27:不穏な指先
『――……』
様々な光景が、濁流の如く押し寄せては流れていく。
輪郭さえも捉えることが叶わない世界。
音は無く、ただ光景だけが浮かんでは過ぎ去っていく。
それをただ、眺めている。
肉体が闇に溶けてしまっているかのように感覚が感じられない。
けれど、視覚はただ流れる光景を認識し、脳がそれを分析しようとしてはあまりにも早く流れる世界に処理が追いつかず諦めるを繰り返す。
音もなく流れ続ける世界。
ぼんやりと眺めているうちに、ある程度続いた後にまた同じ光景が流れ始めている事に気が付いた。
その事に気が付くと、不思議とぼやけていた世界の輪郭が鮮明に浮かんでくる。
それは人であったり、自然であったり、建物であったりばらばらで、共通するのはそのどれもが記憶にないものたちばかりだという事。
唯一動いている視界と脳に、直接叩きつけられるかのような濁流。
ずっと同じ光景ばかり繰り返し見せつけられるのが苦しくて、顔を庇おうと手を動かす。
けれども、動かしているはずの手は果たしてきちんと身体から伸びてくれているのか、動いている感覚が全く感じられなかった。
瞳を閉じる。果たして瞼はきちんと降ろされているのか。
それでも世界は繰り返し繰り返し同じ情景を流し続けている。
『――……』
きっと、身体が死んでいて、それでも魂が肉体に縛られてしまったとしたなら、きっとこういう状態になるんだろうなと、現実逃避にも似た思考を抱く。
繰り返す世界。視界に映り続ける情景は、無数に流れ続けていた光景のうち、特定のものだけを映し出すようになっていた。
そうすると何故か聴覚が機能し始めて、その世界に流れる音が耳に潜り込んでくるようになる。
それは宵闇の世界。
何もかもを叩きつけるような嵐が吹き荒ぶ中、ただ必死に走っていた。
遠くで、近くで。何かが爆発する音がする。命の潰える気配がする。
ただ泣きじゃくっていた。ただ安全などこかを求めてひた走っていた。
足をもつれさせて、転倒する。まるで自分の身に起きた事のように、掌と膝に痛みが走る。
泥と涙で汚れきった顔を歪め、その場にうずくまる。
情けない声で泣きじゃくって、けれども嵐は嘲るように激しさを増し、小さな身体はいとも容易く吹き飛ばされてしまった。
天地もわからぬままに手を伸ばす。何を掴めるでもなく、空に放り出される。
『――……』
絶望に見開かれた眼に映っている世界は、果たして。
宵闇の中、何もかもを消し飛ばすような嵐が吹き荒んでいる。
何が、どこで爆発して、誰が、どこで死んでいるのか。もはやわからない。
地獄とは、こういった光景を言うのだろうか。
雷鳴轟く雲間から、禍々しい光が迸る。稲妻が迸り、一瞬視界が奪われる。
ちかちかと明滅する視界。それが過ぎ去り、再び眼が世界を映し出した時、そこには悪夢が存在した。
空を覆う巨大な目玉が、世界を覗き込んでいる。
それがひとたび瞠目した時、竜巻に飲まれている事に気が付いた。
身も心も揉みくちゃにされて、引き裂かれそうで、けれど叫び声を上げたくとも声が上がることは決してない。
目を開けていることが困難で、今度こそきつく瞼を閉じた。
巻き上げられた身体は、いつかバラバラに千切れてしまうだろう。
そう思った時、にわかに何かが力強く身体を浚い出すのを感じた。
その瞬間、世界から光と音が途絶えた。
先程まで空を支配していた恐ろしい目玉も、引き裂くような竜巻も、世界が、全てが一思いに千切られたように掻き消える。
一体、どういう事なのだろう。
痛いまでの沈黙と暗闇。
先程までの、繰り返し同じ光景を見せつけられていた時と同じような感覚。それが今度は、何も見えない。
果たして本当に死んでしまったのだろうか。
思わずそう考えはじめた時、誰かの声が聞こえた。
それは耳元で、ねぶるような愛を囁くときの色で、何もない世界でただひとつ染み込んでくる。
『――……さぁ、ハクエ。おまえを素敵な死神にしてあげる――……』
一体何が起きているのかもわからぬまま、ハクエの意識は闇に飲まれていった。
◇
「ッ!!」
がばりと身を起こしたハクエを待ち構えていたのは、冷たく暗い石造りの部屋だった。
身体の動きに合わせて重い金属が擦れる音が鳴り、音のした方に目を向けると左足に枷が嵌められている事に気が付く。
鎖の長さにはゆとりがあり、狭い部屋の中でなら自由に動き回る事が出来そうだ。
部屋の片隅には長年使われた形跡のない埃まみれのベッドが置かれており、その隣にある寂れた小型チェストには蝋燭台が置かれている。火は灯されていないが、蝋は十分に残っているようだ。
反対側に視線を向ける。重く冷たい鉄格子が降りていて、その向こうは廊下になっているようだ。
その他に何があるかと見回してみて、ふと自分の身体が異様に軽い事に気が付いた。
ちらりと身体を見下ろして、腰のベルトからぶら下げられていた筈の相棒がない事を知る。
(ガンブレイドが、ない……!)
