26:凍てつく雨に打たれ


 絶えず降りしきる冷たい雨と、それによってもたらされる湿気の不快感。
 雨に打たれ芯まで冷え切った身体を黙々と動かし、所々砕かれた舗装路を突き進む。
 ようやく辿り着いたフライヤの故郷は、おぞましく感じるくらいに静まり返っていた。
 いっそ無機質にも聞こえる程に絶え間なく雨が石畳を打ち叩く音の他に聞こえるものといえば、無残に侵略され破壊しつくされた居住区の中を吹き荒ぶ冷たい風の音と、結界石が壊された事で侵入してきた魔物たちの水気を含んだ重い足音ばかりだ。
 追われ、逃げ惑い、そして無残に殺されたであろうブルメシアの民たちの亡骸がそこかしこに転がっていて、その誰もが苦悶の表情を浮かべたまま絶命していた。
 青白いネズ族の面立ちは白く冷え固まっていて、彼らが命を奪われてからある程度の時間が経過している事を知らしめる。
(ひどい……どうして、ここまでする必要があるの)
 目の前に広がる凄惨な光景に、ハクエは胸の奥から喉にかけて強く込み上げてくるものを感じ、思わず胸元に手をやった。
 ぐ、と喉を鳴らして息を飲み、目を瞑る。何度か深呼吸を繰り返し、落ち着いてから目を開けば、心配そうに様子を伺うジタンの姿が見えた。
「ハクエ……大丈夫か?」
「大丈夫……平気よ」
 啖呵を切って同行した手前、心配されるのが気まずくて、ハクエは視線を逸らしながら答えた。
 それ以上追求してこようとはしないジタンの表情もまた心なしか青ざめていて、そんな彼に心配されている自分が情けなく感じる。
 戦地に飛び込む覚悟を、人を斬り捨てる覚悟をしてリンドブルムを出てきたのだ。ブルメシアの民が犠牲になっている事くらい、想像に難くなかった筈だ。
 もう一度大きく息を吸い、深く吐き出す。湿った雨の匂いが肺に満ち、その中には僅かな死臭が混じっていた。
 最後にもう一度深呼吸をしてから歩き出したハクエに、立ち止まっていた一行もまた歩き出した。

 瓦礫の街と成り果てた居住区の中を、時には崩落した建物の中をも通り抜けながら進んでいく一行。
 所々でギザマルークの洞窟で遭遇したような黒魔道士兵達と遭遇する事もあった。
 物陰に隠れることでやり過ごす事が出来たあたり、探知能力は低いらしい。他に生者の気配はなく、ハクエ達は魔物と黒魔道士兵をやり過ごしながら王宮の入口へ辿り着いた。
 ブルメシアの居住区と王宮のある区域は分厚い壁で隔てられていて、居住区の中心部に位置する大きな扉を潜り、壁の中に作られた長い階段を登って超えていく事になる。
 万が一に王宮へ攻め入る勢力が現れた時、その侵攻路を絞る為の策であったのだろうが、圧倒的な力に蹂躙し尽くされた今となってはただの薄暗い通路でしかなかった。
 壁の中に掘られた通路の両脇には等間隔に松明が燃えていて、雨に打たれ身体の冷えきった一行はその明かりに僅かな温もりを感じた気になる。実際の所は、その松明も燃え残りが燻ぶっているような弱々しさで、暖を取るにも虚しく感じるほどであったが。
 階段を登るべく段差に足を掛けていたフライヤは、心許なく揺れる松明の炎に視線をやってその場に留まった。
 先に登り始めていたハクエ達は、彼女が付いて来ない事に気が付いて足を止める。
 ぼうっと松明の残り火を見つめるフライヤから伸びる影が、炎の揺らめきに合わせて心許なく揺れていた。
「ジタン、ハクエよ……。この階段の先はブルメシアの王宮じゃ。これまで見た居住区の荒れ様を見ると、私はこの先へ進むのが恐ろしい……」
 弱々しく吐き出された言葉。
 竜騎士の鎧に身を包んだ勇ましき女戦士は、しかし今だけはハクエと変わらぬ年頃の少女のような心細い表情をしている。
 ジタンとハクエはそんなフライヤに向き直ると、励ますような明るい声を出した。
「何言ってるの、王がまだ死んだって決まった訳じゃないわよ」
