13 夜が静かに泣いてる

 静かな夜だ、お風呂上がりの体に涼しい風が心地良い。髪からぽたぽたと落ちる滴をぬぐいながら私は窓の縁に腰を掛け、空を見上げた。
 綺麗な月が尸魂界を青く照らしている。いつの間にか、月は周期を一周していらしい。満月が雲ひとつ無い夜空に悠然と浮かんでいた。
 
 結局、迎えに来ると言った惣右介くんは私のもとへは来なかった。夜に約束をしたから、てっきり仕事終わりに合流するものだと思っていたのだが、ビクビクと隊舎から出ても惣右介くんらしき人はおらず。私はほっとしながらも拍子抜けをしてしまった。

 まぁ、何もないならそれに越したことはないしと帰宅をし、風呂に入って今に至るのだが……。
 
 風呂で疲れを落としても釈然としない気持ちだけは洗い流せなくて、意味もなく月を見上げていた。けれども何が変わるわけでもなくため息を吐く。他力本願は簡単だが、結局最後には自分に降りかかるのだ、大人しく諦めて寝ようと布団へ向かうことにする。
 
 その時、背中を押すような夜風とバサバサと何かがはためく音が背後からした。

「やぁ」
「……こんばんは」
 
 振り返ると、なんとそこには月を背にした惣右介くんがいるではないか。
 窓枠にしゃがみ込んだ惣右介くんは死覇装をきっちりと着込み隊長羽織りを纏ったままの姿だった。仕事が終わって真っ直ぐ来たのだろう、少しだけ乱れた彼の髪に、らしくないなと感想を抱く。
 
「そこ窓なんですけど」
「寝るところだったかな?」
「……見りゃわかるでしょ」
「遅くなってすまなかった。仕事が片付かなくてね 」
「全然いいけど、私なにも準備してないよ」
「あぁ君はそのままでいいよ」
「いいって、」
「透子」
 
 低い声音がわたしの鼓膜を打った。その響きに、ぴたりと体が固まる。
 惣右介くんは私の名前を滅多に呼ばない。大昔、それこそ霊術院時代に惣右介くんに名前を褒められたことがあった。けれど、綺麗な響きだと言うわりに彼が私の名前を呼んだことは無かったように思う。
 最近になって私の名前を呼ぶようになったのは何故なのだろうか。不思議と惣右介くんの瞳から視線を外すことが出来ない。囚われている、と他人事ように思った。
 
「ほら、おいで」

 彼は私に手を伸ばす。見れば手のひらは上を向いていて、重ねろという意味なのは分かったが、暫しその手を見つめた。これは私も手を乗せるべきなのだろうか。しかし今の私の格好はとてもじゃないが外出できる格好ではない。
 断ろうかと迷っていると、惣右介くんの手がさらに延び、私の手をがっしりと掴んだ。思わず「ひっ」と裏返った声が漏れる。

「僕に攫われてくれないか」
「へっ」
「ほら、行くよ」
「ちょっと待っ、っきゃあ!」
 
 言うや否や、惣右介くんが私を引き寄せる。流れに逆らえない私はそのまま惣右介くんの胸へすっぽりと抱き込められた。ついで体を浮遊感が襲い、かと思えば叫ぶ暇もなくとてつもない勢いで景色が流れてくではないか。
 あまりの勢いに目を開けることも出来ず、私は強く目を瞑って惣右介くんにしがみついた。びゅうびゅうと耳元を掠めるのは風の音で、浴衣の裾から入り込む冷たい空気に鳥肌が立つ。体験して初めて分かるが、足元に何も触れるものがないのは、結構怖い。それでも惣右介くんの大きい体がしっかりと私を支えているから、なんとか叫ぶのは我慢ができた。
 
 慣れない速度に込み上げる吐き気を押し止めながら、ようやく私は最初から拒否権など無かった事に気付いたのだった。
 
 
 
 
 
 
「ついたよ」

 あれから、どの位経ったのだろうか。頭の上から惣右介くんの声が降ってくる。ぐらぐらと揺れる脳内に惣右介くんの言葉が反響して気持ち悪い。うぅ、と呻き声を漏らすと小さく謝罪の言葉が降りてきて同時に私の額が指でちょんちょんとつつかれる。
 
「ほら、目を開けてごらん」

 惣右介くんに促され、私はやっとの思いで瞼を持ち上げた。そして、目の前に広がる美しい風景に思わず息を飲んだ。
 
「……綺麗」
 
 飛び込んできたのは煌々とした輝きを放つ現世の街だった。天ノ川のように延びる光の大道は遥か遠くまで続いていて、夜のしじまに溢れた輝きは手を伸ばせば掬ってしまえそうだ。
 任務でたびたび来ることはあっても、現世の夜をこんなにゆっくりと眺めたことは無い。人工的な光だとしても、確かに美しいと思った。思わず惣右介くんの死覇装を握りしめ、身を乗り出すと「どうだい?」と楽しげな声がする。
 
「すごい、現世の街ってこんなに綺麗だったんだね」
「君は内勤が多いから見たことがないんじゃないかと思って」
「本当に綺麗」
「気に入ってもらえて良かったよ、これならもっと見えるかい?」
「わっ!」
 
 惣右介くんが私を持ち上げ、片腕で私を抱き直す。突然高くなった視界に驚いて私は慌てて惣右介くんの肩に手をついた。柔らかく微笑んだ惣右介くんが私を見上げる。

「自分で足場作るからいいよ!」
「君のことだ、途中で落ちてしまいかねないから大人しく抱かれていると良い」
「流石に足場くらい作れるんですけど……!」
「言い方を変えようか。僕がしたいから君はそのままでいてくれ」
「重いから!」
「君一人ぐらいどうってことないさ」