剣吊りに括りつけられた鞘に収まっている筈の銃剣は無く、代わりにぽっかりと口を開けた鞘だけが虚しくぶら下がっている。
さぁ、と血の気が引くのを感じるハクエ。
あれは、師匠から譲り受けた、ハクエの為だけに造られた特注品なのだ。
(まさか、将軍にやられた時に、落として……)
幸い、ベルトに括りつけているポーチの中身は無事であったが、けれど武器がない事には話にならない。
何とかして現状を把握し、ここから脱出して武器を回収せねばならない。
与えられて以来、ずっと共にあった相棒の不在に嫌な汗が伝うのを感じながら、それでも気持ちを落ち着けるために深呼吸を繰り返す。
嫌な動悸が胸の内を叩くのを感じながらも、足枷の鎖を鳴らして鉄格子に近寄り、周囲を伺う。
近くに人の気配は感じられず、ただ遠くで若い女性が何かを話しているのが微かに聞き取れた。
ハクエはそっと息を潜め、話の内容を聞き取るべく耳を澄ませる。
「陛下、クレイラを侵攻すると仰っていましたけど、あの砂嵐をどうやって攻略するつもりなんでしょうね……」
「さぁ……でも、陛下の事ですから何か策があっての事なのでしょう。我々はそれに従うまでですよ」
「あーあ! 私もクレイラ侵攻隊に編制されたかったなぁ! ベアトリクス様と一緒に戦えるなんて、みんな羨ましいです」
「何を言いますか。牢屋の見張りも命令のうち、成し遂げなくてはベアトリクス様の部隊に編制されるなんて夢のまた夢です」
「わかってますよう。……それにしても、あのハクエ様を牢に入れておけだなんて、今でも信じられないです」
「こら、声が大きくなってきていますよ。……けれど、私も同感ですね」
話をしている女性二人の姿はここからでは見えない。
けれど、聞き取れる会話の内容から、ベアトリクス隊に所属している人間であることが判断できた。
となると、ここはアレクサンドリア城の牢屋という事になるのだろうか。
状況把握に努めようと聞き耳を立て続けているハクエは、アレクサンドリアの女兵士が不満気に続けた言葉に絶句した。
「確かにガーネット様を誘拐した罪は重いと思います。でも、事が済んだら処刑するだなんて……あんまりです」
「……!?」
いま、彼女は何を口走った。
「しかも、ブルメシアにはガーネット様はいなかったっていうじゃないですか。あれだけ仲良しだったお二人なのに、一体なにが……」
女兵士は尚も不満気に言葉を連ねているが、ハクエはそれらを上手く拾い上げることが出来ない。
放っておけば叫んでしまいそうな口元を両手で覆い、力なく壁にしなだれかかる。
(うそでしょう……)
ショックのあまり、呆然とするハクエ。
彼女たちが何者かに声を掛けられ、その場を去っていく音でさえ、遠い世界での出来事のようだ。
暫く思考を停止させて呆けていたハクエは、やがて自分に影が掛かるのを感じて面を上げた。
「やぁ、惨めだね」
「……クジャ」
ゆるやかに弧を描く、艶めいた唇。
うっそりと微笑む目元は逆光掛かっているせいもあってか妖しく煌めき、仄かな怖気を感じさせる。
じゃらり、と音を立ててハクエが後ずさったのを気にした風もなく、クジャは手にしていた鍵を使って牢屋の扉を開けた。
優雅な足取りで暗い牢の中に入り、扉を閉める。
そうして振り返ったクジャは、心なしか嬉しそうな表情を浮かべていた。
「さっきぶりだね」
「……」
親しい者に語りかけるかのような声色。
ハクエは居心地の悪さを感じて顔を逸らし、更に後ずさった。
じゃらじゃらと鳴っていた鎖の音は、やがてハクエが粗末なベッドにぶつかった事で鳴り止む。
ベッドに背をもたれさせながらも尚、身を縮こまらせて距離を取ろうとするハクエの様子がおかしいのか、小さく笑いながらクジャは近付いてくる。
コツリコツリと、ヒールの高いブーツの音が暗い牢屋に響き渡り、ハクエの前まで来た彼はそれは優雅な動作でハクエの前に膝を付いた。
細い指先を動かし、肩を抱いて身を竦めているハクエの手首を掴み取る。
驚くほど冷たい指先に手首を引っ込めようとするが、恐ろしいほどの力で引き寄せられてしまった。
「ッ!?」
「将軍に負わされた怪我の具合は大丈夫かい?」
ふわりと漂う、上品な香水の匂い。
引き寄せた時の力とは裏腹に、硝子細工でも扱うような丁重な手付きでハクエを包み込んだクジャは、そっと頬に指を滑らせてきた。
