君の君たる所以の光


 その部屋はスチールラックがみっしりと並んだ、少々異様な雰囲気を漂わせる場所だった。おまけに、まるで外かと思うほどに寒い。
 美波は天井を見上げる。
 埋込式の空調は見たところ稼働はしていないようだったが、元々長居をするつもりは無いので興味はすぐに反れた。
 ラックに収まった大小様々な箱を眺めながら通路を歩く。
 室内は驚くほど静かだった。美波以外に人はいない。ただ底冷えのする冷気が床にひっそりと身を横たえているだけだ。
 蹴り上げた寒さに両腕をこすり、ネームプレートに挟まった手書きのタイトルに目を通していけば、目当ての場所はすぐに見つかった。
 その棚を前にとりあえず仁王立ちをしてみたものの、一番上の方は手を伸ばしても届きそうにはない。
 きょろきょろと辺りを見回す。

「脚立は、……あるわけないか」

 仕方が無いので、途中で見つかることを祈って下から順番に出すことにした。
 箱を出して、戻して、また出して。何度か同じ動作を繰り返していると、それは思いの外早く姿を表す。
 ダンボール製の箱に直接書かれた手書きの文字は、色が抜けてところどころ消えかけていた。その癖のある字を人差し指でなぞってみる。指先から感じるざらつきに、ふっと息を吐けば埃が照明に反射してキラキラと散っていく。そうすれば、幾分か文字が見えやすくなった。
 
 “ 20XX年 X月 交通事故関連 ”
 
「これだ」
 
 中には紙の束が一つだけ収まっていた。この年はもう、交通事故という単語自体が死語になりかけていた筈だ。量が少ないのも頷ける。
 自分の権限で閲覧できるサーバー上のデータは全て目を通した。残るのは、この手にある紙の資料だけ。
 データ化するまでもないと判断され、薄暗い部屋に押し込められた遺物を、美波は一枚一枚、丁寧にめくった。
 


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「まっ、わかってたけどね」
 
 最後の一枚をパチンと指先で弾き、美波は軽い調子で呟く。資料を箱に戻し、少しのあいだ意味もなく天井を見つめてみたが、自分の感情をどこに置いていいのかイマイチ分からなかった。
 スーツポケットに入れていた端末で時間を確認すると、三十分も経っていない。
 画面を見つめながら、美波の目線は別の場所へ向いていた。
 ずっと遠くから聞こえる、金属が爆ぜる音。視界の端でちらつく火の粉に緩く首を振る。これはどうせまぼろしなのだから、気にすることは無い。それよりもいい加減凍えそうだ。
  立ち上がって服についた埃を見える範囲で落とす。丁度その時、ポケットの中でプライベート端末が震えた。
 
“ 容態が安定した。じきに目を覚ますだろう ”
 
 画面にはシンプルなメッセージが一行。飾り気のない文章を何度も噛みしめるように往復する。
 少しして、美波の口からは細い息が溢れる。今回は本当に駄目かと思っていたから、つい安堵のため息が出てしまった。
 
“ 了解。ありがとう ”
 
 手早く返信を打ち込み、美波は出口に向かって歩き出す。
 部屋を出るまで、一度も後ろは振り返らなかった。
 

 
 
 
 
 仮眠室に向かう前に一係に足を向けてみると、予想通りオフィスには今にも死にそうな顔をした男が居た。
 液晶ディスプレイを睨みながら無心でキーボードを弾く姿に、口元が緩い三日月を描く。傍らに置かれたコーヒーはきっと冷めきっていることだろう。
 こっそりと覗いた室内に宜野座以外の人間がいないことを確認して、美波はできるだけ静かに足を踏み入れる。
 けれども宜野座はすぐに顔を上げた。どうやら、神経がかなり張り詰めているらしい。
 無理もないかと心のなかで呟いて、美波は軽く片手を上げてみせた。
       
