宇宙少年小話

 

 三日月が美しい夜。
 けれど空は煌々と光る月を覆い隠さんとばかりに雲を垂れ込めさせ、夏の夜とは言い難い淀んだ夜空をぼうやりと眺めていた。
 ちゃぷん、と耳元で絶えず響く水音。
 さきほど金網をよじ登り制服のまま飛び込んだ夜のプールは派手な飛沫で一度夜を裂いたあと、なに食わぬ顔で深い蒼をたたえたまま。
 透明で、けれども蒼で、微かに動けば白の波が立つ水はまるで生き物のようにぐにゃりと揺らめきながらそれでも優しく静かにひたひたと飲み込んでくれるばかりで、ちゃぷん。と響く水音に釣られよじ登って良かった。とゆっくり目を閉じた。

 あと少しすれば警備員か先生に見つかり、きっとこっぴどく叱られ明日は反省文を書かなければならないだろう。
 それでも夏の暑さに勝るこの誘惑には逆らえなかったのだ。と大の字になり、ぷかぷかと浮かんだまま闇をゆっくり泳げばこめかみの辺りで境界線が張られたみたいにゆらゆらと揺れながら少しだけ息が詰まる体が、陸と水に分離されたみたいでなんだか面白かった。

 ジーワ、ジーワ。と遠く近くから聞こえる声。

 この曇天の夜をそれでも変わらず命を奮って鳴いている蝉の声を聞いていればまるで自分自身自然の一部になったかのような錯覚に陥り、ゆっくりと深呼吸をする。
 しかしその瞬間、

「なにやってんのへーた」

 なんて不意に遠くから声がし、えっ、と目を開けた。
 途端一気に夜を裂く金網の音と落ちてきた影が微かな月明かりに照らされ、それが目映い一筋の光みたいに目の前で伸び、ダンッと足が地面に付いた音が水音を消し去る。

 突然の出来事となんだか美しく見えた映像にチカチカと目の前で星が瞬き、呆然とその残像を追っていれば、

「ほんとなにしてんの」

 なんてプールサイドに立ちながら覗き込んでくる隼人の、にやけた顔があった。


 なんだよお前。金網せっせとよじ登ってべちゃっと尻もちついた俺が間抜けじゃんか。なに格好良く登場してくれちゃってんの。なんて言いたい言葉はたくさんあるのにひとつも音にならず、雲から透ける月の光で照らされた隼人の陸上部焼けした髪がさらりと落ちる姿をぼうやりと眺める。

「一人で遊んでんじゃねーよ」

 そうにやりと笑った隼人が、それでも躊躇なく同じ制服のまま、ざぷん。とプールに飛び込んできた。

 途端、白が、蒼が、透明が、きらりきらりと宙に舞う。

 その艶やかで美しい景色が目の前に広がり息を詰めらせていれば、ぐいっと腕を引っ張られ、呼吸するタイミングさえ失ったままどぽんと水中へ引きずり込まれてしまった。


 ごぽごぽっ、と鈍い音が耳の奥でこだまする。
 思わず瞑った目を、何すんだと言いたげに開ければ満面に笑う隼人が居て、その唇の隙間からは小さな空気がこぽりと漏れ円になり上へ昇ってゆく。
 ゆらゆらと揺れる髪が近寄ってきては俺の浮いた髪の毛と絡まり、するりと頬を撫ぜる指は水を纏ったまま冷たくて、近付いた隼人の肩に思わずきゅっと腕をまわしながら夜に沈む蒼のなかそっとキスをすれば、触れた唇はあったかいのか冷たいのか、良くわからなかった。

 それでも独特な匂いのなかで、微かに隼人の香りがした。



 二人が沈んだままのプールは微かな三日月の光をゆらゆらと揺らめかせ、気泡を小さく立たせながらそれでもなに食わぬ顔をして、ただ静かにゆらゆらと生き物のように揺らめいているばかりだった。



【 あと僅か、君と二人で世界からかくれんぼでもしていようか 】






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