13:辺境の村


 足場の悪い崖道を下り山道を進んで行けば、崖の上では小さく見えていた村が次第に大きくなってきた。
 霧の上でも時折襲いかかって来る魔物は旅慣れしているハクエや戦い慣れているジタンとスタイナーら前衛組が追い払い、体力の少ないダガーとビビは無理をせず魔法で援護する程度に留める。
 そんな布陣で村を目指し、やがて辿り着く頃には空に茜が差しはじめていた。
 ハクエに手を引かれながら村の周りに張られた魔物除けの結界石を跨いだビビは、ようやく魔物に襲われる心配が無くなったことで膝に手を置きながら深く息を吐く。
「つ、つかれたぁ〜……」
「よく頑張ったね、ビビ。ほら、これがダリの村だよ」
 大きく肩の力を抜くビビの頭を労わるように撫でたハクエは隣にしゃがみ込んで目線を合わせるとある一点を指差す。
 その指が指し示す先を目で追ったビビは疲れた表情は何処へやら、すぐに歓喜の声を上げて走り出した。
「わぁ〜っ! 風車だ!」
 踏み固められた地面の上で小さな子供の足音が軽やかに鳴る。
 小さな足を一生懸命動かして舗装された道まで走ったビビは、ハクエが教えてくれた風車を見上げて嬉しそうに振り返った。
「すごい! ボク、こんなの始めて見たよ!」
 にこにこと細められている黄色い瞳を見て、ハクエも穏やかに笑い返す。
 ビビが見上げた先には、家屋の屋根付近に取り付けられた風車が夕陽に照らされて悠々とその身を泳がせていた。幾つもの羽が風に押されて凪ぐ度に木の軋む音が響き、この村で過ごす時間が穏やかなものになることを期待させてくれる。
 霧の上に点在するあまり裕福でない小さな集落は、その地域が必要とするエネルギーを供給できるだけの霧機関が設置できていない場合が多い。
 アレクサンドリアでは十年ほど前から一家に一台は供給されるようになった霧機関は、五十年近く前にリンドブルムが発明したばかりで歴史が浅く、経済に余裕の無い地域に行き渡らせるのはまだまだ難しいと言えるのが現状だった。
 日々新型を出しては試行錯誤されていく霧機関の中で型が古くなったものを格安で譲ってもらい、足りないエネルギーは風力や水力で賄う。ダリのみならず、小さな集落では良く見られる光景だ。
 けれど、ハクエはどちらかといえば霧機関に頼るよりも自然の力を借りて生きる糧を得る方が好きだし、風車や水車はどれだけ眺めていてもちっとも飽きない。
 昨晩、目的地をダリに定めた時からビビにこれを見せた時の反応を密やかな楽しみにしていたのだが、どうやらかなり喜んでくれているようでハクエの頬はゆるゆると緩んだ。
 すっかり夢中になってしまっているビビの背中に、後を追って歩いてきたジタンが声を投げる。
 その後ろに続いてきたダガーとスタイナーも、風を受け穏やかに凪ぐ風車の姿に目を奪われているようだった。
「ビビ、宿屋はこっちだぜ!」
「もう寝るの? ボク、風車を見に行きたいなぁ」
 夕陽に照らされた風車を見上げていたビビが不満気にジタンを振り返る。
 珍しく我儘を言ったビビに苦笑したジタンは、どうしたもんかと肩を竦めた。
「気持ちはわかるけど、今は宿に入ろう。今後の事も決めなきゃな」
 幼い子供をあやすような優しい言葉で話しかけたジタンは、己の後ろに見える建物を親指で示す。
 その建物には扉の上に小洒落た看板が打ち付けられており、そこが宿屋であることを教えてくれた。
 ねだる様にジタンを見上げていたビビだったが、ハクエの「残念だけど、また明日だね」という言葉に諦めて宿の扉を潜る。ハクエ達もそれに続き、一行は皆宿の中へと入っていった。
 その姿を、小さな影がじいっと見つめていた事に気付かずに。

 宿のロビーはこぢんまりとしていて、まるで大きな樹の中をくり抜いて作ったかのような印象を受けた。
 屋外の舗装路をそのままロビーまで引っ張り、フロントとして置かれているテーブルへ続いている。
 天井から吊り下げられている小さなランプと窓の外から差し込んでくる茜色だけがロビーを照らしているようで室内は薄暗い。
 フロントの上では痩せた初老の男が突っ伏して寝ており、耳を澄まさなくても豪快なイビキが聞こえてきた。一行が足音賑やかに宿の中に入ってきてもちっとも気付いた素振りを見せず、宿屋の主であろう男の顔をじいっと覗き込んだジタンが男の肩を揺すった。
「寝てるのか?」
「ああ、こりゃどうも、すいませ……」
 流石に身を揺さぶられたら意識は引き戻されるようだ。
 半開きの口からだらしなく垂れたよだれをそのままに顔を上げた宿屋の主は、回らない舌でもごもご喋りながらハクエら客人一行をぐるりと見渡し、やがて一点を見た時にぴたりと固まった。
「……」
 眠そうな顔が僅かに動き、訝しげな表情を覗かせる。友好的ではないその表情にハクエが男の視線を辿ってみると、それはじっとりとビビに注がれていた。
 幸いビビ本人はおろか、他の誰もそれに気付いた様子はない。
(ビビを見ているの……?)
