07:迷宮の聖門


 花と泉の美しい情景は、いまも目蓋の裏で色鮮やかに蘇る。
 ひどく貧しい暮らしだった。けれど、父親の大きくてあたたかな手の温もり、母親の優しい抱擁の心地良さは今もこの身が覚えている。
 あの日、全てが赤い海の底に沈んでゆくのを、ただ一人震えながら眺めている事しか出来なかった事も。
 何もかも。この身が、心が、頭が、全てを零さずに覚えていると思っていた。
 ……あの、花緑青の微笑みを見るまでは。



 翌日、トランの民が船頭するカヌーに迷宮ザガンがある島まで送ってもらった一行は、黒髪の薬剤師に怯えていた。
「ふ、ふふ……見たことのない植物がいっぱい……シンドリア領で、こんなにも沢山の未知の材料と出会えるなんて……ふふ」
「……」
 あまり表情豊かとは言い難い筈の顔面を思いっ切り緩ませ、何事かをブツブツと呟きながら地べたに這い蹲り道草を漁っているメンバーの(建前上では)保護者に対して、少年少女達はなんて言葉を掛けたら良いのか検討も付かず、ただその奇行を見守っていた。
「ふむ、これはセンブリですか。大量に持ち帰ればそれなりの収益になりそうですね。見たこともない植物が多いですが……これは迷宮を攻略し、周囲の安全が確保された暁には何とかして通流を確保し、研究させてもらわねば……ああ、袋に入りきらない。もう、せめてこれだけでもなんとか詰め込んで……」
「あ、あの、ミディさん……」
 どう見ても雑草にしか見えない草花を掻き分け、ブツブツ呟きながら目ぼしいと思われるものを革袋に詰め込んでいく。
 しばらく唖然と見つめていた一行だが、いち早く我に返ったアリババが恐る恐る声を掛けるとミディはぐるりと振り返った。
「なんですか、アリババ君」
「や、あの。なんですか、じゃなくって……そ、そろそろ進みませんか」
「あぁ、そういえば迷宮攻略に来ているんでしたね。忘れていました」
 大丈夫かなぁこの人……。
 目が口ほどにそう語っているアリババを見上げ、本来の目的を思い出したミディは何とか革袋に詰め込もうとしては溢れかえっていた草花を名残惜しそうに手放し、立ち上がる。
「ミディおねえさんは本当に薬学が好きなんだね!」
「はい。私がただひとつ誇れる事ですから」
「誇れる事……?」
 草花を手放し正気に戻ったミディに安心したアラジンが声を掛けると、ミディは小さくはにかんだ。その言葉にモルジアナが首を傾げる。
「えぇ。私の両親は薬剤師で、幼い私の憧れでした。何年も前に亡くなっていますが……彼らに与えられた薬学の知識が、今の私を形作っていると言っても良いでしょう」
「そうなんですか……」
「父も母も、偉大な人でした」
 そう言ってミディは穏やかに微笑んだ。
 顔でさえ朧気にしか思い出せないほどに時が流れてしまったが、ミディの両親はそれは腕のある薬剤師だった。
 決して裕福とは言えない家庭だったが、それでも調合した薬を売ることで食い繋いでいた。仕事の合間を縫って薬学の知識を惜しみなく分け与えてくれ、それらは両親と死別して尚、色褪せること無くミディの中で生き続けている。
「さて、時間を取らせて申し訳ございませんでした。進みましょうか……白龍さん?」
「いえ、なんでもありません。行きましょう」
 薬草が詰まった革袋を腰に括りつけたミディが一行を見渡すと、白龍がトランの民の少女と何やら話し込んでいる最中であった。
 ミディはトラン語の知識が無いため、何を話しているのかまではわからなかったが、二人の表情は真剣そのものだ。
 帰りの手段について確認を行っているアラジン達が白龍と少女に気付いている様子はなく、ミディが白龍に声を掛けると、それに気付いた彼はトランの民の少女に何か一言だけ強く言い含めた後、こちらに振り返った。それを見送る少女の顔は、酷く不安げに見える。
「……?」
「ミディおねえさん、白龍おにいさん、早くいこうよー」
「あ、はい」
 二人が何の話をしていたのか気になるが、アラジンに急かされたミディはそれ以上言及をする事なく歩き出した。
 ……その後、ミディは道中で新たなる植物を発見して顔を緩めては幾度と無くアリババやアラジンに引き摺られる事になる。