「ここで立ち止まっちゃだめだ、あいつらの正体を見極めようぜ!」
「ボクもボクと似た格好をしたあいつらが、何者なのかを知りたい……」
「ほら、こんな小さなビビだって、この現実を正面から見つめようとしているんだぜ」
 二人に続いて声を上げたビビの背を優しく押すジタン。
 背を押されるがままに階段を数歩降りたビビは、フライヤの前で立ち止まるとぎゅっと杖を握り締めて語りかける。
「フライヤのおねえちゃん、一緒に行こうよ、ねえ……」
「ビビよ……おぬしは恐くはないのか? おぬしがこれから見る現実は、おぬしの生き方に影を落とすやもしれぬぞ?」
 弱々しい声色とは裏腹に、フライヤに語りかけるビビの言葉は芯が感じられた。フライヤは膝を折って目線を合わせ、ビビに問い掛ける。
 フライヤからの問い掛けに、ビビは握り締めた杖の柄に視線を落とし、少しばかり考え込んだ。
「う〜ん、そうかもしれない……だけど……、だけどボクは……、ボクがどんな人間なのかを知りたいんだ。もしかしたら……人間じゃないのかもしれないけど……」
 悩みながら、ぽつりぽつりと紡がれる言葉たち。最後に呟かれた言葉が、心許なく空気に溶けていく。
 フライヤを見上げる瞳は不安と怯え、恐怖に満ちていた。それでも真実を知りたいという一心でそれらを押さえ込んでいるビビ。フライヤはとんがり帽子の下で複雑に輝く黄色をじっと見つめた。
「ビビ……」
 その時、階段の上にある扉が慌ただしく開かれた。
「誰かくる!?」
 ジタンとハクエが階上を見上げ、思わず腰の得物に手を掛ける。
 しかし、駆け下りてきたのは黒魔道士兵ではなく、数人のネズ族だった。
 男女が一人ずつに、小さな子供が複数。ひと目見て家族連れである事がわかるそのネズ族達は、ジタンとハクエの奥にいるビビに気が付いて足を止めた。
 表をうろついている黒魔道士達とそっくりなビビの姿に、怯えた表情を浮かべ、叫ぶ。
「ここにもいやがった! おまえたちも黒魔道士の仲間なのか!?」
「オレたちは違う!」
「嘘をつくな! お前の後ろに黒魔道士がいるじゃないか!」
「ボクは違うよ! ボクは人を殺したりしないよ!」
「本当か!?」
 叫ぶネズ族の男に、ジタンとビビが否定する。
 それでも疑うような眼差しを向けている男に、膝を付いて俯いていたフライヤが立ち上がった。
「本当じゃ!」
「あっ、フライヤ!」
 声を上げたフライヤに気付いたネズ族の男は、同胞の存在に安堵し、駆け寄った。
 フライヤもまた、今まで見付けることの叶わなかった生存者の存在感に顔を綻ばせる。
「久しぶりじゃな、ダン!」
「久しぶりってもんじゃねえぞ! どこへ行ってやがったんだ!? ……と聞いてるヒマは無ぇ! もうすぐ傍まで黒魔道士の奴らが追い掛けて来ている、おまえたちも逃げろ!」
 ダンと呼ばれた男は、フライヤの肩に手を置いて再会を喜んでいたが、階上で開け放たれた扉から響いてきた雷鳴に肩を震わせると階下へ身体を向けた。
 彼の後ろで様子を伺っていたネズ族の女と子供達も彼に続いて階段を下り出す。
 逃げるように促したにもかかわらずその場から動こうとしないフライヤに、ダンは焦れったそうに声を上げた。
「何やってんだ、早く逃げろ!」
「それよりも……ブルメシア王はいずこじゃ?」
「王か!? 王には会わなかったぜ! とにかく今の俺には王よりも家族が大切なんだ! フライヤ、王なんか放っておいて早く逃げろ! 黒魔道士たちをなめてると痛い目に遭うぜ!」
 言うが早いか、ダンは階下で待つ家族の元へ駆け下りると、そのまま一行が先程潜ってきたばかりの扉を抜けて行ってしまった。
 後に残ったのは扉の外から聞こえる雨音だけで、ハクエ達は同胞を見送ったフライヤへ視線を向ける。
「私には故郷が、そして王が大切なのじゃ! ここまで来て後戻りは出来ぬ、王宮へ急ぐのじゃ!」
