05:潮風にそよぐ


 透き通った薄衣を何枚も重ねて作ったかのように美しい空と、どこまでも渺々と深く広がる海。
 水面を打つ飛沫が目に眩しく、髪を乱す悪戯な潮風の香りが心地よい。
 そんな爽やかな情景の中を悠々と泳ぐシンドリア王国の船は甲板の上、どんよりマストに凭れ掛かる一人の女性がいた。
 いつもなら緩やかに波打つ彼女の黒髪はエキゾチックで美しいと評判なのだが、今ばかりは潮風に遊ばれゆらゆら吹かれ陰鬱さを強調させるばかりだし、植物から抽出した染料で何度も染め上げた深緑の綺麗な羽織はまるで彼女の身体に苔が生えているかのように見える。
 甲板の上で警護に当たる兵らは遠巻きにその光景を眺め、なるべく近寄らないようにしていた。だって、近寄ったら自分にも苔が生えてきそうだもの。
 周囲に避けられている事もなんのその、肺いっぱいに吸い込んだ息を深く長く吐き出した彼女は頭を掻き混ぜた。

 昨日、ヤムライハとジャーファルに呼び出されて赴いたシンドリア王宮にて、見事シンドバッドに一本釣りされたミディはあれから苦い悔恨を胸中で燻らせ続けていた。
 彼女にとって、それはどんなに苦く煮詰めた薬よりもずっと苦いと言えるであろう。もう一度溜め息を吐き、空を仰ぎ見る。目に痛いほどの快晴がいっそ憎らしい。
 あの後、まだ見ぬ植物に想いを馳せて不気味な笑顔を浮かべていたミディはすぐ我に返ったのだが、時既に遅し。すっかり迷宮攻略メンバーとして頭数に入れられていた。
 静かに頭を抱える彼女を他所に、シンドバッドは迷宮の詳細を一向に伝え、ヤムライハやアラジン、シャルルカンなど、その場にいた全員を執務室から下がらせた。
 王と自分だけになった狭い部屋で居心地わるく視線を泳がせるミディに、まぁそう緊張しなくても、としながら彼はささやかな爆弾を投下した。
『ミディくん、君は薬に何を求めているんだい?』
『……』
 緩やかに伸びた黒髪がわずかに揺れた。ミディのちいさな動揺を見逃さないシンドバッドは口元で小さく弧を描くと言葉を続ける。
『まぁ、それはいいだろう。彼らは確かに見込みがある。けれど、あのメンバーだけで行かせるのは実のところ不安でね。先の話の通り、俺や八人将は迷宮に入ることが出来ない。誰か代わりの者が彼らを見ていてくれたらと思っていたんだ。君は君の目的が果たせるし、俺は彼らの保護者になる人間がいてくれて安心だ。悪い話じゃないと思うが、どうかな?』
 シンドバッドの表情を伺う。朗らかな表情で流れるように言葉を重ねるその真意は、ミディにはわからない。
『保護者たる人物が必要ならば、私でなくとも、城の誰かに頼めば良い事でしょう』
『俺は君が適任だと思ったんだけど、どうかな』
『少なくとも、私に戦う力はありません』
『少なくとも、薬で癒やす事は出来るだろう』
『それなら彼らに持たせれば良い話です』
『適切な処置が出来る人間がいてくれたらこの上なく心強いんだがな』
 ささやかな抵抗もまるで意味なし。思わず眉間にしわが寄ってしまったのは、許して欲しい事だ。
 なんで、誰にも言ったことがないのにミディが薬に『何か』を求めているという事を知っているのだ、この人は。いや、きっと本当は知らないのだろう。感づいてはいるかもしれないが。
 それらしい事を言って、相手の反応をじっと見る。今まさにそうしているように。ミディが顔を背けても、ミディが足を引いても、その分だけ距離を詰めて、顔を覗きこもうとする。
 でも、決して直に触れる事はない。まるで目の前にある水槽の中で泳がせるように。ちゃんとした泳ぎ方もわからぬままに手足を必死に動かしている様を。水槽の中で泳ぐ魚に手を伸ばすことはない。けれど、己の手中にはある、そんな距離。
 態度に出ている事からわかるように、ミディは彼の事が苦手だ。国王と平民という身分差だけが彼女を萎縮させている訳ではない。
 腹の中を明かさない人間とのやり取りは、疲れる。うっかり足元を掬われないよう気を配らないとならないから。本来、駆け引きは苦手な性分だ。彼らと対峙する時、平静を装う顔の下で常に冷や汗をかいている。
『……わかりました』
 そんなミディが仮面を剥がさないよう、やっとの思いで吐き出した言葉はこの上なく苦い味だった。
 案の定とも言える反応に、シンドバッドは苦笑を零す。
『そう嫌な顔をされると悲しいな。それなりに報酬は出すぞ?』
『全力でアラジン君達のサポートに徹しましょう』
『……君、そういう所は驚くほどにわかりやすいよな……』
 いつもそうだと嬉しいんだけどな。
 そんな会話があったのは、ちょっとした余談で。

