花になれたのなら


 征陸智己には大事な一人息子がいる。それはもう目に入れても痛くはない、人生で一番の宝物だ。
 息子とは随分と前から不仲になってしまった。というよりは、自分のせいで息子と距離が離れてしまったが、どんなに物理的距離が離れようとも息子の存在が征陸にとって大きな礎になっていることに変わりはない。
 そんな息子には馴染みの深い友人が二人いる。一人は今回の捜査から外されてしまったので最近の一係ではその姿を見ることはあまりない。
 ――が、どうやら裏で新米監視官とコソコソやっているらしい――
 もう一人は、今まさに宜野座と向かい合ってあーだこーだと、終わりの見えない議論をしている女の子だ。
 女の子と呼ぶにはもう随分と大人になってしまったが、彼女を小さい頃から知っている征陸からすると、やっぱり女の子という言葉がしっくりとくる。
 
「で、どー思うよ。とっつぁん」
「うーん……どう、って言われてもなぁ」
 
 さて本題だ。お互いに、椅子ごと体を近付けた縢と征陸は、部屋の奥で繰り広げられる会話を二人でじっと見守っていた。
 
「おめでとう。今月も始末書ワースト一位だよ」
「何一つめでたくない」
「と、いうわけで。忙しいチカたんに代わって私が適当に反省してる風に書き直しておきました。再提出の承認印ちょーだい」
「……お前、勝手に直したのか」
「何を隠そう学生時代は反省文の女王と呼ばれていたので。いやー、久々に筆が乗ってしまったよね」
「そういう事じゃない。潜在犯の始末書を局長付秘書が直すなんてそんなことあって良いはずが、っておい! 勝手に指を掴むな!」
「いーから早く指紋を寄越して。こっちだって仕事が溜まってるの」
「だからって、目も通してない始末書に指はやれん! このっ、どこから出るんだこの馬鹿力は!」
 
 うーん。デジャヴ。縢がぼそりと呟いて、口の中にある飴玉をコロコロと転がす。一方の征陸はぎゃあぎゃあとした喧騒を眺めながら義手の指先で顎を擦った。
 はてさて。これはいったいどうしたものか。
 執行官の男達は、神妙な面持ちで顔を見合わせる。それから、ゆっくりと。男女に視線を戻した。
 
「……なぁんかさ。違うよね」
「そうだな、うまく言えないが」
 
 実のところ、征陸は密かに息子の恋路を応援している。昔からよく夢に見ていたのだ。愛する息子が、自分と同じように人生の伴侶を見つけ、誰かの隣で微笑む姿を。
 その相手が女の子――美波と知ったときは、またなんて難しい所を、と思ったものだが。実際長い目で見守っていると、どうも二人は出会うべくして出会ったんだなと妙に納得できる関係性を築いていた。
 美波の方も宜野座をそういう意味で好いているのだろうと悟った時、さて結婚式はいつかね。と、柄にもなくソワソワしたのは一体何年前の話だったか。
 期待とは裏腹に、思った以上に二人の関係は変わることはなく。
 ちっともそういった雰囲気にならない男女は、そのくせお互いが大事ですオーラだけはバシバシ出すものだから縢と二人で胸焼けがすると愚痴る日々にいつの間にかシフトしていった。
 一度、狡噛にそれとなく訪ねて見たこともあった。けれども「死ぬまでに動いたらラッキーぐらいに考えるべきだな」と投げやりに返されてあの日は一日肩を落とした。

「と、まぁ。最近ではあいつの側に居てくれるだけでいいかと。そう思ってたんだがなぁ」
「何がまぁなのさ。勝手に頭の中で回想すんなよとっつぁん」
「すまんすまん。歳を取るとどうも口に出すことを忘れちまう」
「それはいいからさ。どーすんのさ、あの二人! ついに何かあったっぽいよ?」
「何かあったら困るのか」
「うっ、な、困るわけねーじゃん!」
 
 征陸は何の気なしに聞いたつもりだった。なのに急に縢が慌てふためくものだから少しばかり目をみはる。
 ぽたり、少年の口から落ちた飴玉が細身のスラックスに落ちて縢から悲鳴が飛んだ。
 あぁ、そうか。寂しいのか。薄い切り傷が残る口元をふっと緩ませながら、征陸は胸の内で納得をする。
 確かに、自分も今日。二人を見て切なくなった。
 美波が突然一係に入ってくるのはいつものことで、それに対して迷惑そうにオフィスの奥からジト目を投げる宜野座もいつも通りだったのに。
 二人の視線がつながった瞬間。目に見えない柔らかい色が広がった気がした。
 きっとそれは触れればすぐに散ってしまいそうな脆さだったけれど、朝の光が葉についた水滴を照らすような、一瞬の眩さが二人の間には確かにあった。
 思わず縢と顔を見合わせてしまったのは、そういう訳だ。
 嬉しい。直感で出てきた単語はそれで。次に胸に押し寄せたのは、どうしようもない寂しさだった。
 見守ることに慣れすぎたのか。はたまたやはり自分も人間の親で、息子の成長に気圧されたのか。
 縢に関して言えば、この子は昔からのけ者扱いが嫌いだから、兄と姉を取られた気分になってしまったのかもしれない。
 美波と宜野座が向き合って、少しの間二人は無言だった。征陸からだと美波の背しか見えないので、何を喋ったのかは分からないが、宜野座が小さく「あぁ」と返した表情を見た瞬間。
 もう大丈夫なんだな、と征陸の胸の中ではストンと落ちるものを感じた。
 そこからは、まぁ。冒頭の通り、ここ数年飽きるほど見せられてきたやりとりを始めたわけだが。
 かくして征陸と縢は、二人でしんみりとした気持ちに浸ることになったのだ。
 