 死の都と化したブルメシアで、それでも生存者達は生き延びるため、大切な者を守るために必死で足掻いている。
 フライヤがこの凄惨な光景の広がるブルメシアに戻ってきたのは、大切なものを――ブルメシア国王を守るためだ。
 槍を握り、勇ましく発した彼女の言葉に、ハクエ達は力強く頷いて返した。

 やがて辿り着いた王宮は無残に破壊しつくされ、瓦礫の山と成り果てていた。
 固く閉ざされた扉にはヒビが走り、打ち倒され粉々になっている支柱。扉の前に辿り着いたフライヤは、その場に力なく崩折れた。
「ひどい……」
 辺りを見回していたハクエが凄惨な状況に声を漏らし、フライヤへ顔を向ける。
 俯いているフライヤの表情は伺えない。ただ、槍を握る彼女の青白い手が真っ白になるほどに力が込められていて、震えを必死で抑え込もうとしている事だけはわかった。
「なんて言ったらいいかわからないけど……フライヤの気持ちの十分の一でも分かち合えたらと思うよ」
「……」
 崩折れたフライヤの隣に立ったジタンが、迷いながらも声を掛ける。
 それに対して反応を見せないフライヤに、時間を置く必要があると判断したらしいジタンが数歩離れた。
 そのままハクエの隣に歩み寄り、声を潜めて話しかけてくる。
「なぁ……ダガーがブルメシアに来た気配、無いように感じないか?」
 ジタンの言葉の通り、リンドブルムを出てからというもの、ここまでの道のりはほぼ休まずに歩いて来たのだが、ダガーに追いつく事はおろか、彼女がいた痕跡すら見付けることが叶わなかった。
 万が一にも道中で魔物にやられてしまっているという可能性が否定できない訳ではないが、そこは王宮騎士であるスタイナーが傍にいるのだからきっと無事だと信じたい。
 ならば、そもそもダガーはブルメシアに行くことを目的としてハクエ達一行から離脱した訳ではないという事になるのだろうか。
「……まさか、あの子……」
「誰かおる!」
 ハクエが口を開きかけた瞬間、フライヤが弾かれたように顔を上げ、立ち上がった。
 その声にハクエ達がフライヤの方へ向き直る頃には、彼女は軽やかに跳躍し、扉の脇に聳える彫像の上に飛び乗っていた。
「フライヤ!」
「王宮の中に人の気配がする! おぬしらも、はやく登ってくるのじゃ!」
 ジタンの呼び掛けにそれだけを言い残したフライヤは、そのまま王宮の廊下へ乗り込んでいってしまった。
 地上からだと、天を見上げるほどに高い位置。フライヤが居た場所に辿り着くには相当な高さをよじ登る必要があるだろう。
「登れって言ったって、オレたちは、フライヤほど簡単に登れやしないぜ……」
 言いながら彫像に近付いたジタンが、足場になりそうな所を探り始める。
 ハクエもまた近付いてみるが、どう頑張って見積もってみても、ハクエの脚力と腕力ではよじ登る事は叶わなそうだった。
「ここから登ってみるか……ハクエとビビは、どっかから隙間を見つけて入ってきてくれ!」
「う、うん」
「わかったわ! フライヤを頼むわね」
「おう!」
 フライヤのようにひとっ飛び、とまでは行かずとも、それでも軽々とした足取りで彫像をよじ登って行くジタン。
 彼の姿が彫像の向こう側へと消えていった後、ハクエとビビは顔を見合わせた。
「私達も、急ごう」
「うん」

 なんとかしてハクエとビビが通れそうな隙間を見つけ出して王宮の中へ潜り込み、ジタンたちを探していると、巨大な広間へと辿り着いた。
 円形に広がる廊下の中心部には雨が降り注いでおり、竜騎士を象った彫像が奉られている。
 その彫像の前に複数の人影を認めたハクエは、ビビを押し留め廊下の影に身を潜めた。
 ビビがハクエの後ろで屈みこむのを見届けてから広間に視線を戻すと、そこにいる面々はどれもハクエの見知った人物たちである事に気が付く。
(陛下に将軍……それに、あれはクジャ……?)
