空が堕ちる日に


 どうすれば良かったんだろう。窓の外で無数に過ぎ去る光の線を眺めながら、美波はぼんやりとその言葉ばかりを反芻していた。
 いったい何を? 佐々山のことだろうか。いや違う、もっと根本的で触れたくない問題のような気がした。
 この悶々とした気持ち悪い感覚はいつからだろうと考えて、ふと隣でハンドルを握る宜野座に目を向けた。
 深夜帯に差し掛かった道路は都内とはいえ、交通量は少ない。それでもぽつぽつと対向車線から向かってきた車のライトで時折宜野座の横顔が浮かび上がって見えた。
 自動操縦より自ら運転することを好む彼は、落ち着いた表情で前を見据えている。
 すっきりと通った鼻筋も、澄んだ瞳に被さる睫毛も、彼を形作るパーツの何もかもが、やはり文句なしに美しい。
 長たらしい前髪でいくら隠そうとも、彼の美貌が損なわれることは無いのだ。
 そのまま時々訪れるボーナスチャンスに浸っていると、張り詰めていた頭の奥が、ゆっくりと解けていく心地がした。
 ついつい細い息を吐き出してシートに体を沈ませると、隣から「大丈夫か?」とひどく心配そうな声がする。美波は軽く笑い首を振ってみせた。
 
「大丈夫。ありがとうね、送ってくれて」
「……こんな時間になってしまって悪かった」
「いーの。私も仕事終わるの遅かったし。お互い様でしょ」
 
 宜野座が申し訳なさそうに謝るのも無理はない。美波の仕事が終わったのは二十一時を過ぎた頃で、それから二時間近く暇を潰していたのだ。
 彼は決して先に帰れとは言わなかった。その代わりにできる限り早く仕事を切り上げてくれたし、こうして家まで車を運転してくれている。
 自分を縛るあれこれと、そのせいで宜野座にかかる負担を天秤にかけようとして、やめた。
 今はもう、あまり考えることをしたく無かった。
 
「そっちの手筈はどうだ」
「とりあえず思いつくところに報道規制はかけたけど、まぁ時間の問題だろうね」
「どこにでも野次馬はいるからな」
「あとは色んな偉い人から局長あてに電話やらメールやらが来てたけど、そっちはノータッチだから分かんない」
「そうか」
「慎ちゃんのこと捜査から外したんだってね」
「当たり前だ。アイツは私情を挟みすぎる」
「それってチカたんもなんじゃないの」
「俺は事件に私情は持ち込まない」
 
 狡噛を捜査から外したのは私情からだろうに。
 あまりにも堂々と言うものだから、美波は思わず吹き出してしまった。その反応に宜野座は片眉を上げたが、ちょうど右折のタイミングだったので運良く言及は免れる。
 日頃彼が小姑のようにチクチクと狡噛をいじめるのも、今回のように捜査から外してしまうのも。美波には不器用すぎる愛情の裏返しとしか思えないのだが、当の本人は自分の真意にまるで気づいていないようだ。
 意地を張って大事だと認めたくないのかもしれないが、根が実直な人間にそれができるわけがない。
 悪人がどこまで行っても悪人だと言うならば、善人はどこまでいってもやはり善人なのだ。
 でも、気付かないままで良いと思った。そういうところが好ましいとも。
 
「慎ちゃんが黙って言うこと聞いてるとは思えないけど。自分が飼い主だって言うなら、責任を持って見張っとけばいいんじゃない」
「わかっているとは思うが、」
「何も教えるなでしょ。心配しなくても事件の報告書は読んでないよ。だから聞かれても答えられない」

 仕事の話ばかりして、宜野座は疲れないのだろうかと考えたが、思い返せばもうずっと自分たちの間では仕事の話が中心だった。
 別に寂しさは感じない。美波にとって重要なのは宜野座の側にいることだし、宜野座の口から語られることならば、何だって構わない。
 