「ま、ギノさんの事だからきっとキスもしてねーんだろーけど」
「おいおい。伸元だっていい大人なんだ。流石にそりゃあ」
「だってとっつぁん。そもそもあの二人付き合ってないんだぜ?」
「ん? あぁ、そういえばそうだったな」
「その気持ち分かる。なんであの二人ってあそこまでいって付き合ってないんだろーね」
 
 それは、そうだろう。苦い笑いを溢しながら征陸は二人を見やった。
 縢が知らないあの子達の過去を征陸はよく知っている。宜野座に関して言えば、大半の責任は自分にあるので、今更何を言えるわけもない。
 美波は。と、そこまで考えて。宜野座の手首を掴みながら楽しげに笑う彼女の横顔に目尻の皺を寄せた。
 ――本当に、よく笑うようになった。
 潜在犯に堕ちる前の記憶、その中に刻まれた美波はめったに笑わない幼い女の子だった。
 シビュラに導かれ、それが誰かを救う手立てになるのならばと、妻と同意したセラピーは結果として、宜野座にとっても美波にとっても良い縁を生んだと今でも強く思う。
 ただ、結んだものが縁だったのか、強固な鎖だったのか。征陸は分からないでいる。
 
「ままならねぇもんだなぁ。平等な社会なんて、よく言ったもんだよ」
「とっつぁん。まーた頭ン中で喋ってんだろ」
「悪い悪い」
 
 ひらひらと、縢の薄い手のひらが顔の前を行き来する。そんなことをしなくても、見えているさと笑おうとして。
 いつの間にか縢の横に人影が立っている事にそこでようやく気付いた。
 
「なぁーにお喋りしてるのかな。始末書ツートップの片割れ縢くん」
「いでっ! いででで! ほっへたひっはんないでひょ、美波ちゃあん!」
「ははは、よく伸びる」
 
 いつの間にか宜野座との戦いは決着を見せたらしい。
 ほーれほーれ、両手をせわしなく動かして縢の頬を好き勝手する美波と、足をバタバタさせながら涙目になる縢。今度はこっちで戦いが勃発するのか、と征陸は呆れた。
 ちらり、何気なく横目で息子を見れば、片手を額に当てて項垂れる哀れな男がいた。あの様子からすると、今日もまた指紋を強奪されたのか。
 
「お願いだから櫻霜学園の備品は壊さないでよ。あそこ、ホログラムに紛れてしれっと本物のアンティーク置いてるから」
「なんだ美波ちゃん。詳しいな」
「局長に釘を刺されたんです。チカたんパパ、ドーベルマンとチワワの見張りよろしくお願いします」
「誰がチワワだ!」
 
 ようやく頬から手を解放された縢がキャンキャンと吠える。まさしくチワワみてぇだなぁ。とは口が裂けても言えなかったが、ふと動きを止めた縢はにんまりと口元を釣り上げて見せた。
 この顔は、悪いことを思いついた顔だ。愛嬌のある瞳をこれでもかとニヤニヤさせて、縢は征陸に顔を向ける。――いや、違う。この視線は征陸にではない、もっと後方、つまりは。

「なぁなぁ美波ちゃん。パパ呼びは辞めるんじゃなかったの?」
「ん?」
 
 征陸の後ろのほうで、大きな音がした。おそらく、思い切り立ち上がったせいで跳ね飛ばされた椅子の音と、デスクに叩きつけられた手のひらから出たものと推測する。
 いまの息子の顔は、さぞ可愛いんだろうなぁと親バカ精神が顔を出しかけたが。寸前のところで我慢をした。
 ほらほら、縢に促されるまま、征陸の前に押し出された美波は、ややあって「あぁ!」と声を上げた。
 そして、眩しいくらいの笑顔を乗せて春色がのった唇を開いていく。「おいっ、ま、待て!」静止の声は聞かなかったことにしよう。
 
「お願いします。おとうさん」 
 
 あぁ、いいさいいさ。任せてくれよ。
 鼻の下をかきながら、征陸は努めて軽く言葉を返した。
 そうでもしないと、滲んできた涙がうっかり溢れてしまいそうだったからだ。