「ミディおねえさん、大丈夫かい?」
 ふと掛けられた声に我に帰る。視線を戻せば、小さな子供が顔を覗きこんでいた。
 アラジン。くりくり大きな瞳に沿って描かれる眉が少しばかり垂れ下がり、心配してくれているのがわかる。少し、意識を飛ばしすぎていたようだ。頭のなかで未練がましく噛み続けていたシンドバッドの垂らした毒餌から口を離す。
「大丈夫です」
「そっか。ぼーっとしてたように見えたから、つい」
 ぼーっとしていた訳ではなく、うじうじじめじめしていただけだが。それは触れないでいてくれるらしい。
 アラジンが隣に座り込み、ミディの身体に纏わり付いていた陰鬱とした空気が浄化されていく。それを見ていた警護兵達は、静かに安堵の息を吐いた。よかった、甲板の空気が良くなった。
「ミディおねえさんと一緒に迷宮攻略しに行けるの、嬉しいな」
「そうですか?」
「うん、だって、ヤムさんが言ってたんだ。ミディおねえさんは薬のプロだから怪我とかもぱぱーって治せるんだよ、って!」
「ヤムライハ様がそんな事を……」
 やや表現がオーバーな気がするが、いつの間にそんな事を話していたのだろう。
 とはいえ、アラジンの言うことは外れている訳でもなく、戦闘力に乏しいミディは代わりに麻袋いっぱいに薬を詰め込んでいた。
 迷宮に行ったことのないミディにとって、迷宮とはとてつもなく危険な所、という認識しか持っていない。だから、万遍なく様々な種類の薬を持てるだけ持ってきた。あと、ヤムライハと一緒に作った例の魔法道具も少量。こっちは、数が無いから自衛程度にしか使えないだろうが。
 これらは無料で提供するつもりはなく、すべてシンドバッドに請求する予定だ。数日間市場に出店できない損失は大きい。少し上乗せして請求しようと思う。
 だって、シンドバッドが報酬はそれなりに出すって言ったんだもの。遠慮無く好意に甘えようじゃないか。腹の中で弾いた算盤の結果にミディはにっこり微笑んだ。
「アラジン君達のお役に立てると良いのですが」
「うん、よろしくね!」
 先ほどまでシンドバッドのエサを肴にひとりでうじうじじめじめ悔いていたというのに、今ではすっかり機嫌を取り戻しているミディ。よもや『お役に立てた』分だけ彼女の懐が豊かになるから微笑みを浮かべているのだとは露とも思うまい。
 彼女が腹の中で何を考えているかなんて微塵も知らないアラジンは、へにゃりと気の抜けた笑顔になった。子供の笑顔は無条件に可愛い。しかし、そのかわいい笑顔のまま胸元に埋まりにかかる姿は可愛くない。本人はこの上なく幸せそうな笑みを浮かべているのに、ぜんぜん可愛くない。曝け出した胸の谷間で至福の笑みを浮かべるアラジンに、微笑みを一転させ困惑の表情を浮かべどう対処しようか悩んでいると、にょっきりと伸びてきた第三者の腕がアラジンの首根っこを掴んだ。
「おい、何してんだよアラジン!」
「あ、アリババくん」
 見れば、昨日シンドバッドの執務室で顔を合わせた子供達のうち、金髪の少年がミディからアラジンを引き剥がしてくれていた。不満気な顔で彼の腕にぶらさがるアラジンに苦笑を漏らす。
 彼の背後には赤髪の少女と黒髪の少年もいた。昨日はろくに言葉を交わさぬまま解散してしまった為、改めて挨拶をしようと立ち上がる。
「俺、アリババです。こっちはモルジアナ」
「私はミディ。昨日王さまにご紹介頂いた通り、薬剤師を務めております。どうぞよろしくお願いします」
 握ったアリババの手はミディよりも大きく、節榑立った掌は見かけによらず沢山の苦労を重ねている事が伺えた。やや見上げる位置にある彼は人懐こい笑みを浮かべていて、つられてミディも微笑む。
 続いて握ったモルジアナの手も、ミディよりは少しばかり小さいが、その皮膚は固かった。華奢な体格ながら無駄なくしなやかに筋肉がついており、無表情に自分を見上げる目は特徴的だ。
 目を引く赤髪に特徴的な目尻を持つ戦闘民族ファナリス。ミディが八人将の一人であるマスルール以外のファナリスと会うのは初めてだ。一見して普通の少女に見えるのだが、こんな彼女でも常人離れした怪力を有しているのだろうか。
 次いで、黒髪の少年に向き直った。差し出された手を握り、顔を見る。
「練白龍です。よろしくお願いします」
「はい」
 煌帝国特有の民族衣装に身を包んだ白龍は、左目を覆う大きな火傷痕が特に目を引いた。シンドバッドが予備知識として教えてくれた事だが、彼は煌帝国の皇子なのだそう。
 皇子。そんな身分の少年が、顔に大きな傷を負った経緯はなんなのだろう。無意識に考えようとして、やめた。そんな事、知ったってどうしようもない。
 白龍だけでない。詳細こそ教えてくれなかったが、アリババやモルジアナも、複雑な事情を抱えてこのシンドリアに身を置いているのだと、シンドバッドは言っていた。複雑な事情を抱えながら、シンドリアで過ごす。それはミディも同じ。
(……訳ありな者達の集い、という事ですか)
 シンドバッドは何を考え、彼らに自分を同行させたのだろう。
 握った白龍の手は、温かかった。



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