「私ってそんなに信用ないかな」
「そういう事じゃない。俺が言いたいのは」
「はいはい。小言は結構でーす」
「……もういい」
「え、ごめん。拗ねないでよ」
 
 事件が起こる度に宜野座は美波に念押しをするが、わざわざ言われなくともこの職に就いてから美波が事件の詳細を調べたことは一度もない。なのに、どうして同じことを言い含めるのだろう。美波が一線を引いていることをわざわざ確認して、安堵するのは何故なのか。
 シートに身を預けながら、やることも無いので目に入った広告を流し見ていると、一般的に高級品に位置付けられる時計店の広告が目に付いた。シンプルな構成で造られたホログラムは高級品なだけあって、商品とブランドロゴしか書かれていない。この会社には見覚えがある。
 
「チカたん見て、あれ」
「ちょっと待て。いま信号で停まる」
「ほらほら。はやくみてよ」
「……あぁ。懐かしいな」
 
 ややあって、噛みしめるように出された声。
 間違いない。あれは公安局に入社する前に三人でお揃いの時計を買った会社だ。

「ねー。奮発して買ったのに慎ちゃんとチカたんすぐ駄目にしたよね」
「あの頃は我武者羅だったんだ」
「二人とも私の時計を見るたびにバツの悪そうな顔するから面白かった。ホログラムだと思って飛び込んだ噴水が本物の水だったんだっけ」
「そういうお前だって一年もせずに壊しただろう」
「いやいやあれは寿命だから」
「腕相撲で負けたからだろ。狡噛に」
「外せばよかったなって今でも思うわ」
 
 とりとめのない話をしていれば、信号が青に変わる。
 車が滑らかな速度で再び動き出すと、会話はそこで途切れた。
 あーあ。久しぶりに仕事以外の話ができたのになぁ、残念。
 口の中でちぇと呟いて、勿体無い気持ちに浸っていた時。
 
「……ふっ」
 
 隣から堪えきれない笑い声が聞こえて、美波はゆっくりと目を見開いた。
 信じられない気持ちで、小さな吐息が聞こえた方に顔を向ける。

「え、もしかしてチカたん笑ったの」
「……笑ってない。…ふっ、ふふ」
「いやいやいや。めちゃめちゃ笑ってるじゃん。なに、腕時計が壊れたのそんなに面白かった? 」
 
 本物に、信じられなかった。宜野座が、彼が、目尻にくしゃりと皺を寄せて。肩を震わせて笑っている。あどけない表情で、耐えきれないという風に。
 
「ふっ、いや、あのときのお前たちの顔と言ったら」

 まるでいつの日か、三人で肩を並べて歩いていたあの頃のように。
 堪らず美波は胸のあたりを服ごと握った。本当は、心臓ごと掴んでしまいたかった。だって、余りにもうるさく跳ねるものだから、どうしていいか分からないのだ。
 
――『うわ、やばい。時計壊れた』
 
――『だから外せって言っただろ』
 
――『机に叩きつけるぐらい本気の腕相撲するとは思わないじゃん』
 
――『馬鹿なのかお前らは』
 
 ぽつぽつと降ってくる言葉はどれも優しくて、ただ暖かい。あぁ、懐かしいな。陽だまりを溶かしたように、穏やかな記憶の筈なのに。どうしてか無性に泣きたくなる。
 そうだ、昔は沢山笑っていたんだっけ。どうして忘れていられたんだろう。

「おい、美波?」
 
 肩を揺すられた感覚に美波は瞳を数回瞬く。
 ぶれた視界がピントを徐々に絞って、やがて訝しげな表情を浮かべた宜野座と視線がかち合った。
 肩に置かれた宜野座の手がやけに暖かい。無意識にその手を掴むと、自分よりも一回りは大きい手のひらが遠慮がちに美波の指先を握ってみせた。
 
「家についたが、大丈夫か? 具合でも悪いか」
「え、あ、うん。大丈夫」
 
 いつの間にか車は動きを止めていて、宜野座が言うように外の景色は見慣れたマンションのエントランスに変わっていた。
 まるで白日夢を見ていたようだ。もしかしたらさっきまで笑っていた宜野座は、自分が造り出した幻想だったのかもしれない。
 夢見心地のまま、車のドアに手をかけて扉を開く。隙間から冷たい風が吹き込んで髪を舞い上げた。
 鼻をかすめる風は、夜特有の香りを含んでいて哀愁を誘う。静けさがまざりあったこの匂いは嫌いではないが、どこまでも静まり返った夜の道は昔から苦手だ。
 
