09 夜明けの明星

「あれ、笹竹九席!どうしたんですか、珍しいですね」
「雛森副隊長お疲れ様です!あの、藍染隊長は今どちらに」
「ごめんなさい、隊長ならついさっき出掛けてしまったんです」
「えっ、」
 
 ……こういう時に限っていないだと?
 
 
 
 
 突然、視界が眩しい光に覆われる。一拍を置いて凄まじい轟音が頭の上を駆け抜けた。それに驚いて足を滑らせてしまったのが不味かった。
 あれよあれよという間に私は斜面を転がり落ち、べしゃりと地面に叩きつけられた頃には、あたりは桶をひっくりかえしたようにどしゃ降りの雨が降っていたのだ。
 
「赤火砲は、まずいよね」
 
 業務の最後に薬草が切れていたのを思い出し、卯ノ花隊長に許可を取って四番隊所有の山に入ったのはつい一時間程前の事だ。私は目の前に積み重ねられた枝を睨み付けながら悶々と百面相をする。
 あれから慌てて崖下に見つけた窪みに飛び込み、地面に落ちている枝を集めたのだが、肝心の火をつける術が無いのだ。
 技術開発局が発明した簡易火打ち石(現世ではライターと言うらしい)を持っていれば良かったのだが、生憎とちょっとそこまでのノリだったので手持ちの物はハサミとカゴ以外に何もない。
 私に繊細さがあれば赤火砲の火加減を押さえて火を起こせるのかもしれない。しかし、確実に丸焼けになる未来しか見えないので未だに行動に移せないでいた。
 
「あ〜あ、何でこうなっちゃうかな。惣右介くんは今日に限って五番隊にいないし、私は遭難するし」
 
 今でこそ、技術開発局のおかげで薬草の栽培も楽になったが、こうして自然の場所でしか育たない植物はまだまだある。十より上の席官のみ、立ち入りを許されたこの山に定期的に訪れるのも私の仕事なのだ。今日に限ってこんなに天気が大荒れになるなんて思いもしなかったが。
 まぁ、それでも事前に卯ノ花隊長にはこの山にいることは伝えてあるし。じきに誰かは探しに来てくれるだろう。もし最悪誰も来なかったとしても、この雨さえ止めば自力で帰れる。
 
「くしゅんっ!」
 
 体に悪寒が走り、くしゃみが飛び出す。水をたっぷり吸い込んだ死覇装が体に張り付いて気持ち悪い。
 私は少し考え、ついであたりを見回す。当然人影はなく、見えるのは絶えず打ち付ける大量の雨と草木だけだ。
 
「よし、脱ごう」
 
 どうせ誰も見てないし、中には一応襦袢を着ているし。と、襟元に手を差し込み勢いよく上半身の死覇装を脱ぐ。流石に上だけしか脱ぐことはできないが凍えるよりはましだ。
 絞れる所は絞って、あとはほったらかしにする。火は無いが、まだ春も後半の季節だし。凍死することは無いと願おう。
 
 ぼんやりと、背中を土の壁にあずけて雨を眺める。音が、まるで聞こえなかった。正確には土砂降りの雨がけたたましい音を奏でているのだが、水の壁が吸音材となって外の音を全て隔離している心地になった。
 冬に積もる雪が音を吸って世界を無音にするように、雨でさえも音を奪えてしまうのだろうか。最近は慌ただしい毎日が続いていたから知らず知らず、心が休まる思いだ。
 体を丸めて膝に頭をもたげていると段々と瞼が落ちてくる。流石に眠るのはまずいかなぁとは感じつつ、緩やかに誘う睡魔に抗うことができない。
 もうだめだ、寝てしまおうと体制を建て直したとき、微かに人の声がした気がしてはっと身を起こす。 窪みのぎりぎりまで這い出て、外に目を凝らしてみるが、勢いが衰えることのない雨によって視界は不明瞭なままだ。まったくもって先が見えない。
 耳を限界まで澄ませて、辺りの様子を拾う。やっぱり、私を呼ぶ声がした。

「あの!誰かいますか!」
 
 出せる限りの声を張り上げて、何も見えない外に声を飛ばしてみる。すると、遠くから聞こえる声が一瞬止んだ。良かった、届いた。
 けれども、待てども暮らせども人は愚か、声すら聞こえない。あぁ、違う方へ行ってしまったかな。
 
 私が諦めかけた時、その人は突然目の前に現れたのだった。
 
「透子!見つかって良かった、大丈夫か…い…」
「っ、きゃぁぁ!」
 
 パァンと、乾いた音が洞窟内に響き渡る。
 
 
 
 
 
「隊長に張り手をするなんて君ぐらいだろうね」
「……本当に申し訳ありませんでした」
 
 死覇装の襟元を正しつつ、私は惣右介くんにそれはそれは震えた声で謝罪をしていた。惣右介くんの頬にはくっきりと赤い跡が浮かび、先程放った張り手がいかに強いものだったかを物語っている。
 私を探してくれていたのは惣右介くんだったらしい。突然表れた惣右介くんがほっとした顔を見せたのも一瞬で、彼は私のあられもない姿を目の当たりにして目を丸く見開いた。私はといえば羞恥心により、渾身の力で張り手をお見舞いしてしまったわけだが、我ながら恩人に対してあまりにも酷い仕打ちである。
 