 降りしきる雨の中、それを気にした様子もなく豪奢な扇子を仰ぎ愉快そうに腹を揺すって笑っているブラネと、そんな彼女のすぐ傍に立っている女性。
 たっぷりとした栗色の巻き髪を持つ、隻眼の女将軍・ベアトリクス。
 姿勢を正し、目を伏せブラネの言葉に耳を傾けている彼女の剣技の腕前は、霧の大陸で知らぬ者はいない程である。
 きっと、アレクサンドリアはおろか、大陸中を探しても彼女の右に出るものはいないだろう。
 一見して美しく整った美貌を持つ彼女は、しかしその麗しい外見とは裏腹に『泣く子も黙る冷血女』という物騒な二つ名を有している。そんな恐ろしい強さを誇る彼女と対峙する事だけは、なんとしてでも避けたかった。
 ベアトリクスの反対側。愉快そうに笑うブラネの前に立っている、派手な格好をした長身の男。
 それは、ハクエがブラネの書状を片手にアレクサンドリアに帰ってきた日に出会ったクジャだった。
(どうしてクジャがこんな所に……?)
 降りしきる雨に髪が腕に絡みつくのを気にした様子もなく、むしろ優雅な動きでそれを振り払ってみせながら、芝居がかった仕草でブラネに何かを語りかけているクジャであるが、ハクエがいる場所からは彼らが何を話しているかを聞き取ることが叶わない。
(ううん、雨音のせいでなんて言ってるかわからないわね……)
 ざあざあと降りしきる雨は石畳を激しく打ち、跳ねる飛沫は相も変わらずハクエ達に降り注いでいる。彼らの話し声は、完全に雨音にかき消されてしまっている。
 もどかしく感じたハクエが身を乗り出そうとした時、ハクエ達の脇をすり抜けて広間へ飛び出していく者が現れた。
「!?」
「おまえたちっ! これ以上、ブルメシアを荒らさせはしないぞ!」
 槍を構えながら広間に飛び出していったのは、ブルメシアの兵士だった。勇ましく吠え、ブラネに向かって槍を突き出す。
 けれど、ブラネはちらりとも彼を見ようとせず、代わりにベアトリクスが彼の前に立ちはだかった。
 剣の柄に手を掛け、隻眼を細めてブルメシア兵を鼻で笑う。
「フッ、私をベアトリクスだと知って挑むのですか?」
「べ、ベアトリクス!」
 彼女が何者であるかを知らされたブルメシア兵は、数歩後退ると得物を取り零してしまった。
 そのまま怯えたように立ち竦む彼に、ベアトリクスはゆっくりと歩み寄る。
「その勇気だけは認めましょう。ですが私は容赦いたしませんよ!」
 そう言って彼女が鞘から剣を抜き出そうとした時、物陰からジタンとフライヤが飛び降りてきた。
 ハクエ達同様、隠れて様子を伺っていたのだろう。
 軽やかに着地した二人はそれぞれの武器を構え、ベアトリクスに叫ぶ。
「待て、ベアトリクス!」
「おまえの相手はわしらじゃ! ここは私らに任せて、おぬしは早く王をお守りするのじゃ!」
「す、すみません……フライヤさん、お願いします!」
 フライヤに庇われたブルメシア兵は、慌ててその場を去っていく。
 その様子を見たハクエとビビは、ジタンに加勢するべく広間の中心部に走り出た。ブラネ達を両側から挟み撃ちする形になり、ハクエに気付いたブラネが声を上げた。
 まさか、姿を眩ましたハクエがこんな所に出てくるとは思ってもいなかったのだろう。けれど、それにしては何故か大して驚いた様子は見られない。
「おお、ハクエではないか! ガーネットはどうした、ん?」
「陛下! なぜ、このような事をなさるのですか!」