 数刻後、ミディ達は未だ迷宮に辿り着けずにいた。
 迷宮ザガンのある島は意外と広く、背丈の高い植物や木々が行く手を阻む事も手伝って中々先が見えてこない。
 熱帯雨林であるものの足元の日射量は多く、故に低木や蔓などがそこら中に生え散らかっていて進むのも一苦労だ。先程から何度も蔓を切り払い、樹の下を潜っている。その為、進んだ距離の割に運動量はやたら多く、一行はじっとり汗ばみながら手足を動かしていた。
「ザガンはまだか……?」
 すっかり息の上がったアリババが低木を押し退けながら思わずと言った風に呟いた時、ふとアラジンが一点を指し示した。
「見えてきたよ! あれがそうじゃないかな!」
「や、やっと……ですか」
 アラジンが指し示した先、木々の合間に潜むように建築物の姿が見えた。恐らくは、あれが迷宮ザガンで間違いないだろう。
 それでも大分遠くに見える迷宮の姿に、一行で一番体力の低いミディがげんなりとした声を上げた時、ふとモルジアナが表情を険しくした。
「どうしたモルジアナ?」
「今、何か光って……?」
「何も見えませんが……、!?」
 動体視力の優れたファナリスであるモルジアナが異変に気付いたようで、ミディ達がその正体を確かめようと迷宮ザガンを見上げようとする。
 しかし、それよりも素早く複数の光の帯が一行を取り巻くように飛んできた。
「……!? な、なんだ……!?」
 身構えるミディ達の身体に纏わり付いたそれらは一行を捕らえると、全く抗えぬほどの強大な力で身体を持ち上げた。
 巨大な手に掴まれた小人か何かにでもなったような気分だ。身動きをする事もままならず、キラキラと輝く光の帯は一行を迷宮へと引きずり込む。
「迷宮の聖門!!」
「あれが迷宮……吸い込まれる!!」
 遠くに見えていた筈の迷宮ザガンが、もはや眼前にまで迫っていた。
 アリババが『迷宮の聖門』と呼んでいた門は、勢い良く飛び込んでくるミディ達を飲み込んだ。
(眩しい……! 身体が千切れてしまいそう……!)
 視界を覆い尽くし、頭痛さえも覚えるほどの眩い光の海。
 自分すらも見失ってしまいそうな光の中を一瞬で抜けると、次に視界に飛び込んだのは遥か眼下で何重にも発生している赤い渦、そしてそれらが取り巻く巨大な球体だった。
 塗りつぶされたような虚空の中、ただひとつそれが浮かんでいる。何重にも発生している赤い渦からは眩い光の柱が発生していて、それぞれが好き勝手に色んな方向に伸びている。
 どうやら落下しているようで、耳元では絶えず風を切る音が響き、身に纏っている服がばたばたとはためく。
 まるで、別の世界に身体ひとつで飛ばされているかのような感覚だ。
(あれは何……手を伸ばせば、届きそうな……)
 赤い渦が取り巻く巨大な球体。それに思わず手を伸ばそうとした時、再び強い光がミディの視界を埋め尽くした。

「ミディさん、大丈夫ですか?」
「う、ん……モルジアナさん……?」
 ふと重力を感じて目蓋を押し上げると、モルジアナの顔が間近にあった。
 思わず目を瞬かせ、首を引く。周囲に目をやればアラジン達の姿があり、自分がモルジアナに抱き上げられている事に気が付いた。
 モルジアナがファナリスである事は知っているミディだったが、その怪力を目にするのは初めてだった。自身を抱き上げるモルジアナの細腕をまじまじと眺めていると、案ずるように首を傾げられたので慌てて首を振る。
「すみません、ありがとうございます。ここは……?」
「『スタート地点』の真下です」
「スタート地点?」
「うん、迷宮に入って最初に出てくる場所だよ。モルさんが最初に着いてよかったね!」
 モルジアナの細腕から降りると、彼女が頭上を指し示した。
 釣られて見上げた天井は意外と近く、そこには仄かに光る魔法陣が描かれていた。先ほどの『迷宮の聖門』を潜ると、まず此処に出るらしい。
 ミディ達がいる足場は狭く、切り立った崖の下は底が見えないほど深い。アラジンの言うように、モルジアナに受け止めて貰わなければそのまま転がり落ちていたかもしれないだろう。
(最初っから容赦ないんですね……)
 崖の淵から見下ろし、ぶるりと身を震わせる。
 迷宮に潜りこんで早々にこんな所に放り出されるのであれば、きっと道中はもっと険しく厳しいだろう。うっかり死んでしまいました、なんて事がないように気を引き締めなければならない。
「では、下へ降りてみましょうか」
「え? きゃあ!」
「モ……モルジアナ殿!」
 そうして肝を冷やしていると、再びモルジアナに持ち上げられた。
 ミディだけでなく、アリババやアラジン、白龍までもを軽々と担ぎあげた彼女は、事も無げに下へ降りることを告げる。
 それに動揺しているのはミディと白龍だけで、アリババとアラジンは振り落とされないようにしっかりとモルジアナにしがみついていた。
「無理をしないでください、女性の腕で……重いでしょう!? 降りるなら俺が運びます!」
「重くありません」
「そんな、いくらファナリスだからって、一気に四人も……無茶です!」
「このくらい平気です」
「白龍にミディさん、ここは大人しく従って……」
 慌てて抗議するミディと白龍だったが、モルジアナはむすりとした表情をするだけだし、それどころかアリババに窘められてしまった。
 それでも、と言い募ろうとするミディ達を尻目に、モルジアナは足を踏み出した。その動作に重さは感じられず、まるで荷物が増えただけとでも言わんばかりの軽々しさである。そして。
「降りますね」
「うわあああっ!?」
「きゃあああっ!!」
 トーン、と軽い音と共に地を蹴ったモルジアナは、ミディ達を背負ったまま谷底へと落下していくのであった。



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