宇宙少年
「何読んでんの?」
そう隼人に声を掛けられて、平太は机の上に上半身をべたりと乗せたまま、そちらをちらりと見やった。
はたして本当に読んでいるのかと疑いたくなるほどのだらけきった姿勢で両腕を伸ばし分厚い本を広げているそのやる気のなさからは想像もつかないが、これでも理系でそこそこに頭も良い平太に、ほんと意外なんだよなぁ。なんて隼人が笑う。
ご近所で母同士も仲が良く、生まれた時からずっと一緒の隼人と平太。
そんな二人の関係性にあえて名を付けるとするならば、もはや親友を通り越して家族とも呼べるだろう。
そんな気兼ねない二人は高校も同じで、しかし理系と文系に離れてしまった平太のクラスにふらっと立ち寄った隼人は、何やら小難しい顔をして本を読んでいる平太の目の前の空いている席に腰かけた。
「宇宙への行き方」
隼人が平太の読んでいる本のタイトルを読み上げて、マジかよと吹き出す。
「ははっ、へーた、お前宇宙行くの?」
「……ていうかなんで隼人はここに居んの?」
「たまたま通ったから」
「……ふーん」
「なぁ、宇宙に行きたいの?」
「……俺は空に帰りてーの」
「へー、そっかぁ」
まるっきり噛み合っていない会話をそれでもさも気にしない様子の隼人がさすがにそれは無理があるだろ。なんて若干の哀れみを込めた表情をしながら平太を見下ろせば、腫れぼったくも見える三白眼にうっすらと涙の膜を張ったつり目がちの瞳が悔しげに歪んだ。
「という訳で俺は今忙しいから話しかけんな」
何がという訳なのかは分からないが普段とは違い、どことなく突き放した言い方をする平太に、ん? と首を傾げつつ、まぁ今さら彼の言わんとする事を百パーセント理解するのは不可能だと知っている隼人がけらけらと笑いながら、まぁよう分からんけど頑張れ。なんて平太の頭をうりうりと撫で、その髪の毛の上にボスッと何かを置いた。
「うわっちょっ、びゃっ、なに、なに」
体を揺らし盛大にリアクションを取る平太の不細工な顔に、あ、やっぱりいつもの平太だ。なんて歯を見せながら隼人が笑い、まぁまぁそれでも飲んで頑張んなさいよ。と言い残し席を立って教室から出て行く隼人。
その後ろ姿をじとりと見やった平太は、ほんとなに、なんて恐る恐る頭上に置かれたモノを手に取り、それが自分がいつも好んで飲んでいる、理系の教室からは遠い自販機でしか買えないジュースだと知って、一瞬だけ唇をむにむにとさせたあと、また目の前の本を血眼になって読み始めた。
その異質な、けれど至って平太らしいといえばらしい姿は一週間過ぎても、秋が深まる季節になっても変わらず見られ、化学部の実験をしている間もその本を常に平太は小脇に抱えていた。
◇◆◇◆◇◆
「よー宇宙少年、準備は着々と進んでんの?」
にやけた顔の隼人が声を掛けてきたのは、平太が謎の『宇宙への行き方』という分厚い本を三分の一ほど読み進めた頃。
木枯らしが吹き荒れる冬の屋上で黙々と読書に勤しんでいた平太は、フェンスを背もたれにしたままの体勢で隼人をじとりと見やった。
「……今この本と友情を深めてる最中だから邪魔しないで」
春から秋までは賑わう屋上も冬は昼時でさえ人一人居らず、平太の少しだけ赤らんだ鼻先を隼人が見下ろす。
「なんか冷たくね? 俺との友情は深めてくれないのかよ」
なんて言いながらもいつもの、心底楽しいです。と言いたげに歯を見せて笑う隼人を眩しげに、少し苦々しげに見上げた平太は、忙しいから話しかけんなって言ったじゃん。と言いながらまたしても本を読み始めた。
理系だといってもこんな分厚い専門書の内容をちゃんと理解するのはきっと難しいのだろう、平太が眉間に皺を寄せている。
そんな平太と、その手のなかにある呪文めいた文字を盗み見た隼人は徐に屈んだかと思うと、こーいう時には糖分っしょ。なんて言いながらポケットから飴を取り出し、ご丁寧に包装紙まで破いて平太の口に捩じ込んだ。
「むぐっ!?」
驚きに目を見開き隼人を見上げた平太だったが、その丸くなった瞳に映る筈の景色はぼすりと頭から被せられたモノで遮られ見えず、慌ててそれを剥ぎ取れば見慣れた隼人のカーディガンが両の手にぶら下がっていて、呆気に取られていればバタンと遠くで屋上の扉が閉まる音がした。
コロン、と口の中で転がるオレンジ味の甘い飴。
温かいままの、自分のよりも大きなカーディガン。
そんなカーディガンを眺め、
「……はやとのばーか。……ばか……」
なんて呟いた平太は、益々気にくわない。といった様子で眉間に深い深い皺を浮かべ、晴天の空を仰いだ。
◇◆◇◆◇◆
「……空は遠すぎる」
