01:終わりを告げる朝


 緑豊かな美しき世界の中にあっても、私は『あの日』に囚われたままでいる。
 目に痛いほどの青空が一望できる窓から舞い込む風に頬を撫ぜられても、この曇った心を晴らすことは叶わない。

 今にして思う。
 あの日覚えた違和感が告げるままに行動していれば、あるいは胸中に渦巻くこの黒い感情を産み出すこともなかったかもしれない。
 今にして思う。
 あの日感じた恐怖に抗って駆け戻っていれば、あるいは無くすものなど何も無かったかもしれない。

 あるいは、あの時、ああしていたならば。
 あるいは、あの時、こうしていたならば。

 過ぎた時間が巻き戻ることはなく、失くしたものが帰ってくることもない。
 塞ぐ術のない喪失感を埋めたいと燻る濁った心を人知れず抱えながら、無情に過ぎてゆく時間の流れにただ身を委ねていた。



 男にとって朝とは、陽が昇るよりもずっと早い、草葉の窪みに露が溜まりはじめる時間帯を指す。
 目覚めの早い鳥がさえずりはじめる頃、まどろみに引きずられる身体をなんとか寝所から起き上がらせ、夕べのうちに水瓶に溜めておいた水を使って顔を洗い、喉を潤す。
 冷え切った水は男の意識を覚醒させるのにはちょうど良く、寝ぼけていた頭がハッキリした所で家の外に置いていた荷車を引き、畑に向かう。
 ガラガラやかましい古びた荷車と共に歩くこと暫し。家の裏手から伸びる道に沿って畑に向かえば、薄暗いながらも一面に実りの色が見て取れた。
「やっぱ、魔法ってぇのは、すんげぇもんだな。一晩で作物が育っちまった」
 目覚めて一番に畑に来たために剃る事の出来なかった無精髭を撫でながら、誰にともなくごちる。よいしょ、としゃがみ込んで手近なところに生えていた大きな葉を引き抜いてみれば、豊かに実った作物が現れた。
 土を払って観察してみると、今まで男が手間暇を掛けて育てていたのが馬鹿らしくなってしまうほどの立派な出来だ。服の裾で丁寧に擦って泥を落とし、一口かじる。
「……うん、こりゃあ、お上に献納しても問題ねぇ。見事なもんだ」
 ぽりぽりと小気味の良い音を口内に響かせながら味を確かめ、頷く。咀嚼し終えた男はそのまま作物の収穫に取り掛かった。

