完 触れてみれば確かにそれは

 その日は何か予感めいたものが働いていたように思う。朝に目を冷まして布団を畳んでいると、窓から一羽のセキレイが入ってきた、その子は足に怪我をしていたので、回道で治して飛ばしてあげた。昼は何故か急患に追われ、今までにないくらい忙しい日だった。
 そして、業務を終えようとしていた時に、それは形となって私の目の前に現れたのだ。
 
「透子、もう終わりかい?」
 
 惣右介くんが四番隊の事務所へやってきた。書類に印鑑を押していた私は驚いて思わず違う場所に判を押してしまったのだが、訂正印を押す暇もないくらい自然に手を取られ、手元から優しく判子が抜き取られた。
 机にことりと置かれたそれを見つめると、もう一度彼の口許が私の名前を形取る。吐息のような囁きは小さいはずなのに私の耳奥に重く落ちた。周りの隊士達が何事かと私達を遠巻きに眺めている。こそこそと何かを囁く声もいつもだったら気になるはずなのに今日ばかりは耳を通り抜けるだけだった。
 惣右介くんの瞳が私を綺麗に納めている。気がつけば、「うん、」と口に出していた。彼は良かったと笑い私を連れて颯爽と四番隊を後にする。
 
 彼はこんなに寂しそうに笑う人だっただろうか、過去の自分に問いかけてみても、答えは何一つ返ってこなかった。
 
 
 
 
 
 
 手を引かれるまま、ただ歩いていた。いつの間にか夕暮れの寂しさが漂う流魂街を通り抜けて、懐かしい土手を上がっていく。そうか、この道は。
 
 私の手を引く惣右介くんは何かを喋ろうとはしなかった。無言の背中をぼんやりと見つめながら私はただ彼の後を付いていく。次第に林に入り、暫く歩いていくと視界が広がった。そこは私が予想していた通り霊術院を卒業した日、二人で夕暮れを眺めた丘だった。
 すっかりと日も落ちた景色はあの日と同じように美しいままだ。夕焼けの残照が細く地平線を縁取り、燃えるように今日の命を終えようとしている。乾いた風が草を巻き上げながら体の横を通りすぎていく。落ちる太陽と、天に昇る掠れた月を見上げていると、惣右介くんがやっと私に向き合った。

「僕があの日、君に言った言葉を覚えているかい」
 
 手を繋いだままの惣右介くんが首を傾げて私に問いかけた。唐突な質問に一瞬思考が止まるが、きゅっと握った手の平から伝わる鼓動が、私の言葉を優しく押し上げる。
 
「卒業した日のこと?」
「そう、君と…――嘘のない関係でいたい。そう伝えたね」
 
 そうだ、確かに彼はそう言ったのだった。彼の言葉で鮮やかに私の記憶が蘇り、あの日の彼と重なる。惣右介くんの顔に笑顔はない。浮かぶのは真剣な眼差しと、許しを乞うように下がる眉だけだ。何故、彼が私にこんな顔を見せるのかは分からなかったけれど、繋いだ手に力を入れて思わず彼の指を握りしめた。そうでもしないと今にも惣右介くんが景色に溶けて消えてしまいそうだったからだ。
 
「僕は君を長い間からかってきたね。君を怒らせた時もあったし、最近は君に告白をして困らせた」
 
 自分自身を嘲笑うかのように、惣右介くんの口から掠れかけた言葉が流れていく。
 トクトクと私の心臓は優しい音を刻むのに、呼吸だけが奪われたように息苦しい。
 
「改めて君に誓いたい。今までの言葉に嘘が混じっていたことはただの一度もない」
 
 一迅の風が惣右介くんの髪を巻き上げる。さらけ出された端正な顔が、私を真剣に見下ろしていた。重大な秘密を漏らしてしまったように惣右介くんの顔には後悔が浮かんでいる。眼鏡の奥から覗く瞳は溶けてしまいそうなほど揺らめいていて、あまりの痛々しさに私までぎゅっと目を引き絞ってしまった。
 辺りはすっかりと夜に呑み込まれ、お互いの姿が夜の帳に隠される。
  
「信じてくれるかい」
「……うん。信じるよ」
 
 私がそう返すと同時に手が引かれ、惣右介くんの腕の中に引き寄せられる。そのまま彼の腕が背中に回り私を柔らかく閉じこめた。肩口に顔が当たり惣右介くんの匂いが鼻を掠める。
 どうしようかと迷ったものの、私もおずおずと惣右介くんの背中に腕を回して抱き締め返した。すると惣右介くんの腕が一層きつく私を閉じ込める。何となくぽんぽんと背中をあやすように叩いてあげれば、首元でくすくすと笑う声がした。
 やがて満足したのか惣右介くんは体を離す。暗闇で表情を伺うことはできないけれど、彼の纏う雰囲気から焦燥や懺悔の心は感じられない。
 
「突然で驚いただろう。それを伝えたかっただけなんだ」
「そうなの?」
 
 へんなの、と私が笑うと惣右介くんもつられたように笑った。珍しく声をたてて笑う惣右介くんはとても楽しそうだった。
 
 

 そのまま夜の道を二人で帰った。たわいもないお喋りをしながら夜空の星に指を向けて、あれはどの星だ、これは何だと惣右介くんに訪ねる。
 博識な彼は迷うそぶりも見せずに私に説明をしてくれた。惜しげもなく知識を披露した彼は、今度は私に色々と質問をする。何の動物が好きか、どんな食べ物が好きか。私は今更な質問だなぁと思いながら答えていたのだが、そういえば惣右介くんとこんな話をしたことはなかったと最後になって気付いたのだった。私たちは結構長い付き合いなのに、思いの外お互いを知らないのだと新しい発見をする。
 これから知っていけばいい、なんて。数十年前の私では考えもしなかっただろう。やがて私の寮について、じゃあねと惣右介くんと別れた。帰り際、小さくなりかけた背中にまた明日と声をかければ惣右介くんはおやすみと返して去っていった。
 
 彼の背中が見えなくなる頃、ふと胸元の存在を思い出してそれを取り出す。
 手のひらに収まるくらい小さな包みの中に入っているのは、彼にあげようと思って買った初めての贈り物だ。いつでも渡せるようにと懐に忍ばせていたのにすっかりと忘れてしまっていた。
 
「まぁ、いっか」
 
 どうせいつでも会えるし、今度会ったときに渡そう。これを渡したら惣右介くんはどんな反応をしてくれるのだろうか。ほんのちょっとだけ楽しみだった。
 

 

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 呆然と、双極の丘を見上げていた。

 空が割れ、無数の大虚が顔を出し、ひび割れた天空から金色の帯が丘に降る。
 
 数本落ちた光の中に、見覚えのありすぎる顔があった。私は息をするのも忘れ、目に焼き付けるように空へと上るその人を見つめた。いかないでと伸ばした腕は当然届かなくて、目尻に涙が滲む。

 どうしてなの、惣右介くん。様々な疑問が頭の中を渦巻きやがて耐えきれずそれは嗚咽となって口から溢れた。

 地面にしゃがみこみ両手で顔を覆えば、ふるりと蝉法師が震える。届けてあげる、と優しい声がした。

 蝉法師を抱きしめ、すがるように唇を寄せる。
 
「私は貴方の事が……――」
 
 
 きっと、好きでした。
 
 
 
fin.
 


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