21:交わらぬ道
カーテンの隙間から差し込む陽射しを受け、ハクエは瞼を押し上げた。
窓の向こうからは来たる狩猟祭に向けての準備で忙しない人々の喧騒が聞こえ、まだ早い時間であるにも関わらず午睡のまどろみにあるような心地を感じる。
朝陽から逃れるように寝返りを打ったハクエはこめかみに僅かな痛みを感じて顔をしかめた。
じわじわと締められるような独特の痛みに昨晩の事を思い出す。
「うぅん……飲み過ぎちゃったわね」
呻くように漏れた声は、少しばかり掠れている。
昨日、フライヤとすっかり意気投合したハクエはその後も彼女と行動を共にしていた。
外が明るいうちは消耗品の買い出しや街の観光をして過ごしていたのだが、やがて暗くなり、それじゃあ食事でも、と入った酒場でそれは大いに盛り上がった。
どうもフライヤは酒が入ると饒舌になるらしい。ハクエもハクエでアルコールで機嫌が良くなるタイプなので、出会ったばかりの二人は夜遅くまで酒を片手に互いの身の上話に華を咲かせた。
やれ、私の恋人は強者を求め勝手に国を出て行きおって云々かんぬん。やれ、私の師匠は長期任務だわーと娘を放り出しちゃって云々かんぬん。おぼろげではあるが、最後の方は愚痴にまみれていたように記憶している。
お互いが腹の中に溜めていた諸々をすっきり吐き出して宿に戻ったのは日付もとうに変わった後で、気分が良いままにベッドに倒れ込んだのが二日酔いの原因だろう。フライヤは大丈夫だろうか。
シャワーも浴びずに眠ったために、ぼさぼさに散らかってしまった髪の毛を適当に(なるべく頭を刺激しないように)撫で付け、サイドテーブルに用意されている水差しに手を伸ばす。注ぐためのグラスを探すが、手の届く範囲に見当たらない。
本来であれば面倒でもきちんとグラスを用意して、面倒でもきちんとグラスに水を注いで飲む所なのだが、この時のハクエは寝起きで頭が回らなかったし、何より一秒でも早く水分を補給したかった。なんてったって二日酔いである。
だから、おもむろに水差しの注ぎ口に唇を近づけ傾けてしまったのは、些か仕方のない事なのかもしれない。
寝起きのぼんやりとした眼で揺らめく水を見つめ、今まさに注ぎ口から零れ落ちようとするそれを受け止めようと、少しばかりかさついた唇を開く、その時。
「ハクエ、起きてるかー?」
「ぶっ」
扉の向こうから飛んできた声に驚いて水差しを取り落とした。
硬いもの同士がぶつかる鈍い音が額の上で響き、弾みで外れた蓋から踊るように飛び出た水が身体中に振りかかる。
鈍い痛覚に反射的に額を抑え、落ちた水差しは膝の上に落ち着く。おかげで防ぐ術は無く、シーツも枕もずぶ濡れだ。
「おい、大丈夫か!?」
「だ、大丈夫じゃない……」
ハクエの額と水差しが衝突する情けない音が扉の外まで聞こえたのだろう、慌ただしく扉が開かれる。
声の主は焦った表情でハクエを見たが、彼女の状態を確かめるなり胡乱げな顔つきに変化した。かわいそうなものを見る目は容赦なく突き刺さり、それを受けたハクエは額を抑えていた手で頭を抱える。
水差しと衝突したのは額な訳で、頭に痛みはない。痛みはないのだが、恥ずかしさで頭を抱えずにはいられなかった。我に返るには、いささか遅すぎた。
「……何やってんだ、あんた……」
「水が欲しくて……」
ひとりベッドの上で訳のわからないことになっているハクエを白い目で見ているのはジタンで、チェストからタオルを取り出すとハクエに手渡す。
ジタンの好意を素直に受け取り、逡巡の後に取り敢えず頭に乗せるハクエ。