 誰も気付いていないとはいえ、見ていて気分の良くない視線からビビを守るようにさり気なく身を動かすハクエ。
 突然固まってしまった宿屋の主に首を傾げたジタンは、やがて合点が行ったようでははぁん、と指で顎を撫でて宿屋の主に顔を近付けた。
「おやじさん、かわいいからって見とれてもらっちゃ困るなぁ……」
「えっ……?」
 声を潜めて言うジタンの視線はダガーとハクエに向けられている。
 見当違いの方向を見て言うジタンに思わず困惑し、ジタンとハクエ、ダガーの顔を見比べた宿屋の主は我に返ると痩せた腕でロビーの奥を指した。
「いっ、いえ、お嬢さん方ではなくて……。あ、いやいや、部屋はその奥になります。どうぞどうぞ」
 挙動不審気味な男の態度を、図星と捉えたのだろう。にやにやとした表情のまま片手を小さく一振りして了承の意を示したジタンはくるりと踵を返して言われた扉のノブを捻ると、少し錆の付いた扉は軋む音を上げながらゆっくりとジタンを迎えた。
 ハクエもビビに注がれていた視線が外された事で言われた扉に足を向ける。中の様子を伺っていたダガーがハクエの傍に寄ると、不安気にジタンに声を掛けた。
「あの、ジタン? わたくし達の泊まる部屋はどちらでしょうか?」
「ん? そこだよ」
「ジタン、わたくし、男性の方との同室は……」
「気持ちはわかるけど、こんな小さな村に個室なんてないんだ。さ、入った入った」
 身を引いて道を譲るジタンに動揺を隠せないダガー。
「ごめんねダガー。こういう小さな村では、宿があるだけマシなのよ。ヘンな事は私がさせないから、我慢してね」
 ハクエとて身内でもない男性と同室になるのは不本意であるのだが、仕方ないことなのだと傍にやってきたダガーに優しく言い聞かせてやれば、じっとハクエを見上げていたダガーは、やがて諦めたのかジタンの横を通り抜けて部屋に足を踏み入れた。

 案内された部屋には所狭しと観葉植物が敷き詰められ、四隅に硬そうなベッドが並べられていた。部屋の中央には大きめの水桶が置かれており、奥にはドレッサーが備え付けられている。
 ばらばらと部屋に足を踏み入れた一行が適当な場所に落ち着いたのを見計らってジタンが口を開いた。
「寝る前に教えて欲しい事があるんだ。城を出てどこにいくつもりだったんだ?」
 ベッドのサイドボードに腰掛けたジタンに向き直ったダガーは空を見つめ、思い出すように問いかけに答える。
「あのまま飛空艇が飛べば今頃は……」
「……隣の国のリンドブルムに着いていただろうけど……アレクサンドリア王国を出るつもりだったのか!」
 プリマビスタの乗組員であるジタンが当然のように答え、それが意味する内容に驚きの声を上げた。
 ハクエが護衛についているとはいえ、一国の姫君が単独で国を出ようとしているのだ。それも、アレクサンドリアでのやり取りを思い出すからに、お忍びどころか城にいる誰の目にも付かぬように、だ。
 城から連れ出して欲しいと、ジタンの手を取りながら痛切に訴えてきたダガーの表情を思い出したジタンは悩む。
「確かに、劇場艇にうまく隠れりゃ国境の南ゲート声も楽々通り越せた……か。けど、こうなった今は……南ゲートは歩いて越えるしか無い。うーん、国境越え……か」
 ジタンの言葉にハクエも頭のなかで大陸図を広げる。
 ダリから徒歩でリンドブルムに行こうとするならば、南東に位置する南ゲートからベルクメアと呼ばれる鉄馬車で山脈を超え、長い湿地帯を越えていかなければならない。
 アレクサンドリア領は巨大な山脈に囲われていて、徒歩で越える事はできないからだ。
 山脈を越えるための関所は随所に設けられているのだが、そこでは検問が敷かれており、ゲートパスを所有していない者には厳しい入出国審査もされるという。当然、ここから行ける南ゲートも例外ではない。