そう平太がぽつりと呟いたのは、雪が溶け始め、花の蕾が芽吹き始める春。
あの分厚い本を机の上に置いて、黄昏に染まる空を教室からぼうやりと見つめていた時だった。
知り得た情報は、どうやら生身で宇宙に行っても体が爆発する事はないし、血液が沸騰する事もなく、ましてや急速凍結する事もないらしい。という事だけ。
それでも結局は酸素が足りず心肺停止したのち、死に至るらしい。
そんな漠然とした情報と焦燥感だけを抱え、そのどうしようもなさに茜色に染まるグラウンドに立てられたポールがきらりきらりと光るさまを椅子に座りながら見つめていた平太は、
「大気圏までは百キロメートルなんだって。そう考えると近い気するけどね」
なんて突然聞こえてきた声に、ばっと後ろを振り返った。
教室の扉の前に立ち、携帯片手にそう言った隼人が、あんなもん読まんでも今じゃあこの小さい機械でなんでも知れるんだぞ。なんて自慢げに携帯を指で挟み、ぶらりと揺らす。
「ほら、帰んぞ」
放課後の夕日に照らされた暗さ滲む教室の中で、一際映える隼人の笑顔。
それにぐっと唇を噛み締めた平太は、隼人のばーか。ばーか……。と悪態をついて舌を出したあと、机の上に置いた本をじっと見た。
宇宙までの行き方。
そんなもん読んだところで人間は到底大気圏すらも超えられないと、そんな事とっくに知っている。
けれども、
「……隼人がそうやって無意味に俺に構うからじゃん」
なんてぼそり呟いた平太に、隼人は一瞬にして真顔になった。
「……は? なに? 俺? お前のその突然の宇宙願望は俺のせいなわけ?」
そう困ったように眉を下げ、どういうことなの、とペタペタ近づいてくる隼人の足音に、ああもう、なんだこれ。と平太は頭を掻きむしりたくなりながら、観念したかのように顔をあげた。
「隼人が居ると、俺は息が出来ない」
静かな教室に、平太の声が落ちる。
らしくないその落ち着いた声は耳障りが良く、その平太の隣に立ち見下ろす隼人の瞳には、当たり前だが平太の顔が映っていた。
「……前さ、お前、クラスの女子に告白されてたろ。それたまたま聞いちゃって。やべーと思ってソッコー帰ろうとしたんだけど、その時さ……、その時……、隼人が好きな子が居るからって断ってるの聞いてから、それから俺の体、変になっちゃったんだよ」
ぼそりと呟き俯く平太の短い睫毛の上を、低い鼻先を、窓から入り込む夕陽がゆるりと走ってゆく。
「それから隼人に優しくされるたび俺なんでか苦しくて苦しくて、胸の奥がチクチク痛むようになっちゃってさ。お前がその好きな子と付き合っちゃったらどうしようとか、笑って祝福できる自信ねーとか思っちゃって。……友達失格だろ? だから俺、ここに居ない方がいいんだ。……そしたら行き先はもう宇宙しかないやん。それに隼人と離れたら、きっと今度はお前とその子の事空の上から祝福できる気がするし」
そう言いながら物凄く不細工な顔でへらりと笑った平太。
だがその顔にふと影が掛かり、……へ、なんて呟いた平太の間抜けな声が、静かな夕暮れを裂いては溶けた。
カタン。と隼人が平太の座る椅子の背に手を付いた音が鳴る。
柔らかな音が小さく二人の間で生まれ、睫毛さえ触れそうな距離に平太が呆けていれば、
「……お前ね、不意打ちでそんな可愛い事言うのやめてくれる?」
なんて視線を逸らしながら呟いた隼人。
その顔が見たこともないくらい真っ赤に染まっていて、キスをされたと自覚した平太が釣られて顔を赤くしながら口をはくはくとさせ、なに!? どういう事!? と目を見開く。
「……鈍感すぎでしょお前。……どんだけ俺がお前にアピールしてきたと思ってんの」
そう未だ驚いている平太に溜め息を吐きつつ、
「……俺が好きなのはバカでアホ面でなにするか分かんなくて、宇宙に行くとか突拍子もない発想するような奴だよ。……だからさ、お前宇宙に行くのやめたら?」
なんて言いながらも頬を擦ってくる隼人のあまりにも優しい指の感触に、待って、罵倒しかされてない気がするんだけど。という言葉は喉の奥でつっかえ、平太はこの動悸も息苦しさも、ここがいっそ宇宙なのではないか。と思いながら、きっともう一度降ってくるであろう隕石のような衝撃的なキスを、それでもぎゅっと目を瞑って待った。
【 宇宙少年は地球の最果てで恋を知る 】
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[mokuji]
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