10 小さな心を貴方に

「君は僕に興味が無かっただろう。だから、やたらと目に入ったんだ」
 
 おもむろに切り出されたのは、そんな一言だった。彼の目に私はそう映っていたのかと、ぼんやりと惣右介くんの言葉を耳に流す。
 
「でも話してみれば案外気さくだし、下手に自分を飾らないところが好ましいと思った」
「それだけ……?」

 惣右介くんに興味が無かったわけではない、あの頃の私は突然繰り上がって入ってしまった特進クラスに馴染めず、ひっそりと息を潜めて過ごしていた。だから惣右介くんと話すことなんて殆ど無かったのだ。

「君にとってはたったそれだけに思えても、あの頃の僕には大きなきっかけだったんだよ。あぁ、でも君の顔は確かに好みだったな」
「……へっ、」
 
 唐突に告げられたまさかの告白に、喉の奥から裏返った声が飛び出す。口は半開きのまま頬に熱が集まり、惣右介くんを見上げる瞳が自分でもわかるぐらいに大きく開いた。
 彼はくすりと笑い、胡座をかいた膝に肘を乗せ、楽しそうに私を眺めている。頬杖に乗った顔はやはり綺麗な造りをしていて、ますます何故私なのだろうという疑問が浮かんだ。
 彼の隣に立つ自分というのが、どうしても想像できない。
 
「僕は君といるのが楽しい。だから、友達で収まるのではなくその先が欲しいと思うんだよ」
 
 これは多分、好きってことだろう?惣右介くんの問いかけは私に訪ねはしているものの、答えを求めているようには聞こえない。
 
「……多分、それは興味があるだけだと思うよ。好きの部類かもしれないけれど恋愛感情とはちょっと違うんじゃないかな」
「どうしてだい?僕は君ともっと会いたいし、君に触れたいと思う。勿論キスだってしたいしその先もしたいと思うよ」
「へっ……、えぇっ?!」
 
 とんでもない発言の連発に私は思わず身を守るように惣右介くんから距離を取った。彼は今、自分が凄いことを話している自覚があるのだろうか。
 惣右介くんとキスをしたいとか、恋をしたいとか、聞いたことはあっても、自分に置き換えて考えたことは一度もない。なのに、彼は私とそうなりたいと望んでいると言う。これはやはり悪戯なのだろうか。
 とにかく心臓がうるさくて、思わず耳を塞ぎたくなった。身体中の血管にどんどん血が巡り、鼓膜の裏まで音が響いている。
 
 惣右介くんは視線を雨に向け、私の答えを静かに待っていた。雨脚は途切れる気配を見せず、夜に包まれつつある山の地面をししどに濡らしている。
 冷え込んだ空気が雨に押されて私の体を撫でる。体温の上がった体にみずっぽい空気が絡まった。その空気に身震いをしながら、私は考えを巡らせる。
 私がいま惣右介くんが求める答えを返せないのは分かっていた。多分だけど私がここで嫌だと言えば、彼はそうかと身を引いてくれるのだろう。昔からあれこれと好き勝手に私をからかいながらも本当に嫌なことはしない人だったから。
 一言、たった一言で私の悩みは晴れる。簡単な道だ。だというのに一歩を踏み出せないのは、惣右介くんと私の関係が確実に変わろうとしている予感があるから。
 私は覚悟を決めて、彼の名前を呼ぶ。惣右介くんはゆっくりと顔をこちらに向け、やはり私を真っ直ぐと見据えた。私はごくりと喉を上下させ、裏返らないように気を付けながら声を絞り出す。
 
「……私は、惣右介くんと恋人にはなれない」
「へぇ」
「怖い怖い!!急に低い声にならないで!!最後まで聞け!!」
 
 明らかに眉を寄せ、目を細める惣右介くんにビビり倒しながらも、私は大きく深呼吸をして言葉を続ける。
 
「惣右介くんのことが嫌いなわけじゃないし、気持ちも素直に嬉しいと思う。だけど、私は惣右介くんの隣に立てるほど凄い女じゃない」
 
 そう、彼の隣に立つべきなのはきっと私みたいな平凡な女じゃない。もっと淑やかで、それこそ風が吹いたら倒れてしまいそうな儚さがある女性が似合うのだろう。惣右介くんの言葉に静かに微笑んで、鈴音みたいに軽やかな笑い声を立てる女性が。
 けれども、自分で考えておきながらちくりと胸が痛むのは、彼という存在が昔とは形を変えて私の心に留まっているからだ。今この気持ちを彼に預けてしまえば、少しは楽になるのだろうか。
 私は、どろどろと渦巻く気持ちを吐き出すように、惣右介くんに言葉を溢す。
 
「それでも私を選んでくれるなら、答えたいっては思う。……恋とかは正直分かんないし、惣右介くんにそういう感情を抱いたこともないけど。……うまく言えないけども!惣右介くんと今まで通りは勿体ない気がする……みたいな」
 
 これってどういうことなの?と、まるでさっきの惣右介くんみたいに私は問いかけた。
 彼とは違い、答えを求める私の声はあまりにも弱々しくて、もはや泣きつく勢いでぶつぶつと喋る私が面白かったのだろう。惣右介くんの顔はいつの間にか穏やかなものに戻っていて、その見慣れた表情に体の緊張がゆっくりと解れていく。
 けたたましく鳴っていた心臓が凪いで、楽になった呼吸に大きく息を吸った。肺いっぱいに雨の匂いと、土の匂い。そして羽織から惣右介くんの匂いが僅かに混ざり、押し上げるように私の言葉を包む。
 どうか、私の精一杯の答えが彼に届きますように、そう願いながら。
 
「だから、その、……友達よりもちょっと上の友達から始めたいんですけど」
 
 恐る恐る、ちらりと彼の顔を伺う。
 私は目を見開いた。惣右介くんが、ぽかんと口を開けて私を見つめていたからだ。
 
「……君はいつもすこし予想外だ」
「えっ、駄目かな」
「いやいいよ。そうしよう。僕たちは今から友達以上恋人未満だ」
「あれっ?!何か変なのが追加されてるんですが」
「君の条件を全て飲んだんだ。これぐらいの我儘は許してくれないかい」 
 
 そう言って、彼は私を引き寄せて抱え込んだ。はぁ、と短い吐息が耳元にかかる。ため息にも聞こえるそれは疲れているのか、はたまた私にあきれたのかは汲み取ることが出来なかったけれど、この話はこれで終わりだと告げられているのは分かった。
 彼は、私を右側に抱き込み、棕色の瞳に長い睫で蓋をする。そうして完全に沈黙してしまった。どうやら帰ることは諦めて、夜明けまで身を休めるつもりらしい。
 身動きすら許されなくなってしまった私は、仕方が無いので不本意ながらも彼に身を預け、体を丸めた。不思議と、羞恥心は無い。
 焚き火と二人ぶんの体温が溶け合って、思考がどんどんと睡魔へ引き寄せられていく。揺れる頭は惣右介くんの肩に吸い寄せられ、ついにはぴったりともたれ掛かる形となってしまった。惣右介くんは文句を言うわけでもなく、私の頭に静かに自身の顔を寄せる。
 
「……今はこの距離で良しとするよ」
 
 惣右介くんの小さなつぶやきを最後に、私の意識は途切れたのだった。


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