「君が僕を訪ねて五番隊に来たと聞いたから、よっぽど大事な用件だったのかと仕事終わりに四番隊に寄ったんだ」
「そうだったの」
「そしたら山に入った君が帰ってこないと大騒ぎになっていて驚いたよ。この雨だし、何処かで取り残されてるんじゃないかと思ってね。僕が探すと言って出てきた」
「わざわざ来るなんて、四番隊の人に任せておけばいいのに」
「君は僕の唯一の友人だからね。こんなところで亡くしてしまっては勿体ない」
「死ぬ前提なの?」
 
 大袈裟な、と思いつつも。実際ずぶ濡れの惣右介くんを見てしまうと、有り難いやら申し訳ないやらでいたたまれない気持ちだ。
 ちらりと横を伺うと惣右介くんは髪をかきあげ、羽織の袖口で無造作に顔を拭っている所だった。普段とは異なる荒っぽい仕草に、滴る水滴があいまって「これが水も滴るいい男かぁ」などと邪な考えが浮かぶ。
 手早く水分を拭き取ると、惣右介くんは指先を積み重なった枝に向けた。ぱちんと指を鳴らせば途端に炎が枝を包み込む。あっという間に焚き火が完成して、分かってはいたがなんの苦もなくやってのけてしまう彼に少しばかり嫉妬をした。
 
「これでも羽織ればいい。濡れているが何もないよりはましだろう」
「これ隊長羽織でしょ……?!むりむり、私のお給料何ヵ月分?!」
「心配しなくても君が払える金額じゃないからおとなしく被ってるといいよ」
「ヒィッ…!」
 
 惣右介くんはもはや私の反応を待つのも面倒くさいのか、手早く羽織を私の体に巻き付ける。
 大きすぎる羽織は当然地面へと落ち、私は羽織が汚れる恐怖に慌てるが、当の本人はまったく気にした素振りを見せない。
 なので仕方なく、裾を手繰り寄せすっぽりと収まる事にした。何だかんだ言いつつも体を包む羽織はとても暖かくて、冷えた体が心地良い安心感に包まれた。静かに顔を埋めていると微かに惣右介くんの香りがして、ほんの少しだけ心臓がむず痒い。
 
「それにしても君の格好は酷いな、泥だらけだしあちこち傷だらけだよ」
「ちょっと斜面を転がり落ちちゃって。自分じゃ見えないんだけどやっぱり酷い?」
「僕が治してあげようか」
「いいよこれぐらい。帰ったら自分で処置するし」
「君は変なところで遠慮するね」
「……あのさ、惣右介くん」
「何だい?」
「この間の、話なんだけど」
 
 聞こえるか聞こえないかの声量で呟かれた私の声は、雨を潜ってしっかりと惣右介くんの耳に届いたらしい。会話が不自然にとぎれ私達の間に沈黙が下りる。
 言い出しっぺのくせに顔を見る勇気はなくて、バクバクと五月蝿い心臓を押し込めるように膝を胸に抱え込む。すると、横から伸びた手が私の前髪をすくった。
 思わず惣右介くんを見上げる。どうして彼は、困った顔をしているのだろうか。遮るものの無い視界はあまりにも鮮明で、涼やかな彼の表情にちくりと目の奥が痛くなる。
 
「僕から仕掛けたとはいえ、君から聞かれるなんて少し予想外だった」
「……逃げてばっかりも悪いかと思って」
「その答えが聞けただけでここ数十年が報われたよ」
 
 前髪を弄んでいた惣右介くんの指が顔の横に滑り頬を一撫でする。惣右介くんの指は綺麗だけれど、感触はやはり男の人だ。段々と雨の音が遠ざかり、私と惣右介くんの吐息だけが細い音を立てて木霊する。息苦しいはずなのに、不思議と体は緊張していなかった。

「それで、君はどうしたいんだい」
「えっ」
「僕とどうなりたい?友達かそれとも恋人か」
「こっ、恋人って!」
「僕は是非とも後者の方で返事を聞きたいところだけど」
「ちょっ、待って、待ってよ!私は惣右介くんとそういう関係になるなんて考えたこともないのに」
「僕はずっとそう考えていたよ」
 
 ひゅ、と短く喉がなる。目の前の人は本当に惣右介くんなのだろうか。彼の纏う雰囲気にはいっさいのからかいもない、伝わってくるのは真剣さだけで、真っ直ぐと繋がった視線を反らすことができない。
 逃げてしまいたい私と、逃げては駄目だと叫ぶ私が頭の中にいる。けれども、惣右介くんの瞳が今回ばかりは逃がす気が無いことを物語っていた。

「恋人とかは一旦置いといて、とりあえず話をしよう…!」
「いいのかい、こんな状況でそういう事を言われると僕は都合よく解釈してしまうよ」
「いやいや良くはない!良くはない、けど。……今ぐらいじゃないと人目が無い場所で話すのは無理そうだったから」
「……じゃあ、話でもしてみようか。二人のこれからのことを」
 
 私は胸元をきつく握りしめる。そうでもしないと心臓が飛び出してしまいそうだった。
 雨はまだ止みそうにない。けれども何かが、確実に姿を変えようとする気配だけは感じていた。


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