 懇願するようなハクエの叫びに、ブラネは豪奢な扇子を煽りながら腹を揺すって不気味に笑う。
「何を言っているのだ、ハクエよ。このネズミどもは我らがアレクサンドリアを滅ぼそうと企てておったのだぞ。だから、そんな事をされる前にこちらから手を打っただけだ」
「たわけが!」
「何をおっしゃっているのですか!」
 ブラネのふざけた作り話に、フライヤが目尻を険しく釣り上げて吠えた。
 当然、ハクエもそんな言葉に騙される訳がなく、非難するように言い募る。
「霧の和平条約をお忘れですか!こんな事をしていては、また戦国時代に戻ってしまいますよ!」
 ブラネは意にも介した様子がない。それどころか、不気味な笑いを止めたと思うと、ギロリとハクエを睨み付けた。
「そんな事より、ハクエ。まだあの男を見付けられていないのか? 勝手にガーネットを城から連れ出して、挙句当初の目的さえも果たせてないお前に、私は心底失望しているぞ」
「陛下……!」
 容赦のない下卑た言葉が、ハクエの胸に突き刺さる。
 怯んだハクエが唇を引き結んで俯くが、ブラネはなおも言葉を重ねる。
「お前がさっさとあの男を探し出してくれていれば、こんなネズミどもの棲家なぞあっという間に滅ぼせたというのに。しかし、それももう要らぬ心配だ」
 そこで一旦言葉を区切ったブラネは、話している間ずっと仰ぎ続けていた扇子をピシャリと閉じると、その先端をハクエに向けた。
 そして、口角を持ち上げる。不気味に膨れ上がった頬肉で細い目が埋まり、ぎらつく眼光がより鋭利に浮かんで見える。
「お前はもう用済みだ」
 不気味な笑い声を上げるブラネ。
 ニタニタと唇の両端を持ち上げたまま、ハクエの表情が絶望に染まっていくのを愉快そうに眺めている。
「そんな……」
 もしかすれば、少しは話しが出来るのではと、思っていた。
 もしかすれば、何か少しでも彼女の心を動かすことが出来るのではと、思っていた。
 わかっていた筈なのに。わかっていたからダガーを連れて城を出た筈なのに。
 現実はどうだ。ブラネは何の役にも立たぬハクエなんぞとうに見限っていて、ハクエの声など歯牙にも掛けないではないか。
 結果、無様に詰られ捨てられてしまった。
 絶望に打ちひしがれるハクエは、立っていることも出来なくなってその場に崩折れた。水溜りの中に膝を付き、ワンピースに泥水が跳ねるが、それに意識を向ける余裕なんてハクエには残っていない。
 辺りに響く雨音が、まるで世界が切り離されたかのように遠くに聞こえる。
(なんてこと……)
 ハクエの脳裏に、かつて幼い自分を優しく抱き上げてくれた、あたたかなブラネの笑顔が蘇る。
 まるで本当の娘のように、ガーネットと変わらぬ愛情を注いでくれていたアレクサンドリアの女王陛下。
 そのあたたかな笑顔が、今目の前で不気味に笑っている冷たい眼差しの女性に重なって雲散した。
「陛下……」
「ふん。ベアトリクス将軍、こいつらを始末しろ!」
「はっ」
 うわ言のように呟くハクエを一瞥したブラネは、再び扇子を広げるとベアトリクスに無情な命令を下した。
 それを受けたベアトリクスは胸に片手を当てて一礼し、鞘から剣を抜き出す。
 降りしきる雨を受けても尚白銀に輝く彼女の騎士剣は、明確な殺意を持ってハクエ達に向けられた。
「ハクエ、しっかりしろ!」
「ハクエお姉ちゃん!」
 ベアトリクスを挟んだ向こう側にいるジタンが、へたり込んだままのハクエに呼びかける。
 隣にいるビビが慌てて肩を揺すって、ようやくハクエが現実に戻ってきた。
「……将軍」
「ハクエ。よもや貴方と刃を交える日が来るとは思いませんでしたよ」
 幼い頃からアレクサンドリア城に出入りしているハクエと、そのアレクサンドリア城の女王に仕えるベアトリクスは、それなりに面識のある間柄だ。
 ハクエが師匠に連れられてブラネやガーネットに会う際に、ほぼ必ず傍に控えていたベアトリクス。
 ブラネを母親のように思っているハクエは、口にする事こそなかったものの、ベアトリクスに対しても少なからず親愛を抱いていた。
 そんな彼女が今、ハクエを冷たい眼差しで見下ろし、刃を突き付けている。
 ハクエはいっそ泣きそうな程に顔を歪め、けれどもしっかりとした足取りで立ち上がった。
「私は、将軍と戦いたくありませんでした」
「フッ、なんと情けない……行きますよ!」
 言うが早いか、立ち上がったハクエ目掛けてベアトリクスが斬り掛かってきた。
 紙一重で刃を避け、ガンブレイドを鞘から抜き出すハクエ。
 避けられたベアトリクスは、そのまま軽やかに身を翻すと返す動作で二回目の攻撃に入る。
 一閃を描くように振るわれた切っ先をガンブレイドの刃で受け止め、刃の交わる鈍い音が雨の降りしきる王宮の広間に響き渡った。
「ハクエお姉ちゃん! ――ブリザド!」
 そのまま鍔迫り合いに入った二人を見たビビが、彼女達から距離を取って魔法の詠唱をはじめる。
 放たれた氷刃がベアトリクスに向かって襲いかかる。それをちらりと見た彼女は、ハクエを勢い良く押し切って弾き飛ばすと、返す刃でいとも容易く氷刃を砕いて見せた。
 飛び散った氷の破片がきらきらと空中を舞い踊り、降りしきる雨の中にきらめく。
 それがアレクサンドリアが誇る女将軍を美しく彩り、けれど氷雨の中に佇む彼女は標的をハクエからビビに変えたようだ。
 ぱしゃ、と水の跳ねる音と共に地を蹴ったかと思うと、素早い身のこなしでビビに近付き、容赦なく剣を振り上げた。
「小癪な!」
 騎士剣の柄を両手で持ったベアトリクスは、ビビの眼前まで接近すると叩きつけるようにして剣を振り下ろした。
 その切っ先から生まれた突風のような剣圧が衝撃波を生み出し、放射線を描きながら眼前にいるビビへと襲いかかる。
 実際に刃を浴びせられた訳では無いというのに、まるで全身を切り刻まれるかのような痛みがビビを支配する。
「うわああっ!」
 小さな身体では到底耐え切れる筈もない強烈な衝撃波にビビは堪らず吹き飛ばされ、広間の柱に勢い良く打ち付けられた。
 ベアトリクスの放った剣圧はビビもろとも広間の柱を打ち砕き、がらがらと音を立てて崩れる。
「ビビ! てめえ!!」
 そのままぐったりと動かなってしまったビビを見たジタンが、ベアトリクスへ駆け出す。
 フライヤもまたジタンのサポートに付くべく、ジャンプで空高く跳び上がった。
「何人で掛かってこようと同じ事!」
「ぐっ……!」
 素早い身のこなしをもって懐に潜り込もうとしたジタンだが、ベアトリクスの動きはそれ以上だった。
 容易くジタンの盗賊刀を受け止め、そのまま押し切ろうとする。
 その時、空に跳んでいたフライヤが勢い良く落下してきた。突き出された槍はベアトリクスを狙い、まっすぐ降下する。
 頭上に差し掛かる影で竜騎士の存在に気付いたベアトリクスは、俄に力を脱いて後方へ飛び退いた。当然ジタンは前へつんのめる事になり、大きくバランスを崩す。
「ジタン、避けるのじゃ!」
「うおっと!」
 落下しながらでは自在に方向を変えることが出来ないフライヤは、一瞬前までベアトリクスが立っていた位置にいるジタン目掛けて落ちる事になる。
 叫ぶフライヤの声に頭上を見上げたジタンが慌ててその場を退き、間一髪でフライヤのジャンプ攻撃から逃れる事に成功する。
 地面を抉るかのような勢いで繰り出されるフライヤの攻撃。これが当たったらと思うジタンの表情は引き攣っていた。
 しかし、ベアトリクスはその隙を見逃さない。
「余所見とは、随分と余裕な事だな!」
「ぐあッ!」
 ベアトリクスの声にジタンが振り向いた時には既に遅く、目前に迫った女将軍はビビに喰らわせたものと同じ剣撃をジタンに浴びせ掛けた。
 身を切り裂くような衝撃がジタンを襲い、それは地面を抉りながらジタンにダメージを与え、彼を叩き伏せる。
 そのまま流れるような動作で身を翻してフライヤに接近し、騎士剣を振りかぶる。
 刃の先端から迸るような光が立ち上ったかと思うと、それは雷鳴を伴ってフライヤを撃ち抜いた。
「あああっ!!」
 稲妻は刃のような鋭さを持ってフライヤの身体を貫き、彼女は力なく地に伏せる。
「ジタン、フライヤ!」
 瞬く間に三人を戦闘不能に追いやってしまったベアトリクスの実力に、ハクエは背筋に嫌な汗が伝うのを感じた。
 残るは自分しかいない。霧の大陸一と言われる女剣士を眼前にして、震える身体に鞭を打つ。
「さあ……残るは貴方だけです、ハクエ!」
 邪魔者は全て片付けたと言わんばかりのベアトリクス。
 ハクエが見たこともないような剣技を披露し、圧倒的な力量差を見せつけてきた彼女は、息一つ乱れていない。けれど、その眼差しには僅かな期待が宿っていた。
「あの方が手塩に掛けた貴方の実力……見せていただこう!」
 そう言って勢い良く踏み出したベアトリクスに、ハクエは横に向かって飛び退いた。
 身体が濡れるのも厭わず石畳の上を一回転し、起き上がりざまに発砲しながら走り出す。
 ベアトリクスは放たれた弾丸をいとも容易く弾いてみせる。しかし、その隙を見逃さずにハクエは彼女の懐に潜り込んだ。
「はあッ!」
 そのまま逆袈裟に銃剣を振るい上げる。
 ベアトリクスの騎士剣とぶつかり合い、弾かれた刃から小さく火花が散った。
 そのまま二度、三度と斬り掛かっては弾かれを繰り返し、互いに距離を取る。
 ハクエの額には汗が流れているが、対峙するベアトリクスは未だ涼しい顔をしていた。
「この程度ですか? 他愛もない」
「ナメてんじゃないわよ……!」
 肩を竦めてあからさまな挑発をしてきたベアトリクスに、ハクエはぎりりと奥歯を鳴らした。
 悔しいが、大陸一の実力を誇る彼女に勝てる見込みが無い。
 ハクエが全力で斬り掛かっても、彼女は打ち合いの稽古でもしているかのように軽々といなしてしまうのだ。
 真っ向勝負で挑んでも敵わない。ならばとハクエは再び弾丸を放つ。
「こんな飛び道具が私に通用すると思わないことです!」
 迫ってくる彼女から距離を取りながら、尚もハクエは銃剣を撃つ。
 走りながら左手をポーチに突っ込んで、手探りで目当てのマガジンを取り出した。弾を撃ち尽くしてしまう前にリロードし、そして。
「でりゃああああッ!!」
「っ!」
 カーゴシップで黒のワルツ相手に見せたような、銃弾の雨。
 一発一発を軽々と弾いていたベアトリクスでも、弾幕を張られては無傷では済まないようだ。
 咄嗟に飛び退って距離を取ろうとする剥き出しの肩に、弾丸が掠める。
「小癪な……ッ!」
 肩口から滲む鮮血に、ベアトリクスの隻眼が不愉快に顰められる。
 そして、弾幕を張るハクエに対して剣を振りかざした。
「その程度で私に勝てると思わない事です!」
 ひゅ、と勢い良く空を斬った切っ先が、地面を這う衝撃波となってハクエに向かっていく。
 美しく舗装された石畳を砕き割りながら一直線に襲いかかる衝撃波を防ぐ手立てもなく、ハクエは先刻のビビと同様にもろとも壁に打ち付けられた。
「あぐッ……かはっ!」
 背面を強かに壁に打ち、息が詰まる。
 正面から受け止めた内蔵が身体の中で揉みくちゃに掻き混ぜられるような感覚に、耐え切れずに血を吐き出す。
 ぱらぱらと崩れ落ちる瓦礫同様に力なく崩折れたハクエに、ベアトリクスは刃に降り注ぐ雨雫を振り払うと剣を鞘に収めた。
「おのれの浅はかさを悔いるのです……」
 吐き捨てるように言うベアトリクスに、完膚なきまでに叩きのめされたハクエ達は地を這うばかりだ。
 ハクエ達を冷たく一瞥したベアトリクスは、ブラネに向き直りながら小さく呟く。
「あの方の愛弟子というから期待していたというのに……私の闘志を満足させてくれる奴は、この国にもいないのか……」
「ベアトリクス、もう良いか? クレイラ侵攻の準備をするぞ!」
「はっ、かしこまりました」
 雨音に掻き消される程に小さな彼女の呟きは、案の定誰にも拾われる事はなく。
 豪奢な扇子を仰ぎながら静観していたブラネが焦れったそうに掛けてきた声に、ベアトリクスは一礼してその場を去った。
 ブラネもまたその場を去ろうとするが、それを止めたのはブラネの隣で彼女同様に静観していたクジャだった。
「女王陛下。あの子は好きに使っても?」
「あぁ、そうであったな。お前はハクエを使ってあの男を探しだせ。手段は問わぬ!」
「かしこまりました。高みの見物を決め込んでいるあの男が血相を変えて飛び出してくるような、とびっきりの余興をご覧に入れて差し上げましょう」
「フン、さっさとしろ」
 そう言い捨てて、今度こそ去っていくブラネ。
 それを見送ったクジャは、地面に倒れ伏すハクエ達に振り返った。
「さて……ドブネズミは置いといて……問題はこっちの少年……いや、この子だな」
 優雅な動きでそれぞれを順に見下ろしていくクジャ。
 ビビとジタンの前で一瞬立ち止まったが、すぐに興味をなくしてすり抜けていく。
 そして、ハクエの前で立ち止まった。
「う……」
「無様だね」
 自分に掛かる影に、朦朧としていたハクエの意識が薄っすらと浮上する。
 それを見下ろしていたクジャは、やがて妖しい笑みを浮かべてハクエの腕を引っ張りあげた。
 握りしめていた銃剣がガシャリと音を立てて水溜りの中に滑り落ち、反対に持ち上げられたハクエの傷だらけの身体はクジャの腕の中に収まった。
「はな……して……」
 呻くように上げられる拒絶の言葉。
 ハクエを抱き上げているクジャには聞こえている筈なのだが、まるで意に介する様子がない。
 いつの間にか広間には銀色の飛竜が舞い降りており、クジャはハクエを抱えたまま優雅な動きで飛竜に跨ると、そのまま飛び立っていってしまった。
 後に残されたのは、圧倒的な力の前に叩き伏せられたジタン達一行の呻き声と、水溜りの中で鈍く輝くハクエの銃剣だけであった。



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