「ほら、手を出せ」
 
 いつの間にか宜野座が車を降りて美波の前に立っていた。
 未だ助手席に座ったままの美波を覗き込むように、腰を折った彼が腕を差し出している。
 もう、宜野座は笑ってはいない。けれども、纏う雰囲気はどこまでも穏やかで、凪いだ海のようだった。
 宜野座を前にして自然と目を細めてしまうのは、過去を思い出してしまったせいだろう。
 
「ねぇ、慎ちゃんが見ているのは悪い夢だって思う?」
 
 そっと、宜野座の手のひらに自分の手を乗せる。指先から伝わる温度が心地いい。
 重なった二つの手を眺めて顔を上げれば、想像通り眉根を寄せた男とまっすぐ睨み合うことになった。
 
「なぜ、いまそれを聞くんだ」
「だって、チカたんはずっと思ってるでしょ。慎ちゃんが早く夢から醒めればいいのにって」
 
 今日の自分はおかしい。立場は理解している筈だった。なのに、いま彼に問いかけた言葉は。

「俺の考えは変わらない。アイツが見ているのはくだらないまやかしだ。かといって今更目を覚ませとも思わない。愚者は最後まで愚者であるべきだからな」
 
 シートから重い腰を浮かせて、立ち上がる。自然と手は繋がれたまま、エントランスに足を向けた宜野座は淡々と言葉を紡いだ。
 拒絶とも似つかない抑揚は、叫び声を無理やり型に押し込めたみたいに、触れれば傷付いてしまいそうな痛々しさを含んでいた。
 やっぱり、言わなきゃよかった。地面を見つめながらひっそりと肩を落とす。

「ただ、……お前が、悪い夢を見なくなればいいとは、思う」
 
 まるで、雨の降りはじめのようにたどたどしい。頭の上に降ってきた声は、ひどく遠慮がちだった。
 耳馴染みの良い声音がさっきまでが嘘のように、ゆっくりと鼓膜を越えて体に染み込んでいく。もたげていた頭を自然に上に向かせるには充分すぎる言葉だった。
 美波は堪らず宜野座の腕を引っ張った。かくんと後ろに体を反らした宜野座が、立ち止まり、ゆっくりと振り返る。

「急にひっぱるな。どうしてお前はいつもそう唐突なんだ」
「ねぇ、なんでそんな申し訳無さそうな顔するの」
「もとからこの顔だ」 
 
 この男はいつもそうだ。優しくあることが罪のように、美波を気にかけては勝手に傷付いた顔をする。
 ずるい、直感でそう思った。貴方がそんな顔をするから、私はいつだって明るくいなければと思うのに。

「さっさと家に入れ。俺が寒い」
「ねぇねぇチカたん」
「なんだ」
「ありがとうね」
「……あぁ」
 
 目尻をほんの少し緩ませて、眩しそうに天鵞絨の色彩を細めた彼が何を思っているかなんて、十分に伝わってくる。昔から、口で語るよりも目で語る方が雄弁な男だ。
 節ばった細い指を両手で握りしめて、美波は宜野座に顔を寄せる。お互いの鼻が触れそうな距離に、宜野座が微かに息を詰めた。
 
「私達、確かに色んなものを失ったけど。だからって全部が無意味な訳じゃないよ」
 
 冷ややかな風が、僅かな隙間をぬって通り過ぎる。舞い上がった髪の先で、宝石にも負けない深碧が徐々に丸く見開かれていった。今日ばかりは、レンズの隔たりがもどかしい。
 
 “どうすれば良かったんだろう”
 