 空路もその対象ではあるのだが、ジタン達タンタラスの所有する劇場艇プリマビスタほど大きい規模の船はいちいち隅々まで検問していてはキリがないからゲートパスさえ所有していれば問題ない事が殆どだ。
 それを見越してハクエとダガーはプリマビスタに忍び込むという形で城を出ようとしたのだが、生憎今となっては歩いて行く外ないだろう。
「どうしても、やらなければならない事があるのです。理由はまだ言えないのですが、でも、どうか……」
「わかった……必ずリンドブルムまで送り届けるよ」
 真摯に訴えるダガーの瞳に、ジタンもまた真剣な眼差しで約束を交わした。
 二人のやりとりを見ていたハクエはどうやってダガーを隠しながら国境を越えるか考え始めようとするのだったが、横から飛んできた声に思考を止めざるを得なかった。
「ええい! 黙って聞いておれば勝手なことを次から次へと! 姫さま、このような者の言葉、信用してはなりませんぞ! 魔の森のように、いつまた危険にさらされるやもしれませぬ! 何があったのかは存じませんが自分と共に城へお戻りください!」
 ちょうどスタイナーの真横にあるベッドに腰掛けていたものだから、あまりの声量に思わず仰け反るハクエとビビ。
 そんなハクエの様子に全く気付いていないスタイナーは勢いのままに言い切り、やや息が荒い。
「魔の森でダガーを助けなかった事、まったくオレらしくなかったぜ。だけど、もう迷わない。ダガーはオレが連れて行く!」
「私だって、ダガーから直々にお願いされているんだもの。隊長には悪いけど、彼女を帰すわけにはいかないわ」
 対するジタンとハクエはダガーをリンドブルムへ連れて行く気満々だ。
 二人ともそれぞれダガーと約束を交わしているのだ、スタイナーの言う事もわからない訳ではないが、かといって引き下がる訳にもいかなかった。
「思い上がりも甚だしい! その役目はこのスタイナーが! 今も昔も、これからも……!」
 スタイナーもまた、ダガーが、いやガーネット姫が子供の頃からずっと傍で仕えていたという経歴がある。
 身元のわからぬジタンは元より、彼女の友人であるハクエにだって、そう簡単に彼女を任せるわけにはいかないのだろう。
 彼の性格をよく知っているハクエはそう推察しつつも、こういう時のスタイナーの融通の利かなさを面倒臭く感じ始めていた。ダガーも同じ思いでいるようで、なんとも言えない顔でスタイナーを見上げている。
「じゃあ、どうやって城に戻るつもりなんだ?」
「そっ、それはこれから考えて……」
 ジタンもまた同じようで、少し苛ついた様子でスタイナーに問いかけた。
 城に連れ帰る事ばかり考えていて、肝心な手段にまで思考が及んでいなかったスタイナーは言葉に詰まる。
「隊長……連れて帰るの一点張りばかりで、そこは考えていなかったの?」
「ぐ……」
 ジタンの言葉に重ねるハクエに眉根にくっきりとしわを作るスタイナー。
 きっと、このままでは再び言い争いに発展してしまうだろう。だんだん部屋の空気が悪くなっていく中、ふいに気の抜けた声が一行の耳に入り込んできた。
「くー……かー……」
「ビビ……寝ちゃったのね」
 声の主を見れば、ハクエの横に腰掛けていたビビがいつの間にかベッドに沈んでいた。
 すやすやと安らかな寝息を立てているビビに、ジタンとハクエは毒気を抜かれて苦笑する。
「疲れてたからな……なのに、おっさんがウダウダ言い出すから」
「なに!?」
「オレ達も寝ようか。ほら、ハクエ」
 性懲りも無くジタンに噛み付いてきたスタイナーを黙殺したジタンはサイドボードからベッドに転がったと思うと身を起こしてハクエに向き直り、ぽんぽんとベッドを叩いた。