 簡単に言いくるめられた私はぐっと喉を詰まらせ、居心地の悪さに視線をそらす。
 
 惣右介くんによって持ち上げられた視界はさらに開け、夜風が私の髪を舞い上げた。風の流れに乗った夜の香りがとても心地良い。何となく上を見上げてみると大きい満月が頭上で輝きを放っていて私はその大きさに驚く。青白い光は地上とは対照的だが、やはりこれも綺麗だと思った。
 食い入るように月に目を凝らす私の横から、一羽の地獄蝶が優雅に羽ばたいていった。その瞬間、私はようやくとんでもない事実に気がついた。
 
「待って、穿界門使ったの……?!」
「勿論通ったさ。ちゃんと許可も貰ってるから何も心配することはないよ」
「……何て申請したの」 
「僕が適当に作った理由を述べれば大抵の事柄は通るものさ」
「とても隊長の発言には聞こえないんですけど……!」
「それよりも折角連れてきたんだ。もっと楽しんでくれないと」
「楽しむって言っても、」
「綺麗?感動した?嬉しい?」
「……綺麗だし、感動したし、嬉しいけども!!」
「なら良かった」
 
 何とか言い返そうと口を開くと、夜風に乗った惣右介くんの髪が後ろに流れ端正な顔が露になる。彼の輪郭を街の光が淡く照らした。とても優しげな表情だ。
 急に切ない気持ちに襲われて、胸元を強く握った。その変化を察したのか、惣右介くんが私の顔を不思議そうに眺めるので私は慌てて適当な言葉を漏らす。

「いやぁこんな所に連れてくるとか、やっぱりモテる男は違うなと思って」
「……君は救いようのない馬鹿だな」
「はい?!」
 
 突然の罵倒、そして途端に不機嫌そうに歪む惣右介くんの顔。なんだなんだ、私は知らない内に地雷を踏んでしまったのか。
 
「いくら僕でも穿界門を任務以外で使ったりはしない」
「……というと?」
「君と来るからリスクを覚悟して連れてきたに決まってるだろう。君はもう少し僕に特別扱いをされている自覚を持った方がいいな」
 
 特別扱い、噛み砕くように呟いてみても私は中々その言葉を飲み下すことが出来なかった。
 惣右介くんは黙り込んだ私をどう捉えたのか、軽やかな足取りで空中を蹴っていく。突然の事に慌ててしがみつきながらも私は考えた。彼にとっての特別はきっと私の両手では抱えきれない価値があるのだろう。その中に私が収まっているのは、どうしても想像が出来ない。
 
「あのさぁ、惣右介くん」
「なんだい」
「何で私なの」
「なんだい、まだ気にしてたのか」
「だって私は惣右介くんみたいに才能も無ければ、人を惹き付ける魅力もないじゃない」
「君はどうも僕の言葉を曲解する節があるね。単純に君といて楽しいと、そう言っただろう」

 惣右介くんの足が止まり、反動で私の髪が翻り視界を覆った。私が直すよりも先に惣右介くんの指が髪を集め背中にはらってくれる。
 納得がいかない、きっと私の顔にはでかでかとそう書かれているに違いない。彼は私の顔を見て、眉を下げてくすりと笑った。

「君は昔から面倒くさい生き方をするなと思っていたんだ」
「えっ、ひどい」
「……面倒だと言いながらも、実際に取り組み始めると誰よりも真面目に時間をかけてやっていただろう。周囲が自分よりも優秀な人材に溢れていたのにも関わらず、君は諦めようとしなかった」
 
 違う、諦めなかったんじゃない。悔しかったの。諦めたくても諦める術を知らなかっただけなの。そう言いたくても、惣右介くんの視線が私の口を封じる。
 
「完璧な人などいない。けれど天才の肩書きはそれを許さない。1つでも失敗をすれば周りは敵だらけだ。そんな中で欠点があることを理解してくれる人は貴重だ」
 
 それが君だったと、惣右介くんの呟きが夜の空気に溶けていく。悲しい声だった。
 果たして、彼と同じ気持ちを共有できる人はいるのだろうか。神様が手ずから作り上げたような人だ、きっと彼の気持ちを心の底から共有できる人はこの世界にはいないのだろう。私達は彼を羨むばかりで、裏側なんて見ようともしていない。

 凡人には彼の悩みを理解することすら出来ないと分かっていても、歯がゆさに目尻の奥が熱くなるのを感じた。
 
「それに君は何事にも素直でいい。裏表が無いし、立場が変わった僕に対してもずっと昔のままだ」
 
 それなのに、惣右介くんがあまりにも嬉しそうに笑うものだから私は泣きそうになってしまう。
 彼の笑顔が綺麗で、眩しかった。今日ここに来て目にした何よりも惣右介くんの笑顔が一番強く目を打つ。
 惣右介くんの指が私の目尻をそっと撫で上げる。彼の瞳には夜空の星と私が浮かんでいた。私の感情の揺れがそのまま彼の目に伝わっているかのように、惣右介くんの瞳も呼応して揺れている。
 
「僕は君を好ましいと感じている。それでいいじゃないか」
 
 うん、と返した私の声は震えていた。きっと酷い顔をしているのだと思う。
 惣右介くんの私を想う気持ちが、心を揺さぶって堪らない。どうしよう、自分のこんな気持ち知りたくなかった。
 私はこの気持ちに名前を付けてしまいそうで、惣右介くんの頭にぐりぐりと自分の額を押し付ける。
 
 惣右介くんはそんな私には何も言わず、ただ夜の空を駆けたのだった。
 


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