 自分に問いかける風を装って、本当はちゃんと分かっていた。
 どうすれば、どんな方法を取れば、いったい何を言えば……――彼が、安心して笑える世界になるのか。
 単純で、ひどく自分本位な理由だ。それでも、初めて宜野座が自分に笑いかけてくれたあの日のことが今でも忘れられない。
 無機質でいっそ潔癖すぎるぐらい真っ白な児童室の中で、宜野座は一際輝いて見えた。それは恐らく幻に違いなかったが、あのときの美波は子供ながらに生まれて初めて神様の存在を信じたのだ。
 幼い宜野座が美波の手を握って、はじめましてと拙い挨拶をしてくれたその瞬間。神様がヴェールを広げたように世界は眩く輝き出した。 
 ぱちぱちと瞳を瞬いて惚ける美波に幼い少年は少しばかり目を見張って、やがて吹き出すように笑ったのだった。
 どうしたの、と聞かれたような気がする。自分は何て返したのだっけ。もうそこまでは思い出せないけれど、胸に溢れる安堵感にうっかり泣いてしまったのはしっかりと記憶の中に刻まれていた。
 
「ねぇ、チカたん。生きてれば辛いことは山程あるけど、最後に笑っていられたら。それまでの人生、全部良いことにならないかな」
 
 確かに辛かった。辛いなんて陳腐な一言では表せないほど、宜野座も狡噛も、そして美波も。硝子の破片が散らばった道を素足で踏みしめてきた日々だった。
 それでも、中々どうして。美波には悪くない人生だと思えるのだ。

「チカたんの側にはいつだって私がいる。慎ちゃんだって、あんなだけどいつもチカたんを大事に思ってる。私達はずっと変わらない。それでいいじゃない」
 
 静まり返った夜道に美波の声はよく通った。淀みなく言い切った言葉は、真っ直ぐな芯を残したまま風にのって散っていく。
 宜野座が、微かに身動ぎをして何かを言おうと口を開いた。しかし、小さく空いた唇の隙間からは何も聞こえてこない。
 ――喋り過ぎてしまっただろうか。心配になった美波は、宜野座の顔を下から覗き込んで、数秒もせずに口元を緩めた。
 
「ふっ、泣きそうな顔してる。でも」
 
 嬉しそうだね。と続くはずだった言葉は口から出ることは叶わなかった。
 腰に回された腕に引かれ、音になる前の吐息が宜野座の胸元に吸い込まれる。
 視界は黒一色に埋め尽くされ、頬にはスーツの滑らかな感触が。鼻からはラストノートの羽ばたきが鼻孔を通して肺に滑り落ちていく。
 深く吸い込んでも新緑のように瑞々しさを失わない香りは、間違いなく宜野座が愛用している香水の匂いだ。
 腰に回った二本の腕が、ぎゅうぎゅうと美波の体を締め付ける。
 長身の中にすっぽりと囲われた美波は、自分のパンプスが地面から離れかけているのに気付いて、ようやく宜野座に抱きしめられている事を理解した。

「……お前は、どうしてそう」
 
 耳元からくぐもった声がした。耳を澄まさなければ聞き取れないぐらいの、弱々しくてあまりにも小さい声だった。
 もっと声をよく聞きたい、そう思って身動ぎをすれば何を勘違いしたのか、腰に回った腕に一層力が込められる。
 仕方がないので、目線だけで右を向いた。視界の端では宜野座の頭が美波の肩口に埋まっていた。つるりとした髪の毛が首筋に当たってむず痒い。
 
「どうしたの?」
「……うるさい」
「えっ、酷っ」
 
 夜道とはいえ、人の目があるかもしれないのに。宜野座は構わず美波を抱きしめたままだった。二人分の体温が厚手の布越しに合わさってぽかぽかと暖かい。
 何だろう、この感覚は。二本の腕に閉じ込められるのはぬるま湯にずっと浸かっているような、離れがたい安心感があった。
 
「……お前は、昔からいつも勝手だ。何に関しても言いたい放題で、俺の返事も聞かずに好き勝手ばかりして」

 キンとした寒さの中、今度はしっかりと聞こえるぐらいの大きさで宜野座が言葉を溢した。
 先程の弱々しさから一転して、今度はふてくされた物言いだった。顔こそ見えないが、唇をへの字にした言い方に思わず美波の口も緩んでしまう。
 