「お疲れ様」
「……まだ居たのか」
「それはこっちの台詞。チカたんこそ、まーた残業してるの」
「どこかの馬鹿のせいで報告書が終わらないだけだ」

 美波がデスクに近付いた頃には、もう宜野座の視線はディスプレイに戻っていた。それが何となく面白くなくて、後ろ手に隠していた買ったばかりのコーヒー缶をコツンと置いてみる。 
 疲れの滲んだ双眼が再びゆっくりと動き出し、小さめの缶と美波を交互に見た。やがて小さく「すまない」と呟かれた声に美波は笑顔で応える。本当はありがとうの方が聞きたかったけれど、我儘は胸に仕舞っておくことにした。
 
「慎ちゃんが人間狩りにあったって本当?」
「秘匿情報だぞ」
「二係で噂になってたけど、本当なんだ」
「あいつらの口の軽さは縢にも負けないな」
「縢くんはあれでも話題は選んで喋るじゃない。チカたんが一番知ってるでしょ」
「ふん、どうだかな」
「あ、照れた」
「どうしてそうなる」
 
 デスクを越えて宜野座の隣に立つと、合わせてディスプレイの光が消えた。相変わらず、抜け目のない男だ。
 もしかしたら覗き見ができるかも、と期待していた心が萎んでいく。宜野座のこういう線引は、あまり好きではない。口には決して出さないけれど。
 
「……常守さんは大丈夫?」
 
 その代わりに出したのは、彼の後輩についての話題だった。今回いちばん深手を追ったのは狡噛だったが、精神的な意味合いで言うのならば、間違いなく一番の被害者はあの女の子であろう。
 宜野座は美波を見上げて、少しばかり逡巡をしているようだった。
 そして、静けさの満ちたオフィスに、とても小さな呟きが響いた。
 
「……彼女は、強い」
「そっか」
 
 その一言で、美波は心の底から安心した。常守とは入局式の際に一度だけ顔を合わせたことがある。
 利発そうで、そして優しそうな女の子だった。正反対な二人が上手くやれるだろうかと勝手に心配をしていたが、どうやらそれは杞憂だったらしい。
 ならば、ここに居る理由はもうないだろう。

「じゃあ、おやすみ。あんまり長居しちゃ駄目だよ。気付いてるか分からないけど、一応あと数日で今年も終わるからね」
 
 もともと今日は社内に泊まると伝えていたから、宜野座を待つ必要もない。
 温まった壁から背を剥がし、美波は軽い調子で声をかける。宜野座とのお喋りは楽しいが、先程から眠気が疲れた頭を猛襲していた。そろそろ休まなければ明日に響くだろう。
 予定を反芻しながら離した足が、オフィスを叩く。
 ――宜野座が動いたのは、その時だった。
 
「待て」
「びっ、くりしたぁ。どうしたの」
 
 突然後ろに引かれた体に、美波は驚いて目を瞬く。振り返れば、中途半端に椅子から立ち上がった宜野座が手首を掴んでいた。
 
「大丈夫なのか」
「えっ、何が」
「地下の資料室に行ったんだろう」
 
 ひゅっ、美波の喉が嫌な音を立てる。
 
「なんで、知ってるの」
「……あそこは紙の資料だから、閲覧記録の代わりに入室記録がつく」
 
 美波は棒立ちのまま、宜野座の顔を凝視する。向き合った深碧の双眼は微かに揺れているような気がした。
 
「だからって、わざわざ見ないでしょ」
「本来は刑事課しか入れない場所だ。特例で入室した者がいた場合は、監視官に通知が来る」
「……ふぅん。局長ったら、わざと黙ってたのね。あの人私を困らせるのが好きだから」
「誤魔化すな。美波、俺はお前が何を探しに行ったのか検討がついている。その上で、大丈夫かと聞いてるんだ」
 
 随分と、ずるい言い方だ。中途半端に上げた広角の裏で、美波は別の意味で笑った。あまりにも理論的で淡々としている癖に、裏に込められた気持ちだけは痛いほど伝わってくる。
 これでは、逃げ道がまるで見つからない。
 
