02:穏やかに流れる


 ちゅんちゅんと囁く鳥のさえずりが、まどろみの中にある意識を優しく引き上げる。
 ぼんやりとした意識のまま、ぬるま湯につかったような毛布の温もりを堪能していたが、急かすように窓を突くクチバシの硬い音に仕方なく身を起こす。肩に辛うじて掛かっていた薄衣がするりと落ちるのも気にせずに毛布を跳ね除けて立ち上がり、窓を開け放つと外はまだ薄暗く、遠くで僅かに姿をちらつかせている太陽が眩しく見えた。
 ほぼ裸に近い格好である状態を気にした風もなく、窓辺に置いたままの小皿を引き寄せ、寝所の傍らにあるチェストからパン粉を詰めた袋を取り出すと中身を適当に盛り付ける。待ちわびたと言わんばかりに小皿に群がった鳥たちを眺めながら、ひとつ大きく伸びをした。ぼさぼさの黒髪が動きに合わせて揺れ、あくびで潤んだ瞳は漆黒に濡れている。
「今日もいい天気ですねぇ」
 ちゅん、と同意するように鳥がさえずる。
 あっという間に用意した餌を平らげた鳥たちは用は済んだとばかりに飛び立ち、後は緑の香りを乗せた朝の爽やかな風が部屋に舞い込むばかりだ。
 風になびく黒髪がふわふわ揺れるのを心地よく感じ、瞼を降ろす。

 南海に浮かぶ孤島に築き上げられた王国シンドリア。
 その街のはるか片隅、小高い丘の上にある緑豊かに生い茂る家の中で繰り広げられる、目覚めの一幕。

 ミディの一日は忙しない。
 朝陽が登ると同時に訪れる鳥たちを目覚ましに一日が始まる。
 餌やりを終えた後は朝食を摂って身支度を整え、庭に無造作に生え散らかっている植物たちの手入れをするのが日課だ。
 ぼさぼさの黒髪はブラシで撫で付けてもふわふわのままで、視界にまで入り込んでくる横髪をリボンで結って邪魔にならないようにする。ワンピースの上からコルセットを巻きつけ、ゆったりした羽織に袖を通してサンダルを履く。最後は顔に軽く粉を叩いて紅を差して、身支度は完了だ。
 身なりを整えた所で庭に出て、腰にぶらさげている園芸用のチョークバッグから取り出した鋏を片手に伸びた雑草や不要な枝を取り除きつつ、植物たちの状態を見る。見ていく中で採取して問題ないと判断したものは丁寧に摘み取り葉を揃えて麻袋にしまいこむ。
 広い庭を手入れするのは中々骨が折れる作業だが、生活の糧になるものたちであるだけに手を抜くことは出来ない。
 やがて植物の手入れを終え家に戻り、採取した植物を保管して戸棚からいくつかの瓶を取り出す。瓶の中には色とりどりの粉末が入っていて、瓶の蓋にはそれぞれ手書きのメモが書かれている。それらを丁寧に木箱の中に並べ、蓋を閉める。
 木箱の傍らに置かれていた羊皮紙に手早くリストを書き込み、懐に仕舞い込めば準備は完了だ。
 そうしている間に陽もすっかり登り、丘の下から賑やかな喧騒が聞こえてくる。それに誘われるように家を出たミディは、のんびりとした足取りで喧騒の元へ向かって歩き出した。
 シンドリアの市場に、自分がつくった薬を売りに行くために。

 腕に抱えた重い木箱の中身をがたがた鳴らしながら丘を降り、しばらく歩けば途端に人だかりに囲まれた。
「ミディせんせー! おはよー!」
「フレイくん、おはようございます。今日も元気ですねぇ」
「こないだせんせーがくれた薬のおかげであっと言う間にメリルの病気が治ったんだ! ありがとな!」
「おや、ミディ先生。今日も朝から精が出ますねえ」
「だってみなさん、私がこうして降りてこないと家まで押しかけてくるじゃないですか」
「はっはっは、それだけ先生の薬が効くって事さ」
「ミディ先生! 今日こそは俺の所にきてくれよ!」
「お怪我をされていたり、病気に掛かっているのであればすぐにでも伺いましょう」
「そんな、俺はいつだってミディ先生という恋の病に掛かって……って、あああ待って行かないで」
 掛けられる言葉に一言二言返しながら歩いて行けば、やがて市場の中で自分に宛てがわれた出店スペースにたどり着く。他の露店とくらべてこぢんまりとしたそこはシートで他の店と区切りをつけ、真ん中に椅子が二つ並べられているだけで他には何もない。それ以外に何かを並べる必要もないからだ。
 寂しそうに並んでいる椅子に積もった砂埃を軽く払って腰掛ければ、それを待ちわびていた人々がのそのそと並び始めた。
 並んだ椅子の一つにミディが座り、もう片方の椅子に腰掛けた客から症状や要望を聞き、それに適した薬を必要な量だけ包紙につつむ。服用の際の諸注意を丁寧に説明しながら渡せば、客は何度も頭を下げながら代金を置いて去っていく。
 時たま世間話をしたがる客をやんわり止めつつ捌いていけば、陽が真上に差し掛かる頃には用意した薬は全て売り切れてしまった。まだ並んでいた客に店仕舞いを告げ、残念そうな顔をしている彼らに「また明日くるから」と声を掛ければ名残惜しそうしながらもまばらに去っていく。
 この後は適当な飲食店で昼食を摂り、依頼が無ければ家に戻って今朝採った植物を薬に精製して午後を過ごすのが恒例だ。
 空になった木箱に売上金を詰め、今日はどこでお昼を食べようかと考えながら立ち上がると、さきほどまでいなかった人物がそこにいた。予想外な訪れではあるものの、その人物をよく知るミディは穏やかに微笑む。
「ヤムライハ様、こんにちは」
「ミディ、相変わらず元気そうね!」
 大きな黒いとんがり帽子を被っている、ヤムライハと呼ばれた女性はにこやかに笑いかけた。
 凛とした力強さを秘める海色の瞳は知性が溢れ、帽子の下できらきら輝く水色の髪は仕草に合わせてさらさら流れ、耳から伸びる巻き貝と大きくはだけた胸元を飾る貝の装飾品はまるで彼女がお伽話に出てくる人魚姫のようだと錯覚させる。
 相変わらず美しい人だと思いながら眺めているとにわかに肩を掴まれた。
「ねえミディ、どうせこの後は暇なんでしょう? 一緒にお昼を食べましょ! 紹介したい子もいるのよ!」
「紹介したい子……?」
「それはねぇ、この子よ!」
 ほら、と彼女が数歩横に歩くと小さな子供が現れた。
 白いターバンを頭に巻き付け、空色のベストの下にさらしを巻きつけてだぼっとしたズボンを履いている子供。首からぶら下げている大きなたて笛はなんだろうと考えるミディと視線を重ねた少年は、きらきらとした表情で見上げてきた。
「この子はね、アラジンくんって言うの。先日シンドリアに来たばかりで、『魔法使い』なのよ!」
「へえ、魔法使いですか……」
「今は食客として王宮に身をおいているのよ。ミディの力になれるかもと思って連れてきたの。ね、アラジンくん!」
 魔法使いとしてアラジンを紹介したヤムライハは、同意を求めるように隣にいるアラジンを見た。しかし、そこにたった今紹介したばかりの子供の姿は無く、代わりと言わんばかりに砂埃が風に吹かれて舞っている。
 ならば、アラジンは一体どこへ行ってしまったのか。答えは直ぐに出された。
「おねいさん!!」
「きゃあ!?」
「君がヤムさんが言ってたミディおねえさんなんだね! 僕はアラジン!」
「や、やめ……っ」
 きらきらとした表情でミディを見上げていたアラジンは、事もあろうにその胸中へ飛び込んだ。
 胸元どころか肩まで大きく広げているヤムライハほどでは無いが、はだけたミディの白い胸元からは豊かな膨らみが覗いており、そこに顔を埋めたアラジンは柔らかさを堪能するように頬を寄せ唇を寄せ好き放題だ。
 白昼堂々のセクハラをかましながらも丁寧に自己紹介をする少年のあまりに予想外な行動に、ミディは完全に頬を染め上げて固まってしまう。やわやわと小さな手に揉みしだかれる乳房を見たヤムライハは、されるがままでいる可哀想な友人を救う為に迷うこと無く杖を振り上げた。
「こんの、エロガキが!!」
 硬いもの同士が強かにぶつかり合う、容赦の無い音が市場に響いた。
 脳天目掛けて振り下ろされたヤムライハの杖に頭を抱えたアラジンは、ぺしゃりと力なく地に伏せる。怒りに目を吊り上げるヤムライハはその隙にミディの腕を引っ張って背後に庇った。
「ひ、ひどいよヤムさん……なんてことしてくれるんだい」
「それはコッチの台詞よ!」
 ヤムライハの背に庇われながら乱れてしまった衣服を整えたミディは改めてアラジンを見る。
 よほど思い切り殴りつけられたのだろう、こぶができてしまっている額は痛そうだ。
「全く、もう! ごめんねミディ。私の時もやられたのよ、これ」
「は、はぁ……」
 今度やったら身体ごと蒸発させるって言ったわよね? と低い声でアラジンに脅しかけていたヤムライハはくるりと振り返ると困ったように肩を竦めて見せた。
 ヤムライハも同じ事をされたのか……可愛い外見をした幼い少年は、中々将来が不安なようだ。ミディは思わず遠い目になる。
「ごめんよミディおねえさん……つい身体が動いちゃって」
 つい、で初対面の女性の胸を揉みしだいてたまるものか。
 ミディはそう思ったが、それを口にすることはせず代わりに手を差し出す。ヤムライハが十分すぎるほど成敗してくれたから、これ以上怒っても仕方がないと考えたのだ。
「アラジン君、私はミディ。このシンドリアの街で薬剤師を務めております。どうぞよろしくお願いいたします」
「よろしくね、ミディおねえさん!」
 ぎゅ、と小さな手のひらを握って微笑みかける。
 一瞬目を見開いたアラジンは、しかしすぐに嬉しそうな表情に塗り替えると大きく頷いて手を握り返すのだった。

 南海に浮かぶ孤島に築き上げられた王国シンドリア。
 その街のはるか片隅、小高い丘の上にある緑豊かに生い茂る家に住む薬剤師の女。
 そんな彼女の日常が、この出会いを起点に少しずつ変化していく事になったのだと気付くのは、まだまだ先のこと。



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