「今日のチカたんは感情豊かだね」
「うるさい」
「さっきからそればっかり。チカたんってば、口を開けばうるさいしか言わないんだから」
「そんな俺は嫌か」
「えっ」
 
 子供みたいにイジける男が何とも可愛くて、慰めてあげようと持ち上げかけていた腕が固まる。
 まさか、このやりとりでそんな返事が返ってくるとは予想もしていなかったのだ。
 あまりの衝撃に全身がかちりと時間を止めた。
 宜野座はもたげていた頭を上げて美波を覗き込む。
 眉間に寄った眉も、この世のすべてが気に入らないと言いたげな瞳も、いつもと変わらない筈なのに。今日は何故か宜野座の顔がとても幼く映った。
 暫く、ぶすくれた顔の宜野座と無言で見つめ合う。「えーっと」意味もない相槌が美波の口から漏れた。
 宜野座は、やはり不満げな顔のまま美波を覗き込むばかりだった。けれども、ふいに何かに気付いたようで、ちらりと視線だけで後ろを振り返る。
 
「撫でないのか」
「えっ」
 
 撫でないのか、と聞かれた。
 心当たりは探さなくとも明白だ。未だに中途半端な位置で止まったままの美波の腕を見たからだろう。
 あの、宜野座が。恥ずかしがり屋で、天邪鬼で、つっけんどんな宜野座が。自ら撫でられることを要求している。
 妄想でもなければ、幻聴でもない。それなのに、美波は自分の目も耳も信用ができなかった。
 でも、取り敢えず、目の前の美丈夫が要求するならばと。半信半疑のまま行き場を失っていた手のひらを男の頭に乗せた。
 本当はわしゃわしゃと荒ぶる感情のまま撫でくりまわしてやりたかったが、流石に今日ばかりは場の空気を読んで優しく優しく撫でてやる。
 宜野座は撫で始めこそむっすりとしたままであったが、やがて満足そうに眉間の皺をほどいていった。

「何だそれ。可愛いな」
「何がだ」
「チカたんの存在があまりにも罪深すぎて。……夢?」
「意味がわからん」
「今日のチカたんのほうが大分意味がわからないんだけど」
 
 ふん、と小馬鹿にするように鼻を鳴らし、宜野座は再び顔を背けた。ただし、今度は美波の頭にすり寄るように顔を寄せて。
 
「猫みたいだね」
「……」
「無視するんかーい」
「俺は犬派だ」
「知ってるけどさ」
 
 相変わらず、腕の拘束は解けない。元より拘束というには優しすぎる締め付けだから、きっと抜けだそうとすれば宜野座はあっさりと解放してくれるのだろう。
 けれども、一度心地いいものに触れてしまうと人間というのは離れがたくなるもので。ましてや相手が宜野座なのだから美波は自ら抜け出す気など微塵もなかった。大人しく、全身で与えられた幸福を享受する。
 
「……俺も、これ以上変わってしまわないよう精々努力するさ。昔から地道にやるのは得意だからな」

 やがて密やかに落とされたのは美波に対する明確なアンサーだった。
 驚いたのは、この男の口から出たとは思えないほど軽い響きだったこと。
 何気なく、いっそ楽しげにすら聞こえたその響きに鼻の奥がツンと痛くなる。
 美波は自分の感情をきっちりと振り分けるのが得意な筈だった。物事をあるべき所に差し込んで、これはここにあるべきなのだと、しっかりと定義したい質だ。
 けれども、たったいま自分が感じている気持ちを一体何処に振り分けていいのかが分からない。
 頭の中に浮かぶのは、暖かい、嬉しい、そして切ない。そういったものに分類される筈なのに。かちりと収める場所が見つけられなくて、胸の中で首を傾げた。そしてうっすらと、これがあるべき所に収まったとき、自分はとても重大な事に気付くのだろうと天啓めいた予感を感じていた。
 でも、わからないまま、宙ぶらりんのままでいいと思った。
 いまこの時は。溺れるには浅い波の縁で、熱いというにはぬるすぎる水の中で、時間が許すかぎり目の前の幸福に浸っていたいと。
 ただそう願った。