エリーゼの熱情


家の近くの楽器屋でバイトをしている。
今日は同じシフトの先輩が休みのうえ、店長も出てきていないので僕一人だ。

「いらっしゃいませ」

夕方、カランコロンと店のドアが開いた。入ってきたのは同い年くらいの女の子。楽譜の置いてある棚のほうに向かったが、しばらくして何も持たずにこちらにやってきた。

「あの、楽譜を探してるんですが……」

彼女の説明を聞きながら、僕はあれ、とその顔に見入る。
ゆるやかなウェーブのかかった長い髪。薄く化粧された顔。紺のブラウスに、白いスカート。
大人になっているけれど、この子は……。

「あ、すみません、少々お待ちください」

彼女が顔を上げたので、はっと我に返って棚のほうに向かう。言われた楽譜を探してみたが、どうにも見当たらなかった。

「ごめんなさい。ちょっと切らしているみたいです。ご注文いたしますか?」

僕は眉を下げて、後ろに立っている彼女のほうへ向き直る。

「ああ、えっと……そうですね」

「では、こちらへどうぞ」

彼女も少し困ったような顔になったが、こくりと頷く。僕は、彼女を連れてレジのほうへ戻った。

「こちらにご記入お願いします」

注文用紙とペンを差し出すと、彼女は髪を耳にかけ、それを受け取ってさらさらとペンを走らせる。

白い、細い指。
あの頃と同じだ。

「絵莉ちゃん」

記された名前を見て、彼女だと確信した僕は、昔の呼び方で名前を呼んでみる。

「絵莉ちゃんだよね?……えっと、覚えてないかな。小学校、一緒だったんだけど」

驚いて目を見開いた彼女に言うと、少しの間の後、彼女は首を傾げて口を開いた。

「……あっくん?」

「うん、そうそう!よかった、覚えててくれて」

ほっとして僕が笑うと、彼女はさらに驚いたように目を丸くして、ふわっと表情を緩めた。

「びっくりしたぁ。久しぶりだねぇ」

「卒業以来だもんな」

「よく私のことわかったね?」

「うん。大人になってたけど、雰囲気変わってなかったし」

僕が言うと、あっくんは変わったね、と彼女は楽しそうに笑った。

「ここでバイトしてるの?」

「そう、家の近くでさ。絵莉ちゃんは相変わらずピアノ続けてるんだね。音大生とか?」

「えーと、うん、一応。……全然ついてけてないんだけどね」

何気なく尋ねたことに、絵莉ちゃんがふっと表情を曇らせる。僕は触れちゃいけなかったかな、と慌てて話題をそらした。

「昔さ、絵莉ちゃんにピアノ教えてもらったよね。あれ、まだ覚えてるよ」

そう言って、レジから出てグランドピアノのほうへ向かう。きょとんとしながらついてくる彼女ににこりと笑いかけ、僕は椅子に座って鍵盤に指をのせた。

流れ出たメロディーに、あ、と彼女が声を漏らす。僕が唯一弾ける曲。彼女に教えてもらった曲。
たどたどしく二度目のテーマまでを弾き、僕は鍵盤から手を離した。

「……掃除の時間に練習したよね」

彼女が懐かしそうに目を細める。僕は顔を上げ、微笑んで頷く。

「うん。絵莉ちゃんが弾いてるの見て、すごい感動したから」

「あの頃はよく弾いてたな。先生が、絵莉ちゃんのための曲ね、って言ってくれて」

なんだか泣きそうな顔でそう言って、彼女は鍵盤に人差し指をのせた。
ぽーんと奇麗な音が響く。
僕は腰を上げ、彼女に座るよう促した。

「弾いて」

彼女が戸惑ったように瞳を揺らす。

「弾いて」

もう一度言って、できるだけ柔らかく微笑んでみせる。彼女はふっと表情を和らげ、静かにピアノの前に座った。

鍵盤に彼女が指を置く。店内に音が溢れ出す。彼女の手が、全身が、旋律を紡いでいく。僕には絶対に真似できない演奏。憧れた、彼女だけの音。

絵莉ちゃんは、あの頃よりずっとずっと難しいベートーベンの曲を弾いた。僕が拍手を送ると、彼女はまた泣きそうな顔になった。

「やっぱり絵莉ちゃんのピアノはすごいなぁ」

僕が褒めると、彼女は小さくありがとうと呟いて、ちょっとだけ微笑んだ。
また来るね、と手を振って、ざわめく街の中へ出て行った。

一人になった店の中で、僕は彼女の音の余韻を拾い集めて目を閉じる。

今度彼女に会うまでに、もう少し上手く弾けるように練習しておくことにしよう。
あの頃のように、僕の下手くそなピアノを聞いて彼女が笑ってくれるように。

絵莉ちゃんが大好きだったあの曲を。
絵莉ちゃんのために。

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