「大丈夫だよ。お目当てのものは見つからなかったけど、私は大丈夫」
 
 今度はちゃんとした笑顔で、できうる限り穏やかに微笑んだつもりだった。それでも宜野座の瞳から揺らぎは消えなかった。
 同じことを二回繰り返したのが不味かったのだろうか、いつの間にか立ち上がった宜野座は、神妙な面持ちで美波を見下ろしている。
 
「どうしてチカたんが傷付いた顔するの」
「……お前が、そういう姿を見せないからだ」
「ねぇ、本当に大丈夫だって。ただの興味本位だったんだから」
「それでも、ずっと探していたんだろう」
あの部屋には・・・・・・無いって事がわかったから、それでいいの。私は満足してる」
「それは本心か」
 
 どんなに噛み砕いて言葉を伝えても、宜野座は一歩も身を引かなかった。それどころか、握られた手首に一層力が入る。まるで美波を逃すまいとしているようだった。
 無意識に喉がこくりと音を立てる。低く伝わる空調の音を耳に、空気が乾燥しているせいだろうかと、場違いな感想を思い浮かべた。
 一歩、足を後ろにずらせば、宜野座も同じ分だけ距離を詰めてくる。もうあと数十センチでお互いの体が触れてしまいそうだった。

「美波」
 
 この響きは良くないと直感が告げた。きっともう一度名前を呼ばれてしまえば、自分は負けてしまうだろう。
 前屈みになった宜野座が、覗き込むように美波を見つめる。その動きに合わせて降りてきたのは、仄かに甘い香りだった。
 消えかけのシダーウッドの匂いが、美波の瞳を上に持ち上げる。彼にこの香水を贈ったのは、紛れもない自分だった。
 教えた通りにつけているのなら、匂いは首元から香っている筈だ。生真面目な男だから、きっとそうに違いない。
 スーツの襟元に向けた視線は、そのまま吸い寄せられるように、さらに上を向く。
 水面に反射した月が、風に吹かれた時のように。柔らかな輪郭を揺らした双眼が、そこにはある。
 美波、と。形のいい唇が自分の名前をもう一度優しく呼んだ。
 
「知りたかったの。両親がどうして私だけを残したのか」
 
 ――気付けば、そんなことを口走っていた。
 
「お母さんは車の中でずっと私を抱きしめてた」
 
「お父さんとは何か言い争ってたみたいだけど、耳を塞がれてたから内容はわからない」
 
「お父さんがね、最後に言ったの。後部座席にいた私とお母さんに向かって、愛してるって」
 
「お母さんはその言葉を聞いて、私もって言った」
 
「その直後に、私だけを車の外に放り出した」
 
 一度言葉にしてしまえば、腹の底に溜まっていたものが堰を切ったように溢れ出していた。
 記憶の奥底で消えていたはずの炎が、息を吹きかえして美波を包み込もうとする。でも、それは一瞬だった。
 吹き上がる熱風は手をこまねく暇もなく徐々に勢いを無くし、やがて消えていく。焚べるほどの燃料がもう自分には残っていないのだ。
 
「愛しているが、誰に・・向けられた言葉だったのか。私だけ生かされたのはどっちの意味・・・・・・だったのか。ただ、知りたかった。それだけだよ」
 
 吐き捨てるというには、あまりにも穏やかすぎる言い方だと、自分でも思う。それでも、宜野座にはちゃんと正しく理解して欲しかった。
 確かに、これは美波自身を縛り続ける鎖のようなものだけれど、決して呪いではないのだと。
 他でもない、貴方のおかげで。そろそろ断ち切れそうなのだと。
 どうしても、理解してほしかった。
 
「今日、あそこに行ったのは辛いからじゃないよ」
 
 だからね、大丈夫。そう微笑めば、それまで黙って独白を聞いていた男は、きゅっと口を結んで、やがて小さく「そうか」と呟いた。
 ようやく聞けた終わりの言葉に、美波は胸を撫で下ろす。
 今は宜野座にとって大変な時期だから自分のことで気を散らせてしまうのは嫌だった。
 そうして、張り詰めた空気が少しずつ緩みを取り戻した頃。後ろの方で大きく何かのスイッチが切れる音がする。
 首だけで振り返れば、廊下が真っ暗になっていた。省エネ対策の自動消灯だ。
 美波は慌てて壁の時計に目を向けた。
 
「うわっ、チカたん日付が――」
 
 変わっている。と言いかけた頃にはもう、――唇が塞がれていた。
 
 はっきりと覚えているのは、腰に回された手が、しっかりと自分を引き寄せていたこと。咄嗟についた左手が、マグカップを倒して指先を冷たくしたこと。そして、ぼやけた視界の先で、いつの間にか長い睫毛がそっと帳をおろしていたこと。
 ――離れた宜野座の唇から、ため息めいた吐息が聞こえたのは。もしかしたら気の所為だったかもしれない。
 
「……なんで、キス、したの」
 
 スーツの袖口が段々と冷たくなっていくのは分かっていた。それでも、美波は動けなかった。
 ぶれていたピントが徐々に焦点を絞って、ぼやけた視界をクリアにしていく。はっきりとした瞳の向こうでは、目を見開いた宜野座が佇んでいた。
 お互いが、信じられないという目で、お互いを見つめている。
 壁の時計が規則正しく秒針を刻む音だけが虚しく二人のあいだに響いた。居心地の悪い沈黙が辺りを包む。
 さっきまではちっとも耳に入らなかったのに、やたらと耳につくその音は、跳ね上がった心臓をさらに追い立てる。

「……お前が」
 
 先に沈黙を破ったのは宜野座の方だった。視線を右に左へと動かして、言いかけた口のまま、コーヒーで染まった美波の袖口に目を向ける。
 生真面目に口を結び、宜野座はおもむろにその手をハンカチで包んだ。
 何度も、何度も。
 丁寧にハンカチを当てて、クリーニングだな、と。最後には諦めた声がする。
 
「美波」
「えっ、あっ。ハイ」
「すまなかった。クリーニング代は請求してくれ」
「あ、うん」
 
 テーブルに残ったコーヒーをきれいに拭き取り、宜野座はハンカチをしまった。
 それでは宜野座のスーツも汚れてしまうのでは、と他人事のような感想が浮かぶ。
 
「お前が」
 
 意味もなく宜野座のポケットを眺めていた美波は、ふっと顔を上げた。再び呟かれたその言葉は、先程よりは軽い心地で耳に届いた。
 向き合った宜野座は一瞬、押し黙るような仕草を見せたが、すぐにかぶりを振る。
 そうして、薄い唇から形作られた声が確かな意志を持って美波へ向けられる。
 
「辛いときには、俺の名前を呼べばいいのにと。ずっと思っていた」
「えっ」
「……そういう事だ」
 
 最後は、ほんの少しだけ自嘲気味に。それでも言い切ったあとは清々しく穏やかな顔つきをしていた。
 宜野座はそのまま手早く身支度を整え、オフィスを後にしてしまう。遠ざかる背中を呆然と見つめながら、美波はただ立ち尽くしていた。
 
 たっぷりと、十秒は経っただろうか。
 おぼつかない足取りでぼすんと宜野座の椅子に座り込む。その瞬間バックレストのいななきに合わせて、ふわりとシダーウッドが香った。
 座ったばかりだというのに、鼻孔を擽る残り香に慌てて美波は立ち上がる。
 ぱち、ぱち、と頭の奥で音が鳴っていた。誰の者かも分からない手が、勝手にパズルを組み立てピースをはめていく。一つ、また一つと繰り返されるうちに、頭は驚くほど冴え渡る。
 思い返せば予兆は沢山あったのだ。ただ、言葉にする必要が無かっただけで。
 それまでピースをはめていた手が、僅かに動きを鈍くする。美波は真剣に考えた。
 そして、最後の一枚を勢いよく押し込んだ瞬間、
 
「……えぇ?」
 
 信じられないほど情けない声が、誰も居ないオフィスに木霊をした。