「まだ酔っ払ってるのか? ほどほどにしとけって言ったろ?」
「だって、楽しかったんだもの……つい」
「オレ、最終的に置いてけぼりだったもんなぁ……」
昨晩のフライヤとハクエの盛り上がりっぷりを思い出したジタンが苦笑する。
酒の席にはジタンも同席していたのだが、大いに盛り上がる女性二人の輪に入り込めず、ほぼ愚痴で構成されている女二人の身の上話を耳に入れながら一人黙々と食事を平らげていた。
最初の方こそ相槌を打ったり彼女たちの話に同調したりしていたジタンだが、ハクエとフライヤの飲酒量が増えるにつれ段々と口を噤まざるを得なくなったのだ。
かつてフライヤと二人で旅をしていた時はあまりしてくれなかった彼女の恋人の話や、現在ジタンの中で最も関心を寄せている人物の一人であるハクエの師匠の話が聞けるかも、と思って頑張って耳だけは傾けていたのだが、いざ頭に詰め込まれた知識を掘り起こしてみれば、ジタンの脳に刻まれたものは彼らのダメな所ばかりな気がする。
それでも最後は二人揃って互いの大切な人の行方を憂い、再び相見える日を願っていた。
……女って色々大変なんだな。これは昨晩、ジタンが抱いた感想だ。願わくば、耳が痛くなるほどのダメ出し大会に、自分がロックオンされる事がありませんように、とも。
食事を終えた後は、あまり酒が進まなかったジタンが泥酔したハクエを宿まで連れて帰る羽目になり、そこでまた色々な意味で大変な思いをした。
ハクエを部屋に送り届けるまで、ジタンの頭の中でそれはもう壮絶な葛藤が繰り広げられていたりしたのだが、当然そんな事をハクエが知る由もない。
今も今で、(どうしてそうなったのか理解が出来ないが)ベッドの上で水に濡れているハクエを前に内心悶々だ。
頭に乗せたタオルを緩慢に動かして髪の水分を吸わせているハクエ。
動きに合わせて濡れた髪から雫が零れて谷間に消えていく光景が目に入り、つい固唾を飲んでしまったのは仕方がない事だろう。
ジタンは思春期真っ盛りだ。さっきから尻尾がそわそわ落ち着きなく揺れているのも、仕方ない事。
「なぁ、拭くの手伝ってやろうか?」
「結構よ。それよりシャワー浴びたいから出てって頂戴」
「おっ、一緒に浴びるか?」
「あのねぇ……」
「ジョーダンだよ、冗談」
二日酔いでまともに機能しない頭ながら、口はしっかり回るらしい。
気恥ずかしさで俯けていた瞳を少しばかり釣り上げて、隠す気のない下心がたっぷり含まれたジタンの申し出をしっかりきっぱり断った。
散々見せ付けておきながらお触り厳禁なんて酷いと思うジタンだが、勝手に部屋に入ったのは自分なのだからその言葉はぐっと喉の奥に押し込む。
朝から良いものが見れたのだから充分だろう、そう思うことにして、喉奥に押し込んだ言葉の代わりに本来この部屋に訪れた際に言おうとしていた言葉を引っ張り出す。
「狩猟祭は午後からだ。それまでに二日酔いをなんとかしておけよ?」
「善処するわ……」
ジタンの本来の目的は、昨晩見事に酔いつぶれたハクエを起こしに来る事だった。
ハクエの膝に落ち着いていた水差しを拾い上げると、水を持ってくると言って部屋から出て行く。
寝起き早々から中々に情けのない姿を晒すことになってしまったハクエはぼんやりとジタンの出て行った扉を眺めていたが、やがて緩慢な動きで立ち上がるとシャワールームに姿を消した。
身嗜みを整え、ジタンからたっぷり水を貰って調子を取り戻したハクエは単身リンドブルム城へ向かっていた。
エアキャブから見下ろすリンドブルムの街には、昨日まで無かったバリケードがあちらこちらに張り巡らされ、魔物を積み込んでいると思われるチョコボ車が護送されているのが 遠目に見える。違う所では、一般市民に退避を呼びかける兵の姿が伺えた。
城に到着すると、此処は此処で騒々しい。準備に追われ走り回る兵の邪魔にならぬよう、通路の隅を歩きながら客室への階段を登れば、ベッドサイドに腰掛けているダガーの姿があった。
「ダガー、おはよう」
「ハクエ……おはようございます」
ダガーに気付いたハクエが挨拶の言葉を投げ掛けるが、ダガーから返ってきた声は挨拶を返すにはおよそ暗すぎた。
ベッドサイドに腰掛けているダガーは俯き表情が伺えず、ハクエは疑問に思いながら隣に座り込む。ベッドのスプリングが鳴り、二人の身体が小さく跳ねる。
「どうしたの? シド大公と上手く話せなかったの?」
「いいえ、おじさまは私に協力することを約束してくださったわ」
「そっか、よかった」
「でも……私、これで良いのかわからない」
「え?」
シドとダガーの話し合いが上手くいった事に安堵の息を吐こうとするハクエだったが、続いた言葉に首を傾けた。
俯いている顔を覗きこんでみれば、黒曜の瞳は不安げに揺らめいていた。
膝の上で重ねられた掌もどこか落ち着きなく動いて、彼女の心が不安定な状態にあるのをハクエに教えてくれる。
様子を伺うハクエの視線から逃れるように目を泳がせたダガーは、たっぷり間を置いたのち、胸中にある想いを吐露しはじめた。
「シド大公はお母さまの事はなんとかすると約束してくださったわ。とても嬉しかった。でも、私……ただ守ってもらう為だけに此処まで来た訳じゃないの。私、自分の力でお母さまを助けたいの……!」
「ダガー……」
泣き叫ぶようなダガーの訴えは、ハクエの胸に痛いほど深く突き刺さった。
ダガーの掌がぎゅうと握りしめられ、革のグローブが締まる音がする。それは、まるで彼女の悲鳴のよう。
ハクエだって、ブラネの変貌ぶりに心を痛めていた。
アレクサンドリアの女王という立場にありながら、いつだってハクエとスヴェンの事を気にかけてくれていたブラネ。
スヴェンという育て親こそいるものの、本当の親がいない事を気にしていた幼い頃のハクエを膝に抱き、『だったら自分を母親だと思えば良い』と言って小さな頭を撫でてくれた、あたたかなひと。
公務の時の凛々しい顔つきと裏腹に、スヴェンと二人で訪れた時には満面の笑みで小さなハクエを抱きしめてくれるブラネが大好きだった。
だから、豹変してしまったブラネを何とかしたいと思っていたし、そう思っていたからダガーを護ってここまで来た。
ダガーの言葉でさえ耳に入れようとしない今のブラネを相手に、ハクエが出来る事なんてそれしかなかったのだ。
けれど、ダガーにとって、ガーネットにとってブラネはただひとりの母親だ。人が変わっていくブラネを間近で見ていることしかできなかったダガー。そんな彼女の胸中を、ハクエが推し量る事はきっと叶わない。
「大丈夫、大丈夫よダガー。シド大公が手助けしてくれるんだもの、きっとなんとかできるわ」
「ハクエ……」
気休めにすらならない言葉しか返せない自分が情けない。
それでもダガーは言葉足りないハクエの気持ちを掬い上げてくれたのか、微笑んだ。
小さくかぶりを振って、ハクエと視線を重ねる。
「ハクエも、何も聞かずに私をここまで連れてきてくれてありがとう」
「……私だって、陛下の事、なんとかしたいと思ってる。だから、ダガーを連れて此処まで来た。私の言葉は陛下の耳には届かないから。だから、ここからはダガーに頑張ってほしいと思ってる」
「……わかったわ」
ハクエの言葉を受け、ダガーは静かに頷いた。もう、黒曜の瞳は揺れていない。少なくとも、今は。
そわそわ動いていた掌も、落ち着きを取り戻し緩く握られていた。
「ハクエはどうするの?」
「私……私は、また旅に出る。陛下よりも先に、師匠を見つけなきゃならないから」
「そう……やっぱり」
残念そうな顔をするダガーに、ハクエは苦笑を返した。
本当は、ハクエもダガーも、お互い離れがたく思っている。
ハクエは前途多難なダガーの行く末が心配で、傍にいて守ってあげられたらと考えているし、ダガーはダガーで頼もしい友人が傍にいる事でこの上ない安心感を得ていた。
けれども、ハクエは何としてもブラネよりも先にスヴェンを見つけ出し、ブラネが企てる戦争に加担しないよう説得しなくてはならないし、ダガーはそんなブラネを止めなくてはならない。どちらも、二人でないと成せない事だ。
道は二つに別れている。二人が同じ道筋をなぞることが出来るのは、ここまでだ。
「そうだ、ダガー! 私、今日の狩猟祭に参加する事にしたの。応援してくれる?」
「勿論。がんばってね、ハクエ」
「ふふ、ありがとう」
しんみりしてしまった空気を払拭すべくハクエが立ち上がり、ダガーを振り返った。
腰までたっぷり広がる銀糸が動きに合わせて揺れ、天窓から差し込む光をきらきらと反射させるのが眩しくて、ダガーは思わず目を細める。
細めた黒曜の瞳には、ひとつの決意が込められていた。
◇
あれから暫く経ち、ダガーが気分転換に歩いてくると言って客室を後にした為、ひとり残ったハクエは武器の手入れをして狩猟祭までの時間を潰すことにした。
何せ、アレクサンドリア以来ちっとも手入れが出来てなかったのだ。筒の中からぼろぼろ溢れでてくる錆と埃に苦笑を漏らす。
ハクエの持っているガンブレイドは、市場に流通しているものと違い、ハクエの為だけに造られた特注品だ。背丈がまだスヴェンの腰ぐらいまでしか伸びていなかった頃、ぽいと無造作に渡された。
スヴェンは『その辺に転がってたから、やる』とぶっきらぼうに言っていたが、旅に出て暫く経ってから、非力なハクエでも扱えるようにわざわざ軽い仕上がりになるように鍛えさせた代物だったという事を知った。
森の泥も霧の滓も氷の礫も地下の埃も空の塵も全て吸い込んで、ただ相手を射止める為だけの重い鉛を吐き出す銃身。
掻き出せば掻き出すほどぼろぼろ落ちてくる錆と埃は、まるでハクエの心に詰まった想いを表している様だ。
ひと通り錆を掻き出してオイルを注し、磨いた刃に己の姿を映してみると、ひどく歪んだ表情をしている事に気が付いた。眉毛がちょっぴり垂れている。
どうやら先程のダガーとの会話に感化され、知らず知らずのうちに沈んでしまったらしい。あるいは、実はまだ二日酔いが完治してないか。
「駄目ね、こんなんじゃ。しっかりしなくちゃ」
ぐぐ、と眉間に力を入れて、凛々しい表情を作ってみせる。気を抜けばまた垂れ下がってきてしまいそうで、頑張って表情を固定させた。
ハクエはいつだって強い面持ちでいなくてはならないと考えている。
いつ、師匠を見つけ出しても良いように。
いつ、師匠に姿を見られても良いように。
追いついて、強くなったと認めてもらえるように。
そして、連れて帰るのだ。二人が住んでいたアレクサンドリアの家へ。
ただ、それだけ。ただそれだけが、他に何も持たないハクエが唯一握り続けている願い。
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