 その意図を汲みかねたハクエが訝しげにジタンを見る。
「なに?」
「ほら、ベッドの数が足りないだろ? だから、ハクエはオレと同じベッドで仲良く抱き合っ」
「せっかくのお気遣いだけど、此処で寝るから大丈夫よ」
 にやにやしているジタンに満面の笑みで返したハクエはそのままビビの横に寝転んだ。眠っているビビを抱きかかえて、毛布を被る。
 厚手のローブを身に纏うビビはふかふかとしていて、やわらかな感触にハクエは満足気に目を瞑った。
「ジタン……あなたって人は……」
「ダガー、よかったら……いや、うん……寝るか……」
 流石のダガーも呆れ顔だ。
 掛けられた言葉にそのままのノリでダガーを見たジタンだったが、彼女の表情を見て早々と諦める。
 その一方で、スタイナーは本当にこの者に任せて良いのかという疑念を深めるばかりであった。



 夕陽が完全に山の向こうに沈み、辺りがすっかり暗闇に包まれ羽虫がざわめく頃、ハクエは目を覚ました。
 他の皆はすっかり夢の中に旅立っているようで、部屋の中には静かな寝息とスタイナーのやかましいイビキが微妙なハーモニーを奏でている。
 身を起こし、他の皆を起こさないよう静かに宿を抜け出す。

 ハクエが足を向けた先は小さな酒場だ。
 扉を開けるとカウベルの心地良い音が響き、カウンターの中にいた男が振り返る。
「あんたは……レザイアさんかい?」
「こんばんは」
 意外そうな顔をしてハクエを見る男に笑って返すと、カウンターに座る。
「こんな辺鄙な村にまた来てくれるとはなぁ。何が飲みたい?」
「前出してもらったやつ、また飲みたいな」
「あいよ。ちょっと待ってな」
 愛想よく答えたマスターがいくつかの瓶とグラスを手元に手繰り寄せて腕を振るう。
 洒落たグラスに麦酒と果実酒が注がれ、カットフルーツを添えてカウンターの上に置かれた。それを口に含めば、麦酒特有の苦味のある炭酸の中に果実酒の絶妙な甘みが広がりハクエは顔を綻ばせる。
「ダリ限定品にしておくのが惜しい美味しさね。アレクサンドリアにも出せば良いのに」
「こんな田舎に勿体無い言葉だぜ、そりゃあ。で、なんでまたこの村に?」
 前回、ハクエがダリの村に訪れたのは一年以上も前になる。
 その時はちょうど村の大人達が集まっていて大変賑やかだった印象なのだが、今日はそうでもないようだ。ハクエ以外に客も見当たらず、退屈を持て余していたらしい酒場のマスターはハクエの前に陣取る。
「ちょっと色々あってね。あれから何か情報は聞けた?」
「うーん……」
 ハクエの言葉に顎に手を当てて悩んだマスターは、やがて首を振る。
「悪ィが、こんな田舎にはロクな情報がこねぇな」
「そっか……」
 申し訳無さそうに肩を竦めるマスターに、ハクエもまた首を振る。
 グラスに添えられていたフルーツを口に含むと、柑橘系の甘みの中にほのかな苦味が混じっていた。
「真っ黒なコートを着た金髪赤目の男なんてそうそういねぇから、見かけたら絶対記憶に残るさ。村のやつにも、見かけることが有ったら教えてくれって言ってるんだ。多分ダリには来てねぇな」
「わざわざありがとう」
 ハクエがマスターに頼んでいた情報といえば、他ならぬ彼女の師匠の事だった。
 辿り着いた街や村の酒場や宿屋で手当たり次第に情報提供を依頼しているのだが、いずれも結果は芳しくない。
 地図に載らないような、ダリ以上に小さな集落にまで訪れた事のあるハクエだが、一つとして手掛かりを掴めた試しがない。
 アレクサンドリアを出てから三年、かつて師匠が自慢気に豪語していた大陸踏破だってとうにやってのけてしまった。それなのに、未だに影さえ見ることが叶わないのは一体どういう事なのだろう。
