。大丈夫?とか、休めているのか?とか。そういう意味合いの言葉を。
 その度に、あの匂いを思い出した。
 消えかけのシダーウッド。深い森の奥でひっそりと漂う新緑の香り。それに混ざって、宜野座自身の香りが降りてくる。
 澄みきっていて、鼻を鳴らさないと分からないぐらい、彼の体臭は薄い。人工的な中に、ほんのり漂う優しい香りを見つけるのが好きだった。
 あの日まで、美波は宜野座の事ならば何でも知っていると思っていた。誇張ではなく、本当にそう思っていたのだ。
 なのに、知らなかった。
 彼の薄い唇が、ひとたび触れれば存外熱を持っていた事など。

 ――チカたんも心配してるだろうから、
 
 ――チカたんはあれでも心配、
 
 ――チカたん、
 
 書いて、消して、また書いて。
 頭をガシガシかき回す。
 
 ――イジメてごめんね。生きてて良かった。無茶は程々に。
 
 結局、それだけ送ることにした。少し待ってみたが返事はやはり来ない。きっとこの話はここで終わりだろう。
 考えても答えが出ないことは、さっさとやめてしまうのが良いのだ。
 ようやくバスルームに戻った美波は、さっさと下着を脱ぎ捨てシャワーを浴びた。それから、ゆっくりと湯船に身を落とす。
 お湯の熱さに身震いをして、それから大きく息を吐き出した。この筆舌に尽くしがたい幸福感といったら。ふんふんと鼻歌まで飛び出してしまう。
 調子の外れた抑揚は、最初こそ陽気にリズムを刻んでいた。しかし、声は段々と尻すぼみになり、やがて泡の弾ける音に変わってしまう。
 鼻のあたりまで湯船に浸かった美波の口元で、ぶくぶくと、気泡が立つ。
 
『辛いときには、俺の名前を呼べばいいのにと。ずっと思っていた』
 
 考えないなんて、無理な話だ。
 湯船から顔を上げ、天井を仰げば緩んだ頭の奥で静かな声が木霊をした。
 あの夜、帰り際に呟かれた宜野座の言葉がもう何度も頭の中で再生され続けている。
 日頃、斜めに釣り上げるばかりの眉が、あの日は柔らかく下がっていて。緩く曲線を描いた口元も、細められた双眼も、どこまでも優しかった。
 告白、だったのだろうか。
 その結論に辿り着くと、胸の奥が泣きそうに痛んだ。
 嬉しいとも、悲しいとも取れる痛みに、そっと目を瞑る。
 宜野座が美波に向ける気持ちには、もうずっと前から気付いていた。なにせ、自分も同じものを向けていたから。
 それでも、二人の距離が一定のラインを越えようとしないのは、遮るものがあまりにも多かったせいだ。
 宜野座には野心がある。監視官の任期を全うし、中央へ歩みを進めるという夢が。
 夢の実現には様々な努力が必要だった。メンタルケアの徹底は勿論、いかに執行官を上手く使い、成果を上げるか。
 そこに色恋が入り込む隙間などありはしない。

「って、思ってたんだけどなぁ」
 
 弱々しい声が浴室に反響する。
 生温い関係が心地よくて、これが続くなら、永遠にこのままでいいと、勝手に決めつけて。理由をつけることで安心していたのに。
 一度やわらかい唇に触れてしまえば、自分の考えがいかに浅はかだったのか思い知らされた。
 いっそ、はっきりと言ってくれればいいのに。
 美波は、胸の内で溢れそうになった言葉を振り払うように、勢いよく立ち上がった。
 滴る水滴を気にもとめず、脱衣所で乱雑に体を拭き、適当なシャツを一枚羽織っただけの姿でベッドルームへ直行した。
 カーテンで閉ざされた薄暗い室内は静けさに満ちていて、途端に眠気を誘う。
 欲求に抗うこともなく、ベッドに飛び込めば、辛うじて保っていた意識が夢に向けて羽を広げはじめる。
 夢の縁に立つと、思い出が走馬灯のように流れてきた。
 初めて宜野座に出会った時、小さな手が自分を安心させる為に、何度も背中をさすったこと。
 高等学校の裏庭で、本物の桜を見上げて綺麗だと呟いた宜野座の横顔が、桜よりもずっと美しかったこと。
 佐々山が亡くなった後、狡噛が施設に連行され、オフィスで二人。寄り添って朝を迎えたこと。
 美波はシーツをきつく握りしめる。そうでもしないと、目の奥から熱いものが零れてしまいそうだった。
 一歩を踏み出すのはいつだって怖い。
 でも、それ以上に宜野座を求めている自分がいる。
 わざわざ言葉にしなくとも、積み重ねた記憶を辿れば答えは明白だったのに。
 目尻に滲んだ涙が、瞬きのたびに睫毛の隙間をしっとりと濡らした。
 重くなる瞼に逆らえず、帳を下ろせば、あっという間に体は深いところへ落ちていった。



 暗闇の奥から、置いていかないでと、小さな声がする。
 燃える鉄屑の前で、為す術もなく座り込んだ少女は、今にも崩れそうな細い声で必死に助けを求めていた。
 何度も、何度も、繰り返し見た夢。
 小さな体をそっと抱きしめて、いつも自分自身を守ろうと必死だった。
 けれど、今日は違う。
 思わず伸ばしかけた手を、美波はもう一つの手でぐっと押さえた。
 悲痛に歪んだ少女の顔が、どうしてと訴える。
 目尻を引き絞り、美波は少女が炎に包まれていくのを黙って見守った。
 
 ごめんね、私は貴方を置いていく。
 あの人と生きていきたいの。
 
 全てが塵になる瞬間、目尻をそっと撫で上げる指先を感じた。
 もう触れることは叶わないその手が、どちらのものだったのか。美波には分からない。
 ただ、指先から伝わる温もりは懐かしい感触がして、
 
「良いよ」
 
 何処からともなく、優しい声が聞こえた気がした。