 やがて陽が昇り始める頃、城に作物を献納し終えた男は帰路に着いていた。
 ガラガラやかましい荷車は作物を運ぶのに必要不可欠で、おんぼろながら男にとって仕事の相棒と言って差支えの無い、大事な物だ。
 荷車の車輪が街の舗装路とぶつかり合う音を街中に響かせ、街の人達に目覚めの時を教える。それはこの辺りではお馴染みの光景で、男は上機嫌に鼻歌を歌いながら荷車を引いていた。
 大きな通りを荷車の音を立てながら歩き、やがて曲がり角に差し掛かれば、小さな足の駆ける音が近付いてきた。
「おじさん、おはよう!」
「おぉ、お嬢ちゃん。おはようさん」
 曲がり角から元気よく飛び出してきたのは小さな子供だった。年の頃は十か、それよりも少し上くらいか。やや寝ぐせの残る髪を揺らし、手袋のはめられた小さな手は麻袋を握りしめている。
「今日も、薬草を採りに山にいくのかい?」
「うん! 私ね、もう図鑑を見なくても薬草が見分けられるようになったんだよ!」
「そいつぁ凄えや、将来が楽しみだねえ」
「えへへ、早くお父さんとお母さんの役に立ちたいから、頑張るの!」
 この子供は、男の近所に居を構える薬剤師一家の娘だ。今時珍しく両親ともに健在で、更には娘に教養を与える余裕まであるという、この国にしては恵まれた家庭の子供。
 可愛らしくも将来有望な小さな子供に、男はさきほど畑で採れたばかりの作物の余りを手渡しながら目尻を下げる。
「おじさんも応援してるから、がんばれよな」
「ありがとう! それじゃあ、行ってきます!」
「あぁ、行ってらっしゃい」
 麻袋を握っていない方の手で作物を受け取った子供は、受け取ったままの手で一口かじってみせると「おいしい」と笑顔を見せる。その屈託の無い笑顔が見たくて、わざと作物を一つだけ残していた男の目尻はますます垂れ下がり、笑み皺が深く刻まれた。
 作物をかじりながら元気よく手を振って駆け出していった子供を見送り、ややあって息を吐く。
「いやぁ、子供はかわいいもんだね。俺の息子も生きてたらなぁ……」
 目尻に刻まれたばかりの笑み皺が、悲しげに歪められていた。
 産まれてからというもの、ずっとこの国で暮らし、王家の人間が口にする作物を献納するという大役を担う男は、その昔、貧困で妻と息子を亡くしている。
 今でも貧相な暮らしだとは思うが、何日もの間、泥水だけを啜って生き伸びねばならず、耐え切れなかった家族が次々と帰らぬ人になってしまった当時と比べれば遥かにマシだ。何故ならば、日照りが続いても、土地の養分が足りず作物が育たなくても、魔道士がひとたび杖を振るえばたちまち豊穣な土地に変わり、更には撒いた種もあっという間に芽吹いて実ってしまうのだ。
 ここ数年、この国に住む魔道士達は、何故だか知らないがその魔法の力を男ら国民に惜しみなく分け与えてくれるようになった。
 そんなに凄い力を持っているのなら、もっと早くに与えてくれれば妻と息子は飢えで苦しみながら死ぬことも無かったのに、と思わずにはいられなかったが、いつも男の仕事を手伝いに畑にやって来る魔道士は「色々と準備が必要だったのだ」と言っていた。何を色々と準備していたのかはよくわからないが、彼らが協力してくれているお陰で、男は家族を亡くした寂しさを抱えつつも、飢える事なく日々荷車を引く事ができている。
 しかし、近頃耳に挟む噂によると、そんな有能な彼らを王家の人間が独占しようとしているらしい。せっかく魔道士達が自分達の為に力を振るってくれるようになったというのに、酷いものだと思う。
(こんな便利な力なんだ。お国が独り占めしてねぇで皆で分け合うべきだよなぁ、うん)
 男は王家に作物を献納するという仕事柄、魔道士の恩恵に与る事が出来ているのだが、そうでない者の方が圧倒的に多いという。更に聞き込めば、平等な魔道士の恩恵を求める国民達が王家の人間と小競り合いを始めているという噂もあった。
 けれど、貧相な暮らしながらも飢える事なく日々を過ごせている男にとって、それはどこか他人事のような、謂わば対岸の火事のように思えていた。
 今日、この時までは。
「うん? なんだか、広場が騒がしいな……?」
 陽が昇り始めたとはいえ、まだ人々が活動するには早い時間帯だ。だというのに、広場の方からは何故だか喧騒が聞こえてくる。
 一体何が起こっているのかを確かめるべく、荷車を引きずって広場に足を踏み入れた男は愕然とした。
「王族貴族を皆殺しにしろーッ!!」
「魔道士を独り占めさせるなーッ!!」
「王家の人間は一人も逃がすなーッ!!」
(……なんだ、これは……)
 中には、見知った顔もいた。
 中には、向かいの家に住む男もいた。
 皆一様に殺意をたぎらせ、手には農具や刃物を持ち、頭上高くに掲げている。
 異口同音に叫ぶのは、魔道士を独占しようとする王家への憎しみに満ちた言葉で、あまりに異様な光景に男はその場に立ち尽くす他無かった。