 暗い考えがハクエの頭を過ぎる中、マスターは明るく笑いかけてくれた。
「そう気を落とすなって。もしかしたらどっかの山にずっと籠もってるかもしれないだろ?」
「ふふ、もしかしたらそうかもね」
 励ましてくれているであろうマスターの言葉に、無理矢理笑顔を作って見せるハクエ。
 流石に何の手掛かりもないまま時間だけがただ流れて行くのは辛いものがある。
「しっかし、レザイアさんのお父さんも娘を残したまま長期任務に行っちゃうなんて酷いなぁ。俺にも娘がいるけど、心配で心配でそんな事できる気がしねぇよ」
 以前、マスターに師匠の事を話す際に当たり障りのないように父親という立場に置いて話をしたのだが、それを信じていたらしいマスターが当時のことをしみじみと思い返して言うのにハクエは口に含んでいたフルーツビールを噴出しかけた。なんとか零さないように飲み込んで頷く。
 正直、彼を父親として認識した事は無く、ハクエが見上げる彼の表情はいつも師匠としてのそれだった。
 いつも厳しく戦う術を身体に叩き込んできたし、いつも厳しく生きるための知識を頭に詰め込んできた彼。
 師匠の顔をしていない時といえば、家でだらしなく寛いでいる時くらいなものだ。その姿はただのダメ男で到底父親として見れたもんじゃない。
 そう思い出しては、果たして本当に身を削ってまで追い求める相手かと自分に問い掛けたりもしたが、それでもハクエの心は強く彼を求めていた。
 育て親に縋りつく子供としてなのか、師匠に憧れる弟子としてなのか、それがどういう感情なのかハクエにはわからなかったが、無くてはならない人なのだという意識だけは確かにあった。
 去り際に彼が言った通り、いつか必ず見つけ出して、追い付いて、アレクサンドリアにある家に二人揃って帰るのが、終わりの見えないこの旅の唯一つの目標であり、ハクエが唯一つ胸に抱いている悲痛なる願いだ。
 だからこそ、ハクエは三年経った今でも諦めることなく旅を続けている。

 しばらくマスターと他愛もない話を続け、グラスが空になる頃には夜も大分深い時間になってしまっていた。
 結局誰も来なかったし、今日は店仕舞いだなと苦笑するマスターに別れを告げて酒場を出る。
 一杯飲んだだけなのだが、ぽかぽかと暖まっている身体に気分良く宿へ戻る道すがら、見慣れた影を見付けた。
「あれ、ジタン……起きていたの?」
「ん、あぁ……まぁな」
 宿の入口に凭れて夜空を眺めていたジタンは、声を掛けられたというのにぱっとしない様子だ。
「寝付けないの?」
「そうそう、ハクエちゃんが一緒に寝てくれないから、ど〜も人肌恋しくってさ……」
「明日も早いんだし、何でもないなら部屋に戻りましょ」
「……何かオレの扱い方ひどくなってきてない?」
「気のせいよ」
 ぼんやりとしているジタンを心配するハクエだったが、返された言葉に半目になって目の前を通り過ぎた。
 慌てて追いかけてきたジタンに淡々と答え、揃ってロビーに入る。
「ハクエこそ、こんな夜中に何やってたんだ?」
「ちょっと酒場で情報収集でもと思ったんだけど、人がいなくて散々だったわ」
「そっか。んじゃま、寝不足にならないように眠るとしますか」
「そうね、おやすみなさい」
 抜けだした時と同様に静かに部屋に入り、それぞれベッドに潜り込む。
 ビビを抱き締めたハクエがやがて静かな寝息を立て始めた頃、のそりと起き上がったジタンがじいっとハクエを見つめていたのだが、既に夢の中に旅立っているハクエが気付く筈も無かった。



|
BACK | TOP ]
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -