傷跡をなぞって


花房美波
ID 00475-AEAJ-XXX-
所属 厚生省公安局 局長付秘書
 
【経歴】
 
―ここからの資料は個人情報のためアクセス権限のあるユーザーのみ閲覧可能です。
 
―アクセス感知。禾生壌宗。閲覧を許可。


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 幼少期、事故により両親が死亡。事故原因は不明。親戚はいずれも受け入れを拒否。同年シビュラ公認児童養護施設に入所。サイコ=パス数値の悪化により、特別ケアプログラムの適用が推奨される。
 シビュラ児童保護プログラムを適用。宜野座伸元、狡噛慎也が花房美波の適正ユーザーとして選ばれる。
 二名の親族許諾のもと一対一の定期面会を開始。以降サイコ=パス数値が安定。

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 薄いベージュに彩られた爪の先が、コツンとデスクを弾く。その音を合図に表示されていたホログラムウインドウは音もなく形を消した。
 
「さて、どうするかな」
 
 誰に言うでもなく。だが、確実に誰かに向けて呟かれた一言は無人の空間に溶けて消えていく。
 ほどなくして細いフレームに縁取られた眼鏡がチカチカと数度点滅し、禾生はふっと吐息めいた笑みを零した。
 彼女の経歴に目を通すのはこれで三度目だった。一度目は職業適性によってシビュラが設立して以来、初めてとなる公安局秘書が選出された時。二度目は狡噛慎也が執行官へ転落した三年前に。
 そして今、彼女の個人情報を閲覧したのはこの体に馴染むために必要だったからに他ならない。なにせ、彼女とは殆ど初対面・・・
に近いのだ。
 
「失礼致します。ただいま戻りました」

 空圧の抜ける音と共に扉が開く。禾生は入室してきた美波に背を向け、防弾ガラス越しに広がる街を眺めた。
 システムに支配され、支配されることに疑問も抱かない数多の市民が暮らす都市を。

「花房くん。これから公安局は騒がしくなるだろう」
「はい?」
「桜霜学園の生徒が遺体で発見されたそうだ」
「……桜霜学園、ですか」
「しかも遺体は特殊な加工が施され、まるで展示物のように置かれていたらしい」

 いつもは穏やかに凪いでいる栗色の瞳が、猫の毛が逆立つように徐々に見開かれていく。その様を千生は見逃さなかった。
 ガラス越しに思わず口元が歪んでしまったのは仕方が無い。記憶にある限り、彼女がここまで動揺したのは初めてだった。
 顔だけで振り返り、美波と目を合わせる。
 ――ほう、こんな顔もできるのか。
 禾生はますます興味深げに彼女を観察する。
 
「標本事件と同じ手口ですか」
「まだ同一犯だと決まった訳ではないがね」

 美波がこの仕事に一線を引いているのは知っていた。だからこそ、彼女から事件の詳細を聞いてくるのは珍しい事だった。
 あくまでも自分の仕事は秘書であり、事件に関わるなどとんでもないと。必要最低限の情報だけで結構だと、実際に彼女の口から聞いたこともある。しかし本音は違うのだろう。関わりたくないのではない、関わらないようにしているのだ。
 
「君が公平でありたいと願うのは、果たして誰の為なんだろうね」
「局長?」
 
 訝しげにこちらを伺う視線に、禾生は心のなかで首を振った。いけない、つい本音が出てしまった。
 
「まずは手始めに報道規制を敷かなければ」
「すぐに手配します」
 
 禾生の言葉を合図に背筋を伸ばした美波が別室へ消えていく。その後ろ姿を見送りながら、禾生は椅子に深く腰をかけた。

「滑稽だな、まったく」
 
 いくら一線を引こうとも、物事というものは気付いたら取り返しのつかない所まで転がっているものだ。
 もっともそれは問題から目を背けていた代償に他ならない。
 いつだって、じりじりと不穏な足音は近寄っていたのだから。
 
 


 
「――夢なんて、だいたい嫌なもんを見るもんだ」
 
 柵に背を預けながら、にやりと唇を釣り上げた男は紫煙を吐きながらそう言った。
 空に溶ける煙を何となく目で追っていた美波は、ゆっくりと男に視線を戻した。
 
「どうしたの急に」
「べっつにー。美波ちゃんの目の下に隈があるからよ、寝れてないんじゃないかとね」
「そういうところ本当に目ざといね。その能力をもっと仕事に活かせばいいのに」
 
 我ながら手厳しい台詞だと思った。けれど男は嫌な顔ひとつせず、むしろ楽しそうに目を細めて見せる。
 人相の悪い顔をしているくせに、目尻に寄ったシワは妙に愛嬌があった。まるで犬のような男だ。
 
「生憎と俺は女にしか興味がないんでね。んで、実際どうなのよ。眠れてんの?」
「ぼちぼちかな」
「俺が添い寝してやろうか。まぁ寝かせてやれるか分からないけど」
「そういう事ばっか言ってるからチカたんに怒られるんだよ」
「ノリ悪いなぁ美波ちゃんは」

 言葉も軽ければ笑い声も同じくらい軽いものなのだろうか。
 それでも嫌悪感は不思議と抱かない。根っからの女好きを豪語する彼と会話をするのは楽で良かった。なにせどんな言葉を投げたってこの男が機嫌を損ねることはまず無いのだから。

「ちゃんと休めよー。じゃないとギノせんせーみたいに死にそうな顔でコーヒーすする羽目になるぞ」
「チカたんは大丈夫だよ。慎ちゃんいるし」
「じゃあ美波ちゃんには誰が居てくれんの」
「私は一人でも平気」
「いーや。美波ちゃんには人肌が必要だね。例えば怖い夢を見たときに背中を撫でてくれる男とか」
「佐々山くんみたいな?」
「そう、俺みたいな」
「ありがとう。でもごめんね、いざとなったら頼む相手は決まってるの」
「だろうなぁ。知ってるよ」
 
 それらしい言葉を並べていても、本当に伝えたい事は違うのだと美波にはしっかりと解っていた。この男が答えを求めていない事も。
 今思えば、彼は美波を誰かと重ねていたのかもしれない。
 執行官になった経緯は知らなかった。資料は立場上いつでも見ることができたが、結局彼が生涯を終えた今でもアクセスはしていない。
 夕焼けに照らされた横顔が輪郭も朧気に美波の眼に映る。寂しげにくゆる煙とは対照的に瞳は赤々と燃えていた。
 彼方に落ち窪む陽光を糧に燃え上がった炎は、彼自身も包んで燃料にしてしまいそうだ。
 人は誰かを忘れるとき、その人の声から忘れていくらしい。
 けれども彼の――佐々山光留の声はまだしっかりと耳の裏に残っている。