「もう我慢なんてできるか! おい、お前ら行くぞ、クーデターだ!!」
「あぁ、やってやらぁ!!」
 肉屋の男が肉切り包丁を振り回しながら叫べば、幾人もの威勢の良い声が続いた。
 広場の片隅で立ち尽くしている男に気付かないまま、殺意に満ちた彼らは城へ目掛け行進を開始する。
 やがて凶器を手にした者が皆広場から立ち去ると、男は糸が切れたようにその場にへたり込んだ。男の手を離れた荷車の引き手が舗装路にぶつかり、乾いた音を響かせるが、男の耳にその音が入ることはない。否、聞こえていても、気にする余裕がなかった。
「あぁ……あぁ……なんてぇ事だ……」
 戦が、内乱が、はじまってしまう。
 男が思っていたよりも遥かに深くまで、国民の心に巣食う深淵は怨嗟で満たされていたのだ。もう間もなくすれば、どこかから火の手が上がり、誰かの断末魔が聞こえ始めるだろう。
 先ほどの子供に『おじさん』と呼ばれるほどの歳を重ねている男にとって、戦はこれがはじめてではない。はじめてではないからこそ、かつて戦で味わった恐怖が蘇り、怯え竦み、身体が動かない。早く逃げなくては、けれど、どこへ。
「そ、そうだ、お嬢ちゃんとこに、逃げるよう、伝えにいかねぇと……」
 ふと、男の脳裏に先ほどすれ違った子供の笑顔が浮かんだ。
 あの子供とその家族は、妻と子供を亡くした自分にとって、とても眩しい存在だ。時には仲睦まじさを羨むほどに、薬剤師家族の中に己の妻と子供との叶わぬ家庭の幸せを重ねて見ていた男は、なんとしても生き延びて欲しいと思った。
 今回の内乱が王家を相手に勃発したものならば、王家に贔屓にされているあの家族はきっと見せしめに殺されてしまうと考えたのだ。
 荷台に掴まりながら震える身体を何とかして立ち上がらせると、相棒とも言える荷車をその場に置いて薬剤師一家の住む家へ走る。
 広場を出て何度目かの角を曲がった先に、彼らの住まう家はある。どうか無事でいてくれと願いながら、足をもつれさせながらも最後の曲がり角を曲がりきった時、男の眼前に燻りながら踊る灰が現れた。
「……ぁ、あ」
 轟々と、むせ返る熱気を孕んだ黄金色が辺り一面に広がっていた。まるで炎の渦に飲まれてしまったかのように、薬剤師一家の家は燃えていた。
 間に合わなかったのだ。
 きっと、薬剤師夫婦はあの踊るように燃え盛る炎に包まれ、死んでしまっただろう。先ほど広場に足を踏み入れた時同様、男は呆然と立ち尽くす。
 その時、何処かから怒号と悲鳴が聞こえて来た。それは然程距離が離れておらず、男が力なく振り向けば必死の形相で駆けて来る貴族の姿があった。
「ひィ、ヒイ! た、たすけ!」
 豚のように肥えた貴族の男は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を歪めて男目掛けて走り寄る。その姿はどこかで見覚えがあったのだが、薬剤師一家の死から現実に戻れないでいる男の思考は最早止まっており、それが誰だったのかを引き出す事が叶わない。
 燃え盛る薬剤師の家を背に、動けないままでいる男はその背中に貴族が回り込んでも、その身を揺さぶられても反応を返さない。
「お、おい、お前! 確かいつも献納に来る奴だな!? 俺を助けろ、はやく!」
 前方から、聞き覚えのある激しい怒声が聞こえてくる。なんとかそちらに焦点を合わせれば、これまた見覚えのある男が鎌を片手に叫び声を上げながら此方に駆け寄ってくるのが見えた。
「何ボサっとしてんだ、あ、あいつを何とかしろよ!」
「魔道士を独占する王族貴族もっ、それを庇うお前も死ねッ!」
「ひ、ヒィイッ!!」
 貴族の男が背中にしがみついているせいで、避けようにも身体が動かない。それどころか、盾にするように押し出される始末だ。
 男はそこではじめて、眼前で鈍くぎらつく鎌を振りかぶり、自分と貴族の男を殺そうとしている人間の正体が近所に住む青年であることに気が付いた。そして、この青年と昨晩、安い発泡酒を飲み交わしていた事も思い出す。
 しかし、相手が自分に気がついた様子はない。怒りのあまり、目的である貴族を殺そうとするあまり、誰を巻き込んでいるかわかっていないのだ。
(あぁ……この国は、もう……)
 呆然としたまま、怯えることも忘れ眼前に迫る鎌の切っ先を眺めていた男は、もう一度その脳裏に子供の顔を思い浮かべた。
 あの後、まっすぐ山へ向かっていたならば、きっとこの地獄のような状況には巻き込まれていないだろう。幼いながらも聡い子だと思うから、街の異変にきっと気付いて、そしてどうか逃れて欲しい。
 口に出すことはなかったものの、我が子のように可愛がっていた子供の無事を、男は眼前に迫る凶器も忘れて願った。

 直後、男の首元に憎しみの刃が突き立てられ、戦火の街に断末魔の叫びが木霊した。



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