顔に掛かっていた銀糸を優しく払い除け、アメジストの瞳をじいっと覗き込む。
その碧眼には、先程感じたような妖しさは感じられず、純粋にハクエを心配しているようだった。
そんなクジャの様子に、目覚めてから今までに大した痛覚を感じた覚えがない事を思い出しながら口を開く。
「……大丈夫」
「それはよかった」
薄い唇に塗られた紫の艶が、安堵の息を吐いて緩められる。
その様子に困惑するハクエは、どうしてこの状況になっているのか一切見当がつかなくて、困ったようにクジャを見上げた。
ようやく視線が交わった事が嬉しいのか、クジャの青い瞳が細められ、恍惚としたような表情になる。
「あぁ、ようやくキミとゆっくり話せる機会がやってきた。あの時は邪魔者がいたからね。キミも僕の胸に飛び込みたくてたまらなかったのを、我慢してたんじゃないかい?」
「なにを、言っているの……?」
うっとりと紡がれる言葉に眉を顰める。
頬に添えられたままだったクジャの冷たい指先が滑り、ハクエの耳朶をそっと撫でる。
ぞわりと全身に広がる怖気に、ハクエは思いっきり腕を突き伸ばした。
「離してっ!」
「恥ずかしがらなくったっていいんだよ、ハクエ。さぁ」
クジャの薄い胸板を押し、身を仰け反らせる。
けれど彼は離れるどころかより一層ハクエに密着し、肩を掴むとベッドに押し倒す。
その動きは、肩を掴む腕の力と裏腹に、壊れ物を扱うかのような丁寧さだった。
「あれからもう、何年経っただろうね……もう、二度と会えないと思っていた」
「何、年……?」
埃臭いベッドの上に散らばるハクエの柔らかな銀糸を掬い取って口付けを落とすクジャ。
訳のわからぬ彼の態度に、身の毛がよだって治まらない。
彼と初めて会ったのは、数日前のアレクサンドリア城の筈だ。
女王ブラネの傍に居た、異質な魔力を持つ武器商人。それがハクエにとってのクジャという人物への認識であり、それ以上でもそれ以下でもない。
……否、ブルメシアでブラネと共に居たという点からして、ブラネの心変わりに一枚噛んでいる可能性が否めないとも、思っている。
兎も角、ハクエとクジャはここまで親しい間柄ではなかった筈だ。
ハクエが困惑している様子が伝わったのか、クジャは細く整えられた柳眉を僅かに釣り上げた。
「もしかして、まだ浸透していないのか……?」
「さっきっから、なんなの……」
ぽつりと呟かれた言葉の意味は、ハクエにはわからなかった。
意図せずして震えてしまった問いかけの言葉に、クジャはハクエの肩を掴んでいた手に力を籠める。
先程まで壊れものを扱うかのような丁寧さだったというのに、ぎり、と彼の長く整えられた爪先が薄い皮膚に食い込んで、痛覚が痛みを訴える。
その瞳は、まるで忌々しいものを睨みつけるかのように釣り上げられており、先程鉄格子の外でハクエを覗き込んできた時と同じ妖しさを孕んでいた。
「痛ッ!」
「何故だ! オマエを封じている鍵は剥がした筈なのに! どうしてオマエは僕を思い出さない!?」
「や、やめ……!」
がくがくと肩を揺さぶられ、視界が揺れる。
先程までの愛おしい者へ向けていたそれとは正反対の、ただただハクエを責め立てるようなクジャの様相。
彼の細い腕を掴んで引き剥がそうとするが、びくとも動いてくれない。
「やはり、あの男には敵わないという事なのか……!?」
化粧の施された、整ったクジャの面立ちが、鬼のように釣り上がっている。
ぎらぎらとした眼光がハクエを射抜き、けれど貫く眼差しはハクエを捉えてはいなかった。
「あんなヤツに渡しはしない、ハクエは、コイツは僕のモノだ……!」
「う、ぐッ……!」
肩に食い込んでいたクジャの指先が、いつの間にかハクエの首を捉えていた。
ぐぐ、と喉を押しつぶすように込められる力に、ハクエは為す術もなく意識を奪われていく。
やがてハクエの意識が混濁して視界が暗転しはじめる頃、クジャはハクエの身体を開放した。
そのままぐったりと力無くベッドに沈み込むハクエを一瞥し、吐き捨てる。
「……まぁ、良い。まだ時間はある……次こそ、必ず。必ずだ……」
そう言い捨て、足音荒く牢屋を去っていくクジャの後ろ姿を最後に、ハクエの意